明るい夜

 でも腹も減っているし風呂にも入らなければいけない。

 とりあえずシャワーを浴びてラフな格好でレストランに向かうと、角を曲がったところでケイトに追いついた。彼女も同じ考えだったようだ。かなりソフトな生地のワンピースに着替えていて、僕に気づくと慌ててその場で前転して股を隠した。

「ごめんごめん」僕は目を逸らした。

「気にしないで。私の方こそ無重力でこの服って、常識ないのよ」ケイトは少し恥じらった。「でもズボンってなんだか落ち着かなくて」

 僕はケイトの前に出た。一応確認しておくと僕が穿いているのは麻のゆったりしたズボンで、足首のところがきちんと絞ってあった。

「君もあまり頻繁に空に出るわけじゃないんだね」

「そう。基本缶詰めだから。重力に縛られてるの」

 レストランは一つ上の甲板にあって、なかなかいい設えだった。テーブルと椅子はマグネットで床にくっついている。適当な席に脚を差し込んで体を固定する。

 厨房の機械たちが作った料理を天井に張り付いたピッカーがカウンターのホルダーに差し込み、団扇のような羽をつけたホールロボがそれを引っ張って僕らめがけて飛んでくる。でもそれがとてもゆっくりで健気なので僕は迎えに行って二人分の料理をホルダーごと受け取った。ロボを厨房の方へ押し返す。ロボは僕が掴んでいる間もせっせと団扇をぱたぱたし続けていた。ウレタンか何か柔らかい素材なので当たっても痛くはなかった。

 料理は串に刺さったカリカリのチキンソテーと、カリカリのフランスパン、ソテーのためのチューブ入りのソース、小さなバター、サラダはきゅうりとドライトマトを固いドレッシングでレタスにサンドしたものだった。それにパック入りの赤ワインがついていた。ケイトがエントランスで注文しておいてくれたものだ。無重力食としてはかなり豪華な部類だった。

「艦内に農場でもあるみたいだ」僕は言った。

「いいえお客様、全てエアから仕入れたものです」とキーム。レストランにもやっぱりスピーカーがついている。

「エアも人が少ないでしょ。一次産業も結構機械化されているから、機械同士わりと上手くやってるみたいよ。お金がどう動いているかは、知らないけど」

「それは経営のノウハウです、お客様。本業が常に最大の収入源とは限りません」

 僕は食べ散らかさないように慎重にソテーを齧り、チューブを咥えて口の中でソースを混ぜた。それでも完璧とはいかないから、テーブルの足にくっついたダストキャッチのホースを引っ張って吸引する。

「ユウは無重力の生活に慣れているみたいね。体の捌き方とか、泳ぎ方とか、様になってるし。……様になってるなんて言ったら失礼か」

「まあね。わりに長いこと宇宙にいたんだ。毎日ボーンエイドを飲んでさ。でもこの一年くらいは地球勤務だった。船の中で勘を取り戻したのかな」

「何の仕事をしてるのか、聞いてもいい?」

「軍人」

 ケイトが慎重に訊いたので僕も慎重に答えた。

「やっぱり。じゃなければレスキューかコーストガードかなって」

「ああ、コーストガードか。でも任務としてはそれに近いかもしれないね。火星と木星の間に訓練空域があってね、そこへ民間の船が入り込まないように監視と管制をやるんだ。管制といっても民間路線みたいなかっちりして流暢なものじゃないし、監視といって本当は他の国の軍艦が通るのを一番よく見ておかなきゃいけないんだ。戦争になったら真っ先に戦死するポジションだった。でも幸いそうはならなかったし、僕は案外その仕事を気に入っていた。ずーっと狭い哨戒艇の中に閉じ籠って、他人に会うのはせいぜい三ヶ月に一度くらいで、長い間一人きりなんだけど、ピケットロボが半日ごとに充電に戻ってくるのを世話してやるのは結構好きだったな。なかなか可愛げがあったんだ」

