第14話 希望の消失

 

 デルフは後ろが光ったのを感じたと同時に耳に響く遠吠えが聞こえた。

 

 後ろを振り向きたかったがそれは出来ない。

 

 もし振り向いてしまえばデルフの足は止まってしまいもう走り続けることは叶わないだろう。

 

 走り続けることだけしか今のデルフには出来ない。

 

 ただひたすらデルフは走っていた。

 

 だが走っている方向から何か騒音が聞こえる。

 

 それは無数の足音だとすぐに分かった。

 

 槍ボアの群れがデルフに向かって全速力で走ってきていたのだ。

 

「糞が! またお前らかぁぁ!!!!」

 

 デルフは声を荒げて叫ぶ。

 

 しかしデルフにはこの変異した槍ボアが相手ではたとえ一頭だけでも勝つことはできない。

 

 槍ボアの全速力に対しデルフもまた全速力で走っている。

 

 そう簡単に止まることはできなくいまさら止めようとしてもその最中に槍ボアと激突することを瞬時に理解した。

 

 考える時間はもうない。

 

 一か八かデルフは剣を抜き槍ボアに剣の腹を向ける。

 

 そして槍ボアと鉢合ったとき剣の腹が偶然にも槍ボアの鼻にぶつかって防ぐことができた。

 

 少しでも剣が逸れていれば自分の腹に刺さっていただろう。


 しかし、防ぐことができたのはいいがその衝撃は殺せずに後方に吹き飛ばされた。

 

 受け身も取る余裕もなくそのまま地面に叩きつけられ数回転がっていく。

 

 数秒間呼吸が止まってしまいようやく肺に溜まった息を吐いたと思ったら痛みで喘いでしまう。

 

 悲鳴を上げる身体に鞭打ってようやく頭を上げる。


(どこまで……飛ばされた?)

 

 視界がぼやけ位置が把握できない。

 

 ようやく朧気に見えてきたのカリーナが戦っているはずの巨狼の後ろ姿だった。


「カリーナは!?」

 

 周辺に目を凝らして必死に探すがカリーナの姿は見えなかった。

 

 戦闘が行われている気配は一切ない。


 デルフに嫌な予感が駆け巡る。


 巨狼はデルフの気配に気が付いたのか身体ごとこちらを振り返った。


「なっ……」


 デルフは固まった。

 

 信じられないことが目の前で起きている。

 いや、心の中では覚悟はしていたことだ。

 

 それでも信じられない信じたくない。

 

 目を背けたかった。


 気絶して眠っているカリーナが巨狼の口に咥えられていた。

 

 傷だらけでもう死んでいるんじゃないかと思うほどだ。

 

 だが、カリーナが死ぬわけがない。

 

(死ぬわけがないんだ!!)


 デルフは目を逸らさずにゆっくりと歩き始める。


「……せ」


 デルフは誰にも聞こえないような微かな声で呟く。

 

 だが、その声には明らかな怒りが籠もっていた。


「か……せ」

 

 少し声が大きくなったがそれでもまだ小さい。


「返せ! カリーナを!!」

 

 デルフの怒りが頂点に達して爆発した叫び声が周囲に轟いた。

 

 だが、巨狼は嘲笑うかのように顔を真上に向ける。

 そして、ずるずるとカリーナは狼の口の奥に滑っていきをやがて姿がなくなった。

 

 その光景が衝撃的でデルフは身体の全てが崩れるように膝を着いた。

 

 視線は目の前が真っ暗になりながらも巨狼に向けられていた。

 

 しかしただ眺めているだけであってその瞳は色褪せている。

 

 そのときデルフは自分の内側の何かが壊れる音が聞こえた。

 

「あ……あ…………あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 デルフは無意識に涙が溢れ頭の中で自問自答を繰り返した。

 

(カリーナが……カリーナが……どうなった? どうなっている? わからない。分かりたくない。知りたくない。皆が犠牲を出しながらも戦った。黒猿も倒すことができた。それなのになぜまたそれを超える敵が出てくるんだ? おかしいだろ! 皆が必死に…………? 皆? …僕は……僕は何ができた? 何をした? 何もできていない! カリーナを見ていることしかできていないじゃないか! ……皆じゃない。僕は、僕は! 何も出来なかった! 僕は弱い! 僕には……何も出来ない……)

