藤田医師、より納得できる死の提供を目指す

しかし同時に、


『<より納得できる死>とは何か?』


という話もある。無理やり延命されても苦しみを長引かせるだけだと延命治療を望まない者もいる。そして、本人を苦しませたくないと延命治療を望まない家族もいる。


けれど、かつては<根治の難しい難病>と言われたものも多くが治療可能となり、苦痛を和らげる終末医療も進歩したこともあってか、<安楽死>を望む声はむしろ減ってきているそうだ。


当然か。回復が見込めないからこそ苦痛から逃れるために安楽死を望むのだから、その苦痛が普通に治療によって和らげられるのであれば、当然、『生きたい』という気持ちを持つ者も多いだろう。


<厭世観>により人間として生きることそのものを投げ出したい者でもない限り。


その一方で、この、


<人間として生きることそのものを投げ出したい者>


が安楽死を強く望むという点については、今なお難しい問題として横たわっている。加えて、本気でそう思っている者はそもそも病院に来ようとしないし、それでいていざ自分が傷病により死に直面した時には、


『死にたくない!』


と命乞いをすることもあるので、より一層、判断が難しくなるだろう。実際、自殺を図った者でさえ、本物の<死>を前にした瞬間、生きようとして足掻くという事例も少なくないことも分かっている。


それが、


『本人の意思とは関係なく肉体が無意識のうちにそのような反応をしただけ』


なのか、それとも本当に死に直面して後悔したのかは、本人が亡くなってしまった事例の場合にはもはや確かめようもない。幸か不幸か生き残ってしまった事例でも、その後改めて自殺を図った事例もあれば、人生観そのものが大きく転換してしまったのか人が変わったように前向きに生きるようになったという事例もあり、結局、


『個人によって捉え方は様々』


という時点で止まってしまっているのも事実だった。


けれど、少なくとも、今、藤田医師の前にいるこの間倉井まくらい医師については、今の時点での死は望んでいない。だから生かすための最大限の力を尽くす。


さらに精密に患部の詳細を表示するためのゴーグルを着けた藤田医師のその姿は、一種の<トランス状態>のようでさえあった。


これが彼女の才覚の一端ということなのだろう。目の前のオペ以外の一切を埒外にしてしまえるという。


そんな藤田医師の姿を見て、


『まったく……世の中にはとんでもない人間がいるものだねえ……』


などと他人事のように感心しているが、自身が命に係わるオペを受けつつニーナの出産を見守っている間倉井まくらい医師自身も、やはり普通の人間から見れば『とんでもない』のだろう。


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