「どうしてその仕事を?」

「密室耐性がずば抜けてたから。同じ部屋にどれだけ長く閉じ籠っていられるかってテストがあるんだけど、一番成績がよかったんだ」

「並大抵でやれる仕事じゃないのね」

「並大抵の人間はテストでそんなに我慢しないだけさ。僕だって赴任してからは規定よりずっと多く宇宙遊泳に出てたよ。ずば抜けてたなんていっても、まあそんなもので」

「なぜやめたの?」

「任期が来たから。……というのは建前で、ボーンエイドの中毒になりかけてた」

 無重力環境で長期間生活していると骨密度が低下するというのはよく知られている現象だ。どうやら重力には動物の骨を強固に保つ効能があるらしい。惑星上ならもちろん、スペースコロニーや大型船なら遠心力で疑似重力を発生させる機能を持っているけど、小型船ではそうはいかない。僕の乗っていた哨戒艇でもロールで船体を回転させることはできたけど、そんなことをしていたら重力を味わうより先に三半規管がやられてしまうのは明白だった。つまりボーンエイドというのは長い間重力環境に戻れない人々のための薬で、僕はその支給対象だった。

 空になったホルダーを厨房に返す。僕は部屋へ戻って歯磨きをする前にキームの全通通路を端から端まで泳いでみることにした。機関室の扉を蹴ってスタート、前部弾薬室の前まで。一蹴りで二三十メートルは進めるのだが、空気抵抗でだんだん遅くなってくる。いくら無重力とはいえ一キロというのは長い距離だった。途中でプレコのように壁紙を拭いて回っている拭き掃除ロボや、ヨコバイのようにドアノブや手摺を磨いているホールロボ(厨房のと同型)とすれ違った。彼らもキームの指示に従順に動いているだけなのだろうけど、僕なんかに構わずせっせと動いている姿はなんだか家の周りにいる野生動物を思わせた。

 帰る途中で僕は外に出られるところがないかキームに訊いた。キームは僕を上甲板の方へ案内した。隔壁にはきちんとエアロックがついていて、外が大気環境だとわかっていてもその中に生身で入るのはちょっと緊張した。

 前後の扉が閉まり、減圧のランプが灯る。空気の抜ける音がした。外の方が気圧が低い。中は一気圧に保ってあるのだろう。

 前の扉が開くと例の一面の青空が広がっていた。

 常夜灯からの真っ青な空。時刻は午後十一時。わかっていても不思議だ。夜勤明けのような妙にすっきりした気分になった。

 風はなく、振り返るとセンサーマストの骨組みががっしりと聳え立っていた。


 翌朝もその空の色は全く変わっていなかった。おまけに太陽の位置もそのままだった。僕は目を覚ましてまずケイトを探したのだけど、自分の部屋には戻っていなくて、キームに訊くと上甲板だというので出ていったのだ。

 ケイトはゴム製のベルトを甲板のポイントに引っ掛けてぴょんぴょん飛び跳ねていた。

「おはよう」

「何してるの?」僕は訊いた。何の考えもなく口をついたとても素朴な質問だった。

「朝の運動」

「ほー、なるほど」

 ケイトは勢いを殺して着地すると額を拭った。ハッチに足を引っかけてベルトを外し、僕の腰に巻き付ける。

 僕も跳んでみた。引き戻される時の加速度が独特だけど脚にかかる負荷はなかなか気持ちがいい。少し大きく跳んでみる。

「これって真空ではできない?」

「できないことはないだろうけど、宇宙服を着てやっても気持ちよくはないだろうね」

「無重力の宇宙はどんなだろうって、私、時々考えるのよ」

「どうして?」

「知らないから。私、生まれてからこの空域を出たことがないの。たぶんね。記憶の限り」

「それって珍しいんだろうか」

「珍しいでしょうね」

「出たいなら、連れて行ってあげるよ。やぶさかじゃない」

「そうね」ケイトはそれまでトールメルの方に顔を向けて目を細めていたが、僕を見た。「昨日は楽しかったわ。ありがとう」

「今日は違う?」

「どうかしら」ケイトはそう言ってエアロックの中へ引っ込んだ。

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無重力空域探訪 前河涼介 @R-Maekawa

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