 

 放心状態に陥ったデルフは後ろから追いかけてきた槍ボアの群れの足音に気付くことができていなかった。


 デルフは全てを諦めた。

 もう死んでもいい。

 弱い僕が悪いんだと諦めた。

 

 走っている槍ボアは飛び上がりデルフの背中に鼻を突き刺すように突撃してくる。

 

 だが槍ボアの鼻がデルフに突き刺さる寸前、突然に槍ボアの群れは跡形も無く消え去った。

 一頭さえも残らずに。


「下賎な豚どもじゃ。私の恩人であるデルフを串刺しにしようとはけしからん」


 後ろから女性の声が近づいてくるのを感じる。


「ぎりぎり、間に合った……わけではおらぬようじゃな。この有様じゃしのう。ルーよ。道が違うなら早く言うのじゃ! …………あーもう! うるさいうるさいうるさい! その目は止めるのじゃ!」


 喧嘩をしているのだろうか女性の声が荒げている。


「お前もまだ本調子じゃないのじゃろう? そこら辺に隠れているのじゃ!」

 

 女性の声がさらに近づいてくる。


「おーい。デルフ~」


 デルフは身体を横に揺すられるが呆けたままだ。


「ふむ。これはまずいのう。……一発許せ」


 そんな言葉の直後、パチンと右頬に衝撃が走った。

 

 その衝撃によりデルフの目に彩りが戻る。

 

 正気を取り戻したデルフは目の前にいる女性の姿に驚く。

 

「リ、リラルス? なんでここに?」


 黒の髪に黒いロングコート、特にその黄色い鷹のように鋭い瞳がデルフに向いている。

 そんな目で見詰められれば少しは背筋が凍りそうになると思うが優しい眼差しに感じられた。


 間違いなくリラルスだ。

 

 中にあった服は破けていたはずなのに新品同様に綺麗だった。


「そんなことは後じゃ。取り敢えず今はこの場を収めるとしよう。……あいつは手強いのう」


 リラルスは巨狼に目を向けて観察している。


「犬風情がよくもデルフに手を出してくれたのう。万死に値するぞ!」


 巨狼はリラルスの姿を見て驚愕したあと怒っているように見えた。

 そしてその後開き直ったのか不気味な笑みを浮かべている。

 

 唸り声を上げる巨狼は地面を蹴りリラルスに襲いかかる。

 

 それに呼応してリラルスも迎え撃つ。

 

 リラルスと巨狼の戦いが始まった。


 デルフはリラルスと巨狼の戦いを見て呆気にとられた。

 

 目を凝らしてようやく見えるほどだった。

 

 見えると言っても辛うじて動いている気配が感じられる程度だ。

 

(また僕は見ることしか出来ないのか……)


 デルフは自分の不甲斐なさに歯噛みした。




 戦い始めてリラルスは焦っていた。


(まさかここまで強いとは。万全の状態なら余裕で勝てたじゃろうが今の私では長期戦は難しいのう)


 リラルスは腹部に痛みが走り触れて見ると手に黒い血が付いていた。

 

 やはりただでさえ少ない魔力量なのに戦闘に魔力を使ったのは無理があったようだ。

 

 回復に徹していた魔力も全て攻撃に使ってしまっていることと過激な動作により治りかけていた腹部の深い傷が開き始めていた。

 出血が止まらずに服に血がじわじわと広がっていく。

 

 そのときリラルスに巨狼の大きな手が迫り来る。

 寸前で躱したが服が破れていることにすぐに気が付いた。

 

(避けたと思っておったが掠めてしまったか)


 傷の痛みが激しくなっていき少しずつリラルスの動きが鈍くなっていく。

 リラルスは次の攻撃で残存する全魔力を用いて決着を付けるべきだとすぐさま判断する。


 戦いの最中にリラルスと巨狼の位置が反転しており巨狼の後ろに満身創痍のデルフの姿が見えた。

 リラルスが全力の攻撃をするため集中し数少ない魔力を貯め始めたとき、唐突に巨狼が向きを反転させた。

 

 リラルスはなぜ無防備に背を向けたのか理解が出来なかったため安易に飛び込まずに警戒を強くする。


(なんじゃ? 何してくる? ……いや、もう何しても無駄じゃ!)

