第2話 早く大人になりたいと思った思春期
中学になっても、相変わらずの毎日で、家族を避けて、できる限り部屋に閉じこもっていました。
学校ではそこそこ友達もできましたが、それでも何か感じる違和感。親友などとゆう友人はなく、一緒にいる友人とも何か違う感じがしていていました。
中学は特にいじめにも合わずに済んだので、それでも平和だった気がします。家にさえ帰らなければ。
母の食事で覚えているのは、煮物と近所のスーパーの安いコロッケです。自分が肉が嫌いらしく、当時は高かったせいもあり、肉類を食べた記憶がありません。焼肉なんて、ありえない。
父方の祖母がお金を持っていたので、外食やオープン時のディズニーランドも、祖母に連れて行ってもらいました。
海外旅行なんてあるわけないし、年に1度、父の会社の保養所が安いので、連れて行ってもらったことはありました。
流石に旅行先で暴れたりはしなかったので、行きました。それだけです。中学に入ると行くことはなくなりました。
親に勉強を教わることも無く、中学でみんなが通っていた塾にも行かせてもらえず、独学でした。
塾に行かないことで、みんなとの会話に入れないこともありました。
高校も、行きたかった私立があったのですが、そんなお金はないと言われて、県立高校しか望めず、周りの友人達が塾で成績をあげる中、必死に1人で勉強しました。
負けず嫌いもあり、かなり努力しましたが、偏差値高めの学校は、私の実力ではギリギリで、あきらめてランクを下げた学校に受かりました。
大学に行きたかったのですが、今みたいに色んな情報が簡単には手に入らず、奨学金制度を親も教えてはくれないのでしるよしもなく、国立で入学金のみ払ってやるから、それなら行けばいいと親には言われ、あきらめました。
働きながら学費を払うとか、それ以前に、国立に塾にも行かせて貰えないのに受かるわけが無いとあきらめてしまい、高校入学後はあまり勉強をしませんでした。
今みたいに、色んな情報があればとも思いましたが、いずれにせよ塾にも行けないようでは無理だったと思います。私の実力では。
普通に塾に行き、大学を目指す子達が羨ましかった。私はなんでこんなうちに生まれたのだろうと、思わない時はありませんでした。
父は相変わらず酒を毎日飲み、ゴルフをし、母は対してお金にならないパートにしか行かず、自分のものは買い、それでお金が無いと言い続け、塾すら行かせてもらえない。
恥ずかしくて、学生の頃は周りに言うことすら出来ませんでした。
高校は服も昼食代も自分で賄っていたので、毎日バイトをしていました。極力家にいる時間も減らしたかったので。
そんな中、高3になって、またいじめにあってしまいました。
グループの1人が、ある朝突然無視してきました。
その当時は、なんだかわからず、そのうちグループ全員が無視し始め、いつの間にか知らないやつにまで、無視や罵声を浴びせられるようになり、黒板の落書き、靴の中の絵の具、どんどんエスカレートしていきました。
家にも居場所がなく、また学校の居場所も奪われました。
いじめの恐ろしさを知りました。本当に酷かった。
初めて、本当に死にたいと思った時でした。
原付バイクを乗っていたので、対向車にツッコミましたが、バイクだけが車の下敷きになり、私はかすり傷だけでした。
その時、死ぬのは怖いと思いました。
死ぬのは無理だと思い、親に相談して学校を辞めようとしましたが、父は学校を辞めるようなやつは人間じゃないと言い、辞めるなら家を出ろと言われました。
学校に相談すると、担任にはいじめられるようなお前が悪いと言われました。
また、生きていることが辛くなりました。
現代なら、今みたいに自分が大人なら、自分が親だったら、子供にそんなこと言わないし、学校に抗議して問題にしてやるのにと、どれだけ憤りを感じることか。思い出す度に、今は悔しくてたまりません。いじめたやつにも、親にも、担任にも。
ただ、その時の自分はまだ、誰も味方のいない子供でした。ただただ傷つき、苦しみ、地獄の毎日だったことを今でも鮮明に思い出します。
そんな自分を救ってくれたのが、今でも時々連絡を取り合う友人と、その周りの友達たちでした。
友人は、過去に自分もいじめにあい、辛さを知っているし、だからこそ許せない、そう言って自分たちのグループに招いてくれました。
オタクと言われ、あまり周りが歓迎しないグループでした。
私は、本当の良い人とはどうゆう人か、初めて知りました。
その友人達のおかげと、バイトでしりあった彼ができたおかげで、死ぬ思いをしながらも、卒業まで乗り切れました。
友人と休みは新宿の、当時はディスコで朝まで踊ったり、渋谷で遊び始発をマックで待ってみたり、彼は時々学校に迎えに来てくれて、ドライブに連れて行ってくれて、生きてて良かったと思わせてくれました。学校で、家で、どんな目にあっても、わかってくれて、助けてくれる友人と彼がいてくれたことが、あの当時は生きる支えでした。
それと、尾崎豊の曲に救われていました。
泣いては聴いて、聴いては泣いていました。
今でも、聞くと歌いながら泣いてしまいます。
ただそんな私を、親は不良としか見ていなかった。家に寄り付かないのは、自分たちのせいもあるなどと、欠片も思っていませんでした。更に父の私に対する当たりが強くなっていました。
卒業したら、早く働いてお金を貯めて、家を出ようと、ひたすら思う毎日でした。
早く大人になりたいと、思っていました。
働くのも、いじめにあったせいで人間不信、特に女性に対しての不信感が強く、選ばなくてはと、人の少ない、女性も少ない職場をその時から選んで働くようになりました。
これは一生続くことになります。トラウマになりすぎました。
ただ、そこには他にも要因がある事を、40過ぎて知ることになります。
夢も希望も未来も、まだこの時は抱けていたような気がします。
社会の現実が見えていなかった。家から逃げても、家族の現実は何も変わらない、それこそいい結婚相手にでも合わなければ、幸せなんてそう簡単に手に入れられる社会では、まして大学も行けず、女性で、親に金も力もなければどうにもならないことを、知ることになります。
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