千堂京一、アリシアに感謝する

千堂の症状は、本当に軽微なものだった。救急車で緊急搬送されたJAPAN-2ジャパンセカンド内の総合病院で処置が行われると、翌日の夕方には退院が認められた。しかしその間、千堂に付き添い身の回りの世話をしたのは、千堂アリシアではなく、アリシア2305-HHSだった。


千堂アリシアは、千堂の許しなく私有地の外に出られないからだ。その間、彼女は一人、屋敷で彼の帰りを待った。千堂の様子については逐一アリシア2305-HHSから情報が伝わって来る。元々症状が軽く処置も早かったことで、後遺症の類も全く心配ないということも分かっていた。それでも、彼が大変な時に傍にいられないことは、彼女にとっては何にもまして苦しいことだった。


仕事も手に付かず、何とか始めても時間ばかりかかってしまった。気が付くと彼のことを想って手が止まってしまっていたからだ。千堂が仕事で家にいないのとは、訳が違っていた。だから、夕方には彼が戻ってくるとアリシア2305-HHSから連絡を受けた時には、力が抜けてその場にへたり込んでしまう程だった。


それほどまでに心配なら命令を無視することだって彼女なら出来たかもしれない。私有地の外には出ないという命令を無視して彼に付き添うことだって出来たかもしれない。だが彼女はそうしなかった。何故なら、千堂の命に係わる程の事態ではないということが分かってしまっていたからだ。そこまで重篤じゃないことが分かっていたから、命令に逆らうことが出来なかった。


ただそれでも、万が一のことを思うと不安で仕方なかったのも事実だった。だからロボットなのに神にまで縋ってしまったりしたのだ。とは言えそれは、苦しんでいるのはあくまでアリシアの方であって、千堂ではない。自分が苦しむ程度のことでは、命令を無視することが出来なかったのである。


だがもうそれも、過ぎたことだ。千堂が帰ってくることが分かったアリシアは、それまでの遅れを取り戻そうと仕事に精を出した。そして実際に彼が退院して屋敷に帰って来た時には、彼女の担当部分のは終わり、夕食の用意も出来ていたのだった。夕食は、栄養価も考えつつ消化にも良いブリ大根をベースにした野菜たっぷりの雑炊にした。


よくよく考えてみれば一日だけとは言え千堂が入院したことでテストはどうなるのかといった点も心配な筈だったが、彼女の頭からはそのようなことは完全に抜け落ちていたのも事実。


「ただいま、アリシア。心配かけてしまったな」


アリシア2305-HHSを伴い、ハイヤーで帰宅した千堂を、アリシアは泣きそうな顔で出迎える。いや、この時の千堂の目には、本当に彼女が泣いているようにも見えたのだった。


「お帰りなさいませ、千堂様」


深く頭を下げつつ、変わらず元気そうな彼の姿を彼女は噛み締める。


『良かった……本当に良かった…千堂様……』


そんなアリシアの様子を、アリシア2305-HHSが黙って見詰めていたのだった。




アリシアの用意した雑炊を口にした千堂は、しみじみと言葉を漏らす。


「ああ、本当に美味しいよ。ありがとう。こうしてまたお前の料理を食べられるのは、私にとって間違いなく幸せだ」


結果として軽いもので済んだとは言っても、場合によっては命にも係わり、そうでなくても障害が残る可能性だって有り得る病から無事に生還出来たことを、彼は感謝せずにいられなかった。しかしまさか、自分がこのような病気になるとは。


決して侮っていたつもりはなかった。責任ある立場として健康には気を遣っているつもりだった。だがそれでもこういうことは起こり得る。それを改めて思い知らされた気がした。ただ同時に、こうなる原因に心当たりが無い訳でもなかった。アリシアのことだ。アリシアの例の現象についてずっと思案していたことで、このところ眠りが浅くなっていたり水分補給が若干疎かになっていた可能性はあった。また何よりもストレスがかかっていたことは紛れもない事実。それで体調を崩したのだと言ってもいいのだろう。