 

 リラルスの両手にはすでに魔力が溜まりきっている。

 その見た目は黒く禍々しいものであった。

 

 だが、次の巨狼の行動はリラルスの予想もしていないことだった。

 

 巨狼はリラルスに背を向けたまま素早く走る。

 

(まさか!?)


 リラルスは巨狼の狙いに気が付いた。

 

 巨狼が向かった先にはデルフがいる。

 

 デルフは硬直して動けていない。

 

「あやつめ!! まさか、私を差し置いてデルフを狙うとは!! 糞ッ!! 間に合え!!」


 リラルスは全速力で巨狼を追いかける。



 

 デルフはリラルスと巨狼の戦いを見ていた。

 

 邪魔にならないうちに逃げようかと考えたがうまく身体が動かない。

 

 そのとき巨狼がこちらを向き自分の下まで走って近づいてきていることに気が付いた。


 だが、威圧で押し潰されるような気配と凍えるような目から放っている殺気で恐怖してしまい怯んで動けない。

 

 巨狼がデルフに向けて爪を振り下ろしたがデルフには避けることは出来なかった。

 

 しかし全速力を出して追いかけてきたリラルスが狼の爪がデルフに直撃する寸前に飛び込み入れ替わるようにデルフを突き飛ばした。

 

 デルフは何回転か転がり、リラルスはその場に倒れ込んだ。

 

 巨狼は後ろに退き距離を取った。

 その顔は笑って勝ち誇っているような表情をしている。


「リラルス!」


 デルフは立ち上がりリラルスのところへと向かう。

 

 その間、なぜ今になって立ち上がることが出来るんだと自分の身体に憤りを感じるが今はそれどころではない。

 

 デルフを突き飛ばしてから倒れたままのリラルスは笑っていた。

 

「ハッハッハ。油断してしまったのう。まさか、デルフを狙うとはな。こりゃ参ったのう」

「リラルス!! そんなこと言っている場合じゃないだろ!」

 

 デルフを突き飛ばしその位置に移り変わったリラルスは狼の爪に直撃したはずだ。

 

 あんな大きな爪だ。

 

 重傷なんて度合いではないだろう。

 

「無駄じゃ。もう私は戦えぬ。致命傷じゃ」

 

 リラルスは余裕げに手を何回か振って見せる。

 

 デルフは急いでリラルスが受けた傷を探す。

 

 探すまでもなかった。

 それを見てデルフは絶句する。


 傷なんて度合いじゃなかった。

 

 リラルスは両足の膝から下が無くなっていた。

 

「恩返しに来たつもりがなんと無様なものじゃのう」

 

 平然とリラルスはそう言う。


「それよりも手当てを!」

 

 リラルスはまたも何回か片手を小さく振る。

 

「無駄といったじゃろう。それにあやつがそんな暇をくれるとは思えぬ。デルフよ。右手を出すのじゃ」

 

 いきなり右手を出せといっても理解が出来なかったが「早く!」というリラルスが大声で言うため恐る恐る右手を出す。

 

 その右手にリラルスが自分の右手で握る。

 

 直後、デルフの右手に禍々しい黒い光が纏わり付いた。

 

「私が持っている残存の魔力じゃ。それをお前に託す。多少は傷付くじゃろうが許せ。それを使って早急にここから逃げるのじゃ!」

 

 リラルスが真剣な表情で言うがデルフにはそんな気は更々無かった。

 

 デルフは右手に剣を抜いて強く握る。

 魔力のせいか右手に付けていた手袋が破けていく。

 

 デルフは気付いていなかったが無意識のうちに魔力を操作して剣に魔力を流し込んでいく。

 

