アリシア、人間になる?

その事故は、火星に人類が入植を始めてからの重大事件として必ず上位に挙げられる程のものであった。さらに上位となれば、三回に及ぶ火星全土を巻き込んだ戦争と、火星のテラフォーミングのきっかけとなった、ドーム型都市の殆どの住人が死亡した忌まわしい事故くらいになってくるだろう。


だが当時、既に宇宙船の技術は円熟の域に達していて、死亡事故などもう何十年も起こっていない状態だった。にも拘らず、その事故は起こってしまった。しかも、事故原因そのものはいまだに完全には特定されていない。テロだという説もあったりはしたが、それさえ結局は推測の域を出ないものであった。


突然、両親を喪った千堂は、当然、打ちひしがれた。彼は両親にとても愛され、彼もまた両親を尊敬していた。多少の反感を覚えたりしたこともあったが、それは誰しもが通る道だったろう。それ故に、彼はとても苦しんだ。しかし、周囲の支えもあり、やがて自分を取り戻した千堂は、当時JAPAN-2ジャパンセカンド社の役員だった星谷ひかりたにに見出され、技術者としてJAPAN-2ジャパンセカンド社に入社したのだった。それから今日まで、彼はより安全で、より人間を幸せにする技術を、商品を、生み出すことに力を注いできたつもりだった。


戦う為の道具であるランドギアの開発とて、戦闘が避けられないものであるなら最小の損害でそれを終わらせることが出来るものをと願ってより優れたものを作ってきたつもりだった。


そんな自分の前に現れた、<心>を持ったロボット。


最初は、砂漠の真ん中でメイド服を着た少女が笑顔でゲリラを殺傷していくその異様さに戦慄さえ覚え、不気味だと思ってしまった。人間の幸せの為には仕方ないと割り切って作っていた筈の、人間を殺戮する為のロボットの本当の姿に打ちのめされた。ロボットが人を殺すということがどういうものなのかという現実を、分かっているようで分かっていなかったことを思い知らされた。それを千堂に突きつけたのが、他でもない、今は千堂アリシアと名付けられた彼女なのである。


しかし彼女は、決して人を殺すことを楽しんだりはしていなかった。それどころか、本当は人を殺したくなどなかった。彼女はあくまで、ロボットとして人間に幸せになって欲しいと願っていただけだった。彼女はただ、千堂を守る為に自分に出来る最大限のことをやっただけだ。ロボットである自分にはそれしか出来なかったのだから。


だが、人間である千堂を守る為に人間を殺すという矛盾は、ロボットである彼女にとってすらあまりにも大きすぎるものだった。その矛盾は、彼女のメインフレームの中に処理出来ない無数の不正なファイルとなって澱のように溜まり、やがてデータ処理に少なくない影響を与えるに至ったのである。しかも彼女のシステムはそれでもなおその影響を最小限にとどめようと複雑なデータ処理を行うようになり、それがついに閾値を超え、<思考の揺らぎ=心のようなもの>を生じさせたのであった。


もっともそれはあくまで、技術的な面から『恐らくそういうことであろう』と類推されただけの仮説であって、正解かどうかはいまだ解明されていない。だが千堂にとっては、そういう理屈は大事ではなかった。彼女に、自分を守る為にそれほどまでの矛盾に引き裂かれつつ戦ってくれた彼女に<心>があるというのなら、彼女を苦しめてしまったその償いをしたいと思っただけなのだ。


本心では、彼女にもう戦いをさせたくはなかった。だが彼女が自分の傍にいたいと言うのなら、こういうことに巻き込まれることもあるというのも分かっていた。そしてそれは彼女自身も分かっていた。それを覚悟した上で、千堂の傍にいることを望んだ。千堂を守る為ならば、それが人間を守ることになるのならば、例えどれほど苦しくても、彼女は戦うことを選びたいと思った。それこそが自分なのだと思った。


