人生は私に向いていない

エッセイまとめ

私は二人も居ない

1.錆加工など

レコードの優しく燃えるようなノイズを綺麗に消そうとするのはやめて頂きたい

暖まりたいのだから暖炉の火は消してはいけない

火じゃなくて、布がゆらめいてるだけの暖炉は全く違うものなのだから



2.言葉

宿題の為にだけ文字を使う訳では無い

音も着いているのだから、その強さを「知らない」と掃き捨てるのは些か無理が過ぎる


薬というものは毒を希釈して作っているのだから、毒のまま人に与えては駄目だし、摂取するのもお勧めしない

従って、社交辞令は必要不可欠だと感じる


外国には建前はないと言われているが、そんな事は微塵もない

建前と嘘は同じであって、同じではない

そのものに、思いやりが内包されていようと、結局は他人が全てなのであるから、こちらが幾ら思いやりで「本音」のみで分かり合おうとしても、相手にはあなたが檻から出た虎に見えるかもしれない


文字は音が着いていないお陰で(着いていないせいで)二極化しやすいのではないか

角を削り、棘を削ぎ落とすことも、散弾銃にし、トリガーをナイフにすることも可能であるのだから



3.寝具

寝具の枠組みなどは大きさを一律に揃えて欲しい

これは個人的な我儘に他ならない(今までの全てがそうではあるが)

マットレスと枠が合わないのだ

サイズを確認し、ぴったりより少し余裕のあるサイズ選択をしたのだ

橋を叩いて用心していると思い込んでいた

もはや嫌がらせではないのか


ここで確認しておきたいのだが、ベッドなどの寝具を組み立てるという行為には、模様替えや引越しをしたという背景があるだろう


ということはその寝具の組み立てが任意の時刻までに完成しなければ、床で寝るなどの代替案を強いられるだろう


なぜなら寝具は家具の中でも一二を争う程に大きいからだ


そこで、やっとのこと完成した

と思ったらマットレスの大きさが合わない


おかしい、店頭で見本を見て採寸をしてそのものを買ってきている筈なのに

マットレスもその見本に使われているものと同じものの筈なのに


おかしい、が、これに共感する人間はいないだろう 私以外でやらかした人間を見たことが無い


もしかしたら私と同格になりたくないがために言っていないだけ(そうでなくても別にこんな事他人に話す必要は無い)なのかもしれないが、マットレスなどやすやすとふたつもみっつも買えるようなものでない(金銭的にも収納的にも)ので、必然的にクーリングオフなるもので事を済ますか、観念し新しいものを買うか、その少し大きい/小さいマットレスのまま一生を過ごすという人生を強いられる


家具店側もそんな頭が良いとは言えない行動をする客に割いてる時間は無いだろうから、私は今も枠に対して少し大きいマットレスに臥して自分の情けなさに嘆いている



4.脳

脳はもう少し頑張った方が良いのではないか

哺乳類などに限らず、他の生物を貶す意図はないが、人間は脳(の表面積?)が他の動物に比べ大きい(広い)

それ程の恩恵を受けていても、今なおその僅か数パーセントしか主に使わずこのような文をのたまってたりするのだ


流石に如何なものか

100パーセント使えと言っているのでは無いのだ あと2~3パーセント活動域を増やしてくれれば(「くれれば」とほざいているが、自身のことである)、人類は、頂点に到達するまでには至らないかも知れないがもう少し違った未来があったのではないかと思う


人間に失望しているわけでも貶している訳でもない

むしろ2~3パーセント可動域を増やせるのが私だけでも良いのだ

どんな未来が待っているのか知りたいだけであるのだから


そのようなものをテーマにした日本のSFサスペンスドラマがあった

私が人間(というより動物)の脳は数パーセントしか主として使われていないという情報を耳にしたのも、そのドラマが最初である


その程度で今のような生活ができているのだから別に良いでは無いか


そう、それで良いのかもしれない

発展したとてそれはなるべくしてなった運命なのならもう関係ないのかもしれない


しかし、数秒だけでもいいからこの世の全てが理解できるようにならないものか

別段、理解したとてその先には何も無いが



5.希死念慮など

夜に限ったことではないが、人が死にたくなるのは何故だろう


自分の進む道を見失った時や、立ち直れなくなるほどの衝撃を与えられた時などが例に挙がるだろうか


死にたいという言葉に少しばかり色々な感情を詰め込みすぎた結果かもしれない

漠然とただ「消えたい」と願う事もある


倒れてそのまま立ち上がれずに焦ったり自身の非力さに喘いだり

もがいても一向に一抹の光さえ見えない状態を強く悲観したりする


立つ必要が有ると信じるから焦るのだろうし、光が見つからないと地(足?)を踏みはずすかも知れないという恐怖からもがく腕に力が入るのだろう


最近ふと気がついたが、たんぱく質が熱されて変性したら殆ど場合元には戻らないのと同じ様に、人も苦/楽を一度刻みつけられると「何も知らなかったあの頃」に戻ることが出来ないのではないか


それを踏み台とするか枕にするかはその人次第であるし、ましてやそのどちらかにしなくてはならないと他人から(または私から)強制される筋合いは更々ない

踏み台にすれば、過去にそれを乗り越えたのだからと楽観視出来るかもしれないし、台の脚が思っていたより貧弱で崩れて尻もちをついてしまうかも知れない


畢竟、好きなように生きていいのだなと、

安易に足がかけられる場所に帰着してしまった

好きなように生きねばならない訳でもない

生きる事を強制されて「生きなきゃいけない」のもまた一つの例なのではないか


自分でも細部までハッキリとしていない感覚・感情を他人にぶつけても無駄なだけだろう

排他的にはなりたくないが、弱くて情けない私はそうやって自分を言いくるめて生きるしかない


私を踏みつけて進むのも自由だし、

私を言葉等の一刺しであの世に送るのも自由

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る