人食いの血を引いた僕と、人を食ったような眠り姫。
眠り姫が出会った王子には、人食い鬼の母親がいる。
グリム版の『イバラ姫』ではその言及のあるエピソードは
ここで僕が気になったのは、王子の母親が人食い鬼だったことでも、その後日譚の残酷さのどちらでもない。息子の王子が人食い鬼の血を半分引いているということだ。
ペロー版でも、このことには一切の言及がない。描写を読むからに実の母親ではないかと推測できるにしても、結局その言及をされないまま話は終わっていた。
王子の父親は人間だが、母親は人食い鬼だ。二人が結婚した理由としては、父親の方から母親の財産目当てで結婚したのだと書かれていた。
まあ、そこらへんはなんでもいい。僕としては、ここからが本題だ。
人食い鬼の血を半分引いた王子は、果たして人と人食い鬼のどちらなのだろうか?
その後の王子に、食人衝動はなかったのだろうか?
それがあったとして、王子はそれを自制できたのだろうか?
所詮は童話、フィクションじゃないか。まあ、そう思うかもしれない。
どうして僕が、そんなことに悩まされなければいけないのか。それは僕が同じだからだ。
僕の母親は――
チャイムが鳴り、昼休みになる。
クラスの各々が食堂なり弁当なりで方々へと動くなか、僕は一切席を立たずに鞄から弁当入りのトートバッグを取り出した。
一人飯というのは慣れると案外気楽なもので、みんな案外なにも言ってこない。裏で何を言われてるかは知るよしもないが、それでも表立ってその言葉を聞かないだけありがたかった。
トートバッグから黒い箱型の二段弁当を出す。蓋を開けて、箸を取って唐揚げに伸ばす。
隣の席の眠っていた女子が目についた。僕は少し迷いながら、隣の席へ声をかける。
「あの」
「……んっ」
気持ちよさそうに眠っている。授業の間じゅうも眠っていたが、オールでもしているのだろうか。
どうしようか悩んで、彼女の机を指でとんとん叩く。
「おーい」
「……すぅ」
声を少し大きくしても、全然起きない。
もう放っておいてもよかったが、とりあえず最後のチャンスだ。周囲の視線を確認して、隙を見て彼女の肩をそっと叩く。
「あ、麻倉さん!」
「……あ、え? なに?」
彼女はようやく目を覚ました。
さりげなく手を引っ込めて、なんの気なしにまた箸を持ち始める。
「なに? じゃなくて。もうお昼休みだけど……」
「ああ、本当だ。ごめんね、ありがとう」
彼女はわたわたと鞄から黄緑のトートバッグを取り出し、机にとんと置く。
彼女は普段通りの動作で弁当箱を開いていく。起きる時間は気まぐれなため、彼女を起こすようなことをしたのは今日が初めてだ。
「
「ま、まあ、うん……」
いきなり話しかけられ内心焦りながら、それを隠すように素っ気なく返す。
「そっちも……いつも一人だね?」
「……いやまあ、ちょいアレだもんで」
喧嘩でも売られたのかと
僕の場合、自分から距離を取っているうちに誰も寄らなくなった。ちょっと付き合いが悪いと思われているだけで、それで特にいじめが起こっているわけでもない。ただちょっと、見えない壁があるだけだ。
もちろん、そうするための理由はちゃんとあるのだけれど。
「アレってなに? 中二病?」
面識がほとんどないのに失礼すぎる。そう思ったが、こっちは度胸はないので言わないでおく。
「……人と距離取っておきたいだけだよ。疲れるから」
「あ、わかる。わたしもみんなと合わないんだよね。むしろあっちの方から距離取られちゃうんだけど」
自覚はあったのか。
そう思いながら唐揚げを口に放り込み、もそもそ咀嚼する。口の中のものをすべて呑み込んでから、間を埋めるように問いを投げてみる。
「そういうそっちは、夜にちゃんと寝てないの? いつも授業中寝てるけど」
「いつもは寝てないよ」
「そうなの?」
「たまに寝てるだけ」
「たまにでも寝るもんじゃないと思うけど……」
「そう言われても眠くなるんだよねぇ……気がついたらフッて……」
こてんと倒れる素振りをする彼女を横目に、弁当を食べ進める。