と、その時、千堂の頭にあることがよぎった。


『そうだ、これと同じことが何処かで…?』


そんなことを考えながらアリシアの顔を見た時、ハッとなった。そうか、アリシアのあの現象と似ているのか。


それに気付いた千堂の携帯に、着信が。見ると、開発部の主任、獅子倉ししくらからの電話だった。通話をオンにすると、スピーカーから聞き覚えのある声が漏れた。


「よう、くたばり損ない。地獄の閻魔にも嫌われたか?」


遠慮のない悪態。まぎれもなく獅子倉本人だった。千堂が渋い顔をして応えた。


「何度も言うが、私とお前は同期だが、年齢は私の方が上でしかも上司だ。お前ももういい歳なんだから礼節というものをわきまえてだな…」


それはいつものお返しだった。獅子倉が悪態を吐き、千堂が小言を返すこのやり取りが、二人の定番の挨拶だった。だがこの日は、仕事関係以外でいの一番に自分に電話を掛けてきたのが彼だったことに、千堂の口元が思わず緩んだ。会社の回線ではなく、彼の個人の携帯からの着信であったことが、プライベートであることを物語っていたのだ。病院にいる間に社長の星谷ひかりたにからも電話があったが、そちらはやはり仕事としてのものという意味合いが強いものであった。


自分の携帯を見詰める千堂の表情が、ふっと和らいだ。


「だが、ありがとう。こうしてお前の悪態を聞けるということは私は生きているんだということを実感するよ」


それはこの時の彼の正直な気持ちだっただろう。それに対し、獅子倉の態度はあくまで不躾で容赦がなかった。


「ふん、お前に礼とか言われたって嬉しくねえな。それよりもお前のアリシアのことだがよ」


まあ、この男が単に見舞いの為だけに電話を掛けてくるとか殊勝な心掛けをしてないことは分かってたが、アリシアの名前が出たことにはハッとなった。


「例の現象、こっちでも解析してみたが、やっぱりストレスの蓄積と解放だってのがおおよその結論だな。ま、分かっちゃいたがよ」


その言葉は、千堂自身の推測を裏付けるものであった。


「それはつまり…?」


そう問い掛ける千堂に、獅子倉は面倒臭そうに言った。


「要するに、ずーっと緊張しててそれがぷつんと切れて、開き直ったってこったろうよ。システム的なトラブルとかじゃねえ。人間と同じ、心理的なもんだ。何しろあいつには、心があるんだからよ」


ロボットの専門家としては実に無責任でいい加減な結論かも知れないが、明確な結論を得ることが出来ないのが<心>というものであるとするなら、それはまさにそうとしか言いようがないものだということに他ならなかった。


「人間だって精神的なことが体にまで影響することがあるんだ。心のあるロボットなら同じことが起こっても不思議じゃねえだろ?。それでお前も今回、プッツンきちまったんだろうが」


それは、千堂の病状についての獅子倉の見解であった。アリシアのことを気にし過ぎてそれが思った以上に体に負担になってたんだろうと言っているのだ。デタラメにも思える話だが、あながち的外れでもないと千堂は思った。だから、「そうだな」と呟いてしまったのだった。


そう、考え過ぎて、心配し過ぎて、体の方に負担を掛け過ぎてしまったのだ。自分も、アリシアも。しかし自分は休んで適切な対処をすればまたこうやって普通にしていられる。ならばアリシアだって同じことだろう。ストレスが溜まってきているのなら、そのストレスを取り除いてやればいい。今それが最も効果的に行えるのは、自分だ。ストレスが限界を超えた時に千堂に抱き締められたことでそれが吹っ飛んだのだ。自分でも知らぬ間に、彼女にとって最も効果的な対処をしていたのである。ならば次に彼女のストレスが溜まってきていると感じられた時には、また抱き締めてやればいい。それで彼女が治るのなら安いもの。


それに彼女にはまた助けられてしまったのだからな。そのお礼もしなくちゃならない。


すっと立ち上がり、傍らで待機していた彼女を、千堂はそっと抱き締めて、言った。


「ありがとう。アリシア。愛しているよ」


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