 リラルスは目を見開いた。

 デルフが何をしようとしているのかが分かったからだ。

 

「デルフ! 待て! 戦おうとするな! 逃げるのじゃ! いくら魔力があるからといって付け焼き刃ではあやつには勝てぬ!」

「リラルス。もう何もせずに逃げるだけなのは嫌なんだ! それに助けに来てくれた君を置いて逃げることは出来ない!!」

 

 デルフは前にいる巨狼の下へ走り出す。

 

「デルフ!!」


 巨狼が向かってきているデルフを見て嘲笑するかのように唸り声を上げた。

 

「僕を嘗めているようだな!」

 

 巨狼のすぐ近くまで来るとカリーナみたいに足に魔力を纏い大きく飛んだ。

 

 飛ぶ速度は途轍もなく豪速で油断していた巨狼はデルフの姿を見失ったように首を振っていた。

 

 デルフはカリーナの魔力の使い方を知らずの内に真似することができていたが本人は気が付いていない。

 

 巨狼はデルフを見失い辺りをまだ探している。

 

 たいした力を持たないデルフが大きい跳躍をしたなんて思いもよらなかったからだろう。

 

 巨狼の目線は下を向いていた。

 

 デルフは剣先を首が下を向いている巨狼に狙いを定める。

 

 巨狼が首の位置を戻そうと動かし前を向いたときデルフと目が合う。

 

 その時にはすでにデルフは狼の目に目掛けて渾身の突きを放っていた。

 

 巨狼は虚を突かれそのまま剣が眼球に突き刺さっていく。

 

 巨狼が辺りに絶叫をまき散らしながら顔を振り回す。

 

 デルフは剣を引き抜き巨狼の顔に足を付ける。

 

 それから後退しようと顔を蹴り宙に舞って後ろに退こうとする。

 だが、巨狼も易々と返すつもりはない。

 

「ぐあぁぁぁ!」

 

 激しい痛みがデルフを襲う。

 巨狼が剣を持っているデルフの右腕に噛みついたのだ。

 

 そして首を大きく揺らしデルフを投げ飛ばした。

 

 デルフは背中を地面に叩きつけられ身体にあった空気が全て吐き出され意識を失いそうになる。

 

 だが、デルフは苦しみながらも希望を持った表情でゆっくりと片膝を付き立ち上がろうとする。

 

「一撃を与えられたぞ! 勝てる! あいつは右目を失った。あそこを死角にして次もそのまた次も攻め込めば勝てる!」

 

 作戦をまとめ実行に移そうと噛みつかれたせいか感覚が無い右手に力を込める。

 

 だが、力が入らない。

 

 どんなに力を入れても握っても全く力が入らない。

 

 そもそも剣を持っている感触すら無かった。

 

(どうなっているんだ?)


 そう思い自分の右手に視線を向けた。

 

 デルフは一瞬目を疑った。


 右手の二の腕から下が無かったからだ。

 

 デルフは何が何だか理解できずに恐る恐る巨狼の方を向くとデルフの右手が咥えられていた。

 

 そして、巨狼はその右手も丸呑みする。

 

 巨狼が吐き出した剣が地面に落ち金属音が小さく響く。

 

「あ、あああ。間違っていた……。あの攻撃は油断していたからこそ当てられた一撃だ。しかもそんなにダメージを与えられているようには見えない。何が勝てるだ! 何を思い上がっていたんだ! 結局僕は……」

 

 右手の痛みなんか気にならなかった。

 

 それよりも自分の弱さ、考えの浅はかさに腹が立ち情けなくなる。

 

 右手からの出血が酷く血で地面を濡らしていき波紋のように血が波立つ。

 

 デルフも限界が達して意識が朦朧としてきた。

 

「結局僕は何も出来なかったな…………」

 

 そしてデルフは倒れてしまい意識を失った。

 

 巨狼はたいしたダメージではないものの自分の目を潰された怒りか唸り声を上げている。

 

 そしてデルフに止めをさそうとその大きな爪を振り下ろした。

 

 だが、それは後ろから飛んできた一本の剣によって邪魔をされることとなる。

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