パーフェクト・スカイ
リエーレに大気が保持されているのはなぜなのか。
単に真空中に大気が生じただけならば拡散作用によって無限の宇宙に向かって吸い出されていくだけで、そこには何も残らない。保持には大気を引きつけておくための重力が必要だ。
ではそこに惑星が存在していた場合はどうだろう。
地球と同規模かつ強固な磁気圏を備えた惑星であれば、真空の吸い出しと恒星風の吹きつけによる大気の拡散を防いで高度百キロ程度は濃密な大気を保持することができる。しかしそれでもわずかに百キロだ。その外側には半径数十万キロに渡って極めて希薄な大気が残るに過ぎない。
リエーレの場合、トールメルとアギスウルムからの恒星風の吹きつけによってかなり押し潰されているものの、半径約七万キロ、厚さ約三万キロの円盤状の大気圏を保持している。
その立役者と言えるのが十二個の主要惑星だった。
惑星の直径は地球の四分の一からほぼ同程度まで様々であり、いずれにしても単体で空域全体の大気を支えるほどの重力は持たない。それぞれが空域の外縁に位置し、真空へ逃げていこうとする大気を押しとどめる壁として機能していた。むろん惑星同士が離れていればその隙間から大気は抜け出そうとする。そうすれば結局十二個の惑星がそれぞれに個別の大気を保持していたに過ぎなかっただろう。
実際のところ惑星群は互いの重力で引き合うほど近接しており、大気の対流によって生じた空域全体の自転による遠心力が惑星同士の引力と釣り合って惑星同士の接近と空域の縮小を妨げていた。
重力と遠心力の作用は長い年月をかけてかつて無造作だった惑星の位置関係を少しずつ変え、やがて空域の自転方向に即したほぼ単一の平面上に配列していった。つまり惑星群はそのほとんどがトールメルとアギスウルムを結ぶ線分に垂直な平面近くに分布していた。惑星群の乗る円盤面のほぼ中心をその線分が貫いているという言い方をしてもいいだろう。
加えて主要惑星のほとんどはどうやら液体核を持ち、内部磁場の干渉によって空域全体を包む巨大な磁場を形成していた。この磁場はトールメルとアギスウルムから吹きつける強力な恒星風を受け流し、空域内部の大気が吹き飛ばされるのを防いでいた。
フェルメール星間空港は二つの恒星を結ぶ線分上――いわばリエーレ空域の中心軸上のアギスウルム寄りに位置しており、目的地エアはそこから空域円盤の外縁に向かっておよそ六万五千キロの距離に位置していた。空域全体が自転しているので方角は銀河や恒星ではなく空港星が基準になるわけで、その方角は単に「エア方角」と呼ばれていた。
延々と大気の中を飛びながら星を渡るというのも実感が湧かなかった。五万光年の天の川を数日で渡ってきたのに、そこからまた数日をかけてたかが数万キロを移動するのもなんだか一時代前の世界に迷い込んでしまったようでノスタルジーだった。空域の各惑星に宇宙港があれば便利なのだろうけど、何しろ需要がない。
一時間ほど飛んだところでケイトは右に舵を切った。
「気をつけて、気張っておいて」と彼女。
急旋回でもするのだろうか?
僕は言われたまま歯を食いしばり、頭をヘッドレストに押し当てた。
右手にあったトールメルが真上に移り、正面に近づいてくる。
そこで急激にGが高まった。
体が座面に押し付けられて首が動かせない。勝手に口が開き、瞼が下がってくる。
ケイトが操縦桿を思い切り引いたのか?
違う。ジェット気流を抜けたのだ。気流の加速を貰ったまま気流周りにある静止した渦に飛び込んだので速度計より遥かに高速で旋回した時の荷重がかかったのだ。要は向かい風の中に飛び込んだようなものだった。
Gはすぐに引いたが、それでも瞬間的には10G以上出ていたように思えた。
気流の周りの乱流を抜けると機体の振動もなくなった。静かな空だ。
ケイトはスロットルを引いてホルンを減速させ、リバースピッチで対気速度をゼロに合わせた。さらに回転を落としてプロペラのジャイロ効果も低減する。
旋回計は動かない。速度もゼロのまま。周りの空気に対して完全な静止状態だった。
ケイトはエンジンを切った。しばらくして電装系のファンの唸りも消え、酸素マスクも窒息装置と化してしまった。
ケイトはシートベルトを外して後ろを振り返った。その衣ずれの音が妙に大きく聞こえた。
「周りを見てごらん。何もないよ。二つの太陽が見えるだけ」
「空気しかない」僕は頭上から機体の下まで隅々見渡した。ケイトの言ったとおりだった。二つの光源以外、何の天体の影も見えない。
「キャノピーを開けるとまた違うよ。シートの下のベルトつけてみて。ハーネス外してさ」
僕はシートの下を探ってハーネスと同じ材質のベルトを引っ張り出した。腰に巻くタイプだ。
ケイトがキャノピーを開くと拡散効果で内外の空気が入れ替わった。防眩フィルターを介さない生の空が目に飛び込んでくる。