人が見ていると意識するとやけに動きがこわばって、口に入れた白ご飯の粒が気管に入った。声を押さえて咳き込みながら、水筒を開けて一気に飲む。
「さっきむせた?」
お茶を飲んでふうと息をついたところで、麻倉さんがくすっと笑いながら訊いてきた。こんな態度でただされると、素直に答えたくもなくなる。
「茶飲んでただけだよ」
「嘘だぁ。絶対むせてた」
「気のせいだよ」
「なに? 小栗くん意外と意地張るタイプ?」
「別に、そんなんじゃ……」
話すのはあまり慣れてなかったはずなのに、意外と話が弾んだ気がした。あくまで、自分基準ではあるけれど。そうしてそれは、どこかこころよいものだった。
話のあいだじゅう、何度か彼女の肩を叩いた時の感触を思い出した。
制服越しに触れた肩の感触は、ちょうどいいほどの柔らかさがあった。そう考えてから、どうにかそれを抑え込む。
それをやったら、今までのすべて努力がふいになる。そう心の中で何度も唱えて、浮かんだ雑念を打ち払う。
僕のなかの血の半分には、何代にも受け継いだそんな血が流れている。
そのためか、幼い頃から母親はたびたびこんなことを言っていた。
「人を食おうとしないよう、常に気をつけなさい。じゃなきゃ、普通の世界にいられなくなる。あなたには、私の血が半分流れているから」
幼い頃は嘘だと思ったが、母親の真剣な表情を感じ取った時についに悟った。これは、本当のことなんだと。
そうして自制し続けて、今日彼女の柔らかさを指に感じた。そうして、考えてしまったのだ。
ああ。彼女の肉にかぶりついてみたいな、と。
放課後になり、早々帰る準備をする。部活動にも所属していないため、このまままっすぐ家に帰ろう。
そう思っていたところで、麻倉さんが僕の前に立つ。
「一緒に帰ろ」
のほほんとした調子で、彼女はそう言った。
「なんで?」
「なんでって……特に理由はないけど」
「僕はいいや」
椅子から立ち上がり、彼女のわきをすり抜ける。このまま彼女の近くにいると、こっちの自制がきかなくなってくる。
早足で廊下に出たところで、手を握られる。麻倉さんが走って追いついてきたのだ。
「……離してよ」
「せめて理由くらいは欲しいよ」
「むしろ、ほとんど初めて話したような麻倉さんと帰る理由が分からない」
手の柔らかさを感じるとともに、ぞくぞくと感触が走る。
戸惑っていたところで、彼女が小さくふっと笑う。
「もしかして、女子と帰るの恥ずかしい? そういうお年頃?」
「無駄に冷やかされたくないんだよ」
「今この状況が恥ずかしくない?」
「自覚してるなら離しなよ」
「いや、別に――」
言いかけて、麻倉さんはなにかを察したのかすぐに手を離す。当然だ。僕だって、さっきから視線を感じて恥ずかしい。
振り向くと、そこには恥ずかしそうに口を手で隠した彼女がいた。
「でしょ?」
「…………」
彼女が黙り込むのを見て、その隙に帰ろうと
ブレザー越しとはいえ、柔らかな胸が当たっている。
「あの……麻倉、さん?」
「……恥ずかしいでしょ?」
「むしろそっちが恥ずかしくないの?」
「小栗くんが恥ずかしい方が大事だよ。それで、どうなの?」
僕は答えず、そのまま急いで前に進む。階段には下りづらいし、やたら
だけどなにより困るのが、近くで彼女の柔らかな感触に触れているところだ。こういうのは胸が当たって思春期の性欲を煽るものだが、僕の場合はなにか違うものが勝っている。
彼女の触れた柔らかな肉のすべてにかぶりつきたくなっている。新鮮な食べ物を見て食感を想像するようなもので、それは確実に普通考えてはいけないことだった。
唾が口の中に溜まっているのを感じた。僕はそれを飲みこんで、せめて帰るまで耐えてくれと思い続けた。
「小栗くん、緊張してるの?」
「…………」
「もしかして、スケベなこと考えていた、とか?」
「……………………」
「実はベッドの下にえっちな本があったりとか――」
「……ごめん」
「え……?」
さいわい、そこは誰もいない小道だった。