千堂アリシアは、ただの人形ではない。ロボットではない。心を持ち、自らの意志で自分の行動を律することが出来るようになった唯一の存在なのだ。そして彼女は、自らの意志で千堂を守ることを誓った。千堂を守る為に人間と戦うことになるのだとしても、それを受け入れることを決めた。


それを改めて確認した後、千堂の部屋に設けられた簡易のメンテナンスルームで、彼女は眠っていた。眠りながらも、何らかの異常があった場合に即座に対応出来るように機能している部分で、千堂の寝息を聞いていた。落ち着いてゆったりとしたリズムを刻むそれを聞いていると、彼女も深い眠りに入っていられる気がした。


ただその時、ふと、本来は休止状態にある筈の領域で、微かなデータ処理が行われていた。決して大量のデータではない。明確な像を結ぶ程の情報量ではなく、非常に曖昧で、抽象的なものだった。その所為か、彼女は自分の体の情報について正確な処理が行えなかった。何故か、自分の体が人間のそれになっていたのだった。


それは柔らかくて、ひどく頼りない脆弱な体だった。ロボットの腕が当たった程度で破壊されそうな気がした。実際、人間の体などその程度で壊れてしまうようなものである。なのに、暖かくて、途方もない存在感があった。ロボットの体とは桁違いの情報がそこにはあった。休止状態にすれば殆ど何も動かないロボットのそれとは違って、人間の体は常に動いていた。活動していた。エネルギーを欲し、同時にそれを発していた。心臓が絶え間なく鼓動を刻み、血が流れ、数十兆を数える細胞と言う名の動力源が、休むことなく活動していた。


『これが、人間の体…?』


その時のアリシアは、何も身に纏っていなかった。ラブドールのショールームで見た愛錬達と同じ姿をしていた。だけどロボットである愛錬達とは違う、人間の体がそこにはあった。自分にはない筈の、それを連想させる膨らみがあるだけの筈の胸の部分に、柔らかな二つの膨らみがあった。乳房だった。


アリシアはそれにそっと触れてみた。すごく柔らかくて、強く握ったら潰れてしまいそうな頼りない肉の塊だった。けれど、温かい。そして、何故か分からないがすごく愛おしい。彼女はその感触を確かめるように僅かに動かしてみた。不思議な弾力があった。


さらにアリシアはハッとなった。まさかと思って下腹部に触れてみた。すると、自分の体では再現されていない筈の手触りが確かにあった。それに気付いた途端、何だかかあっと体が熱くなった。温度を上げるような操作はしていない筈なのに体温が上がるのを感じた。顔にも温度を感じる。それどころか、本来は温度を感じることのない筈の耳まで熱い…?


胸の中でどきどきと音を立てているのは心臓か? 明らかにそのペースが速い。体が興奮状態にあるということだろうか。


『そうか。これが、恥ずかしいっていうこと…?』


自分は今、裸でいることを恥ずかしいと感じてるんだと、アリシアは思った。人間は裸でいることを恥ずかしいと感じるんだと思い出した。特に胸を晒していることが恥ずかしくて、両腕を絡ませるようにして隠そうとした。そこでやっと気が付いた。自分はどうして、こんなところで裸でいるんだろう?


そう考えた瞬間、周囲の様子が見えてきた。オレンジ色の淡い光にうっすらと照らし出されたそこは、見慣れた部屋。ベッドがあり、机があり、クローゼットがあった。どれも見慣れたものだった。


『ここ、千堂様の寝室…!』


それに気付いた瞬間、声を掛けられた。


「アリシア…」


慌てて振り返ったそこにいたのは……


「千堂様…!」


そう、千堂だった。いつもと変わらない穏やかな表情で自分を見詰めてくれる彼がそこにいた。それなのに、彼もやはり裸だった。すると彼がスッと体を寄せてきて、ふわりとアリシアを抱き締めた。


そして抱き締められた途端、アリシアはさらに自分の体がかあっと熱くなるのを感じたのだった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る