それは恐怖だった。僕の中で上下の感覚が狂って、どこを見ても「下」のように感じられた。ホルンが真背面を向いているような気がした。重力に機首を突き立てているような気もした。とにかく今にも自分の体がコクピットから吸い出されて延々と際限なく落下していくような不安に襲われた。
僕はアームレストを強く握った。コクピットの縁から下を覗いてもその感覚は変わらなかった。
もちろん無重力なのだから上下とか、まして落下などというものは生じようがない。
それは僕だってわかっていた。僕だって宇宙遊泳の経験くらい何度もあった。でも大気の存在が、そのうす青さが僕の感覚を地球と重力に縛り付けていた。
「どう?」ケイトが訊いた。彼女は前席に立ち上がっていた。
「少し恐い」
「少し?」彼女は訝しんだ。
「他のお客も恐がる?」
「ううん」
「えっ」
「いや、他のお客にはこんなことしないわ。あなたがこの世界をエンジョイしてるから、特別に連れてきてあげただけ」
ケイトは二つの太陽に前後から照らされていた。少し変な影のでき方だった。髪が少し青みと赤みを帯びた灰色に見えた。
「でもね、私はここが好きなの。こんなに生身で世界の広がりと向き合える環境って、きっと他にはないでしょ?」
ケイトはそう言うとキャノピーの枠を後ろ手に押し出して泳ぎ始めた。
僕は口から心臓が飛び出るんじゃないかというくらいびっくりした。手を伸ばしても彼女を掴めない、救えない、と思った。
でも彼女はちゃんとベルトをしていた。十メートルくらい行ったところでベルトが伸び切った。勢いがついていないので跳ね返りはない。ホルンがややそちらに振られた。彼女はソファに寝そべるような格好で力を抜いて振り子のように揺れていた。
「二ヶ月って言った?」ケイトが訊いた。僕の滞在期間の話だ。普通の声量でも全然支障ない。
「そう」と僕。
「じゃあ全部もかからない。半分くらいもすればこれを楽しめるようになるよ。慣れるよ」
ケイトはベルトを手繰って戻ってくるとコクピットの縁に腰掛けた。
僕も恐る恐る乗り出して同じようにした。後席側の方がキャノピーが低いので頭をぶつけないようにかなりケイトに近寄らなければいけなかった。
靴を落としたら二度と回収できそうにないな、と思った。無重力なのだけど。
「もしベルトが切れて漂流したらどうなるんだろう」僕は訊いた。
「あなたって宇宙でもそんな想像してるの?」
「時々ね」
「時々」ケイトは面白そうに繰り返した。
「いつか空気がなくなって窒息する。生身だったらもっと早く窒息する。宇宙ならね。でもここには空気がある」
「高山病にはかかるでしょうね。おまけに寒い」
「でも息は続く。どこか決まった場所に流れていくんだろうか」
「そんなことはないよ。気流の渦に揉まれ続けるか、延々と広大な対流の中をめぐり続けるか」
「とにかく流され続けるわけだ」
「低体温か空腹で死ぬまではね。そうやって死ぬとね、漂死ということになるの。ここには漂死って言葉があるのよ。本当に死んじゃったかどうか他の人にはわからないんだけど、行方不明とは言わないのね。それくらい助かる確率が低いということ。宇宙と違って慣性のまま飛んでいくわけじゃないし、かといって海の漂流みたいに平面的に探せばいいわけでもない。この空はもっとずっと広い。意識が途切れる前に、苦しむ前に、運が良ければ鳥に食べられるかもしれない」
「それって運がいいんだろうか」
「いいよ、きっと。宇宙より長く生きられる分だけ、この空は残酷なんだ」
「というか鳥がいるんだ」
「いるよ。たくさんいる。渡り鳥は何週間もかけて星の間を渡るの」
「渡り? リエーレに季節があるって話は聞いたことがないけど……」
「そうね。季節的な渡りじゃないわ。繁殖のために、できるだけ血縁の離れた集団を探しに行くとか、天敵のいない外縁部の星に行って子育てをするとか」
「なるほど」
「エアでもいろんな鳥が見れるわ」
空に再び流星が現れた。
「衝撃波が来る。入りましょ。そろそろマスクもつけないと」
座席についてキャノピーを閉める。
「衝撃波ってそんなに強いの?」
「距離と船の大きさによるけど、生身で感じられるくらいには。何なら感じてみる?」
ケイトは再びキャノピーを開いた。
赤い筋が空を渡る。
シルエットはやはりリベレーション級だ。
三分ほど経ってから「ドン」と小さな音が聞こえた直後、どこかに頭をぶつけたような衝撃が来た。機体が揺さぶられ、速度計と旋回計が動揺する。
「止まっていると結構感じるでしょ? 飛んでいる間はこっちも衝撃波を纏ってるからあまり感じないんだけど」
ケイトは素早くエンジンを始動して機首をジェット気流に向けた。
「でもさ、往来が頻繁だね。リエーレってもう少し静かなところのイメージだったけど」
「僻地でしょ? そう、普段はあの光ってもっと珍しいの。あれね、民間の船じゃないのよ」
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