気がつけば、麻倉さんをフェンスに押し飛ばしていた。そうして無意識に彼女の肉にかぶりつこうとしてしまい、すかさず自分の左手を噛みつかせる。僕の顎はどうにも制御がきかず、たとえ自分の手であっても噛み切ろうとしている。
痛みが走る。そのうち血が出るんじゃないかって、そんなことを考える。
「え、なに……なにやってんの……」
彼女はわけもわからずといった様子で、声がどこか震えている。
口に手が咥えられていて答えられない。どのみち、これを外すのは危険だ。
「えっと……なんかの冗談? ではなさそうだけど……どうしたの?」
僕はこのまま深呼吸をして、精神状態を整えようとする。どうにか衝動が収まってきて、左手を噛む力が弱まっていった。
「もしかして怒らせちゃった、とか? でも、そんなの……」
麻倉さんは泣きそうだった。だから僕も、いますぐこの醜い衝動を止めようとする。
しばらくして衝動はどんどん
「……ごめん。今から僕の秘密を話す」
「秘密……?」
「僕がさっきこうなった理由……僕が君から離れたかった理由だ。それを知ったら、君はもう近づいてこないだろ……」
こわばる顔で息を飲む彼女に、僕も覚悟する。
これを聞いて彼女がどうなるか。それを考えるとどうにも怖かった。
「僕は――」
憂鬱な気分のまま、下駄箱で上靴に履き替える。
あの後、麻倉さんはなにも言わず帰っていった。無理やり押し飛ばして食らいつこうとしていたとあって、かなりショックだったのではないかと思わなくもない。
僕は絆創膏を貼った左手を見つめて、ため息をつきながらとぼとぼとした足取りで廊下を歩いていく。このまま教室につかなければいいとも思わなくもなかった。
しかし日頃の習慣というものは時に残酷なもので、意外と早く教室に着いてしまう。僕はがらりと教室の扉を開ける。それは、いつもよりどこか重みがあった。
麻倉さんの顔をまともに見れない。早歩きはしつつ、どうにか存在感を隠すように席に座る。どうにか、彼女と接触することないよう、慎重に行動する。
「おはよう、小栗くん」
椅子からずり落ちかけた。不意打ちのようにかけられたその声に驚いて、思わずその方を向いてしまう。
「どしたの、そんな驚いて……なんか、バカみたいだよ」
麻倉さんは隣の席でこっちを向いて、くすくすとそんなことを言った。相変わらずの不躾な物言いに、どこかほっとする。
それでも、僕はそれを訊く必要がある。
椅子に座り直して、僕は彼女にそれを訊いた。
「君は、麻倉さんは……怖くないの?」
「……まあ、正直びっくりしたよ。それでも……小栗くんはこれからも、絶対食わないだろうなって。小栗くんは小栗くんのままって、そんな気がするから。それより、左手は大丈夫?」
けろりとした調子でそんなことを言う彼女に、僕は思わずふき出す。
「なにそれ。昨日初めて話したばかりでしょ」
「それに、まんざらでもないんだ。形はどうあれ、誰かに強く求められるのって初めてだから。だから……そういうの、ありがたく受け取っておきたいから」
「……ありがとう」
そんなやり取りのあと、お互いによそよそしく前を向く。
前の黒板では、クラスメイトが僕と麻倉さんの名前で相合い傘を描いていた。僕はうろたえるあまりに大仰な音を立てて席を立ち、黒板の前へと向かう。その後ろで、麻倉さんが聞こえるほどくすくすと笑っていた。
眠り姫が出会った王子には、人食い鬼の母親がいる。
そしてそれは、王子が人食い鬼の血を半分受け継いでいることでもある。
『眠りの森の美女』の二人があの後どうなったか、結局物語のなかでは明らかにされていない。悲惨な結末を迎えているかもしれないし、案外そうでもないかもしれない。
それは誰にも分からない。
ただ、僕たちはどうにかやっていける気がした。根拠はまるでないが、ただそんな自信があった。
この、どうにも人を食ったような眠り姫と一緒ならば。
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