アリシア2305-HHS、アリシアを叱責する

テストの滑り出しは、拍子抜けするほどに順調で静かなものだった。元よりテストと言っても何か特別なことをする訳ではない。単純に、アリシア2234-LMN-UNIQUE000こと千堂アリシアと、アリシア2305-HHSをいつも通りに運用するだけだ。そして何もトラブルが起きなければ合格となる。だが、その『何もトラブルが起きない』というのが何より困難なのである。


しかも厄介なのが、『特別な対応をしてトラブルを回避したのでは意味がない』ということなのだ。例えば、アリシアが自らの機能をぎりぎりまで制限してトラブルを招くような挙動をしないようにしたとする。それならば確かにトラブルは起きないかも知れないが、逆にそれではアリシアの方が普段通りのことが出来なくなってしまうから、厳密には同時運用とは言えなくなってしまう。あくまでどちらも通常の状態で運用しても事故が起こらないということでないと駄目なのであった。


テスト初日は、機能の制限はしていないものの人間で言うと緊張しどこか普段通りの振る舞いではなくなってしまっている可能性があった。アリシア自身も意識しないうちに自らの行動を必要以上に抑えてしまっている可能性が少なからずあったのだ。人間で例えるなら、<猫を被っている状態>と言えるだろうか。実際、アリシアはテストを意識し過ぎているのか、普段の作業の効率がさらに低下しているようだった。時間がかかってしまっているのだ。作業のスムーズさが普段以上に失われているものと思われた。


もちろん、そうしようとすること自体は決して悪いことではない。自らを律して余計なトラブルを避けようと気遣いを見せるのはむしろ良いことだ。とは言え、それが意識しなくても常にそういられるのならいいのだが、やはり単なる猫被りや付け焼刃ではいずれボロが出ることもあり得る。そのボロを出してしまってもなおトラブルが起きないかどうかを見るというのも重要な点なのだった。だからまだまだ安心は出来ない。むしろこれからが本番と言えるだろう。


とは言え、アリシアは頑張っていた。問題なくロボットとしての仕事をこなせるようになろうと頑張っているのはひしひしと伝わってきていた。トラブルにならないように気を付けることに意識を奪われもたもたしてしまったりもするが、努力は確かに見えている。千堂もそういう部分については評価したいと思っていたし、出来ればこのまま何事もなく期間が過ぎてくれればいいとも思った。しかしこれは、トラブルが起こるならどういう状態の時にトラブルが起こるのかということを見るテストという一面もあった。合格はさせてやりたいが、多少のトラブルなら起こってくれた方がデータとしてはより意味のあるものとなるという一面があるのも事実だった。


『私は最低だな……アリシアの合格を願いながらもトラブルが起こってくれることも望んでいる。元技術者としてのさがというものか……ごめんな、アリシア…』


賢明に自らの仕事をこなすアリシアを見ながら、千堂は心の中で詫びていた。そしてそれは、テスト開始から一週間が経った時に起こってしまったのだった。


その日もアリシアは、頑張っていた。取り立てて問題もなく、しかしやはり作業効率の方は相変わらず高まらなかった。いや、それどころか下がってさえいるようだった。そしてそれは彼女も気付いていた。そのことが彼女自身のストレスになっていたようだ。自分でも仕方ないとは思っていても、これが自分なんだと割り切ろうとはしていても、やはり巧く出来ない自分のことは決して愉快なことではなかったのである。ただのロボットならそんな自分の不調のことも気に病んだりしないのだが、彼女はそうじゃなかった。


『私は、やっぱり駄目なロボットなのかな…』


仕事中もそんなことを考えることが多くなり、しかもそうやって余計なことを考える所為で余計に作業の効率が下がり、それがまた自己嫌悪を生むという悪循環に陥っていたのである。


そしてついに、本来なら有り得ないことだが、彼女は身体機能にまで変調をきたしてしまったのだった。まずそれに気付いたのは、アリシア2305-HHSであった。


人間では気付きにくい微かな変調も、ロボットならデータ照合で分かってしまうのだ。


風呂の清掃に向かう為に廊下を歩いていたアリシアを、アリシア2305-HHSが呼び止めた。


「アリシア2234-LMN。止まりなさい。あなたは今、変調をきたしていますね。直ちに作業を中断し、千堂様の指示を仰ぎなさい」


だが、アリシアは、アリシア2305-HHSの命令に従わなかった。アリシア2305-HHSの方を一瞥しただけで、彼女が何を言っているのか理解出来なかったかのようにまた歩き出したのである。その姿はまるで、夢遊病者のようであった。


「再度警告します。アリシア2234-LMN、止まりなさい! 止まらなければ暴走状態にあると判断し、実力をもって停止させます!!」


自らが発している言葉が警告であるということを強調する為に発声を調節し、音量を上げ、強い口調でアリシアに対して言葉を投げかけた。それはまるで、自分の指示に従わない後輩メイドを叱責する先輩メイドのようであった。


その声は、トレーニングルームで汗を流していた千堂の耳にも届いた。


『まさか!?』


彼の全身に緊張が走り抜けた。ロボットが警告を発するというのは決して軽いことではない。非常にマズい事態が起こる寸前ということなのだから。だが、廊下に飛び出した千堂が見たのは、ふらふらと体を揺らめかせ、腰が抜けたようにその場に座り込んでしまうアリシアの姿だった。


アリシア2305-HHSは、その場から動いていない、何もしていない。何もしていないのに、アリシアの方が勝手に機能停止に陥ってしまったのだった。


「その場で待機。指示を待て」


目の前で起こっている状況に戸惑っているかのように立ち尽くすアリシア2305-HHSに対し、千堂が待機を命令した。アリシア2305-HHSにしてもどう判断してよいのか迷い、軽いフリーズを起こしていたのだろう。千堂の待機命令のおかげで思考のループから脱し、静かにその場で待機出来るようになった。


それを確認した千堂は、床に座り込んで呆然とするアリシアを抱きかかえ、その様子を見た。だが彼女は、千堂が自分を抱いてくれていることさえ気付いていないかのように、焦点の合わない視線を前に向けているだけだった。それを見た千堂の背筋を、冷たいものが走り抜けた。まさか?と思った。まさかこれが、想定されていた<ラグ>なのか…? もう症状が出たというのか…?


「アリシア、しっかりしろアリシア!」


無論、それがラグであればいくら声を掛けようが何を入力しようがかえって処理に時間がかかる結果しか生まない筈だが、それでも千堂は声を掛けずにいられなかった。彼自身、無意識のうちにそう叫んでしまっていたのだ。


と、その声が届いたかのように、アリシアの目に意志の光が戻った。はっきりと彼を見て、そして言った。


「あ、千堂様。おはようございます」


と状況に合わないことを言ってしまったその直後、ハッとした表情をして改めて言った。


「え? あ、私、どうかしたんですか? やだ、どうして千堂様に抱き締められてるんですか?」


何が起こっているのか理解出来ずに混乱はしていたようだが、少なくとも思考は回復したようだった。そんな彼女を見て、千堂は思わずさらに彼女をぎゅっと抱き締めた。


「良かった……無事だったんだな。本当に良かった…」


結論から言えば、この時の彼女のそれは、ラグではなかった。いや、ラグと言えばラグだったのだが、不正ファイルが限界を超えた時に発生するであろうと想定されていたそれではなかった。そして結果的にこれが、アリシア2305-HHSとの間に起こったかも知れない事故を回避することに役立ってくれたのだった。


後に判明することなのだが、これは彼女自身が他のロボットとの事故を回避する為に自ら編み出したセーフティだったのであった。


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