パイロット・ジェット

 ホルンは時速三百キロほどで港湾の出口に向かって飛んでいた。後席のコンソールにも速度計や旋回計はついているので機体の動きは掴むことができた。頭上の内殻や貨物船は大気のせいでいくらか霞んでいた。

 無重力ということは地球の空で言えば常にゼロG旋回、つまり緩く下方向へ旋回していることになるのだけど、重力加速を感じないので妙な感じだった。いや、その感覚自体は真空中の旅客機で体験してきたものと同じはずだ。おそらくホルンのコクピットや大気の霞みが違和感を強化していた。強いて言えば揚力による浮き上がりを押さえるために進行方向よりほんの一度ほど機首を下に向けているが、スピードが一定なのだから加速度はかからない。

 港湾を抜けた。内殻に反響していたエンジン音が消えて急に静かになった。全周の構造物が消え上も下も真っ青な虚空の真っ只中に放り出される。

 落ちる、という不安に一瞬襲われた。そんなはずもないのに。

「ブルーホーン、タワー、ホールド・ユア・コース」管制塔から無線。

「ブルーホーン、コース」

 まっすぐ飛べ、という指示だ。ケイトはマイクを戻して返答、ちらっと旋回計を見てホルンの進行方向を固定した。

「ミグが来るよ」ケイトが言った。

「ミグ?」

「後ろを見ておきなよ」

 言われたとおり振り返って後上方を眺めていると、頭上を大きなジェット機が追い抜いていった。ぐんぐん加速している。

「ロス145?」

 その飛行機はロス航空機工場がミグ25の再生産を請け負ったもので、時代相応のブラッシュアップは施されたものの、見た目もよく似ているので「ミグ」の愛称で呼ばれていた。ミグ25というのは二十世紀後半にロシアが開発した大気圏内用の超音速戦闘機で、アメリカの高速爆撃機を迎撃する速度性能を得るために旋回性能を切り捨てた無骨な飛行機だった。

 ミグは大きく旋回したあと、太い飛行機雲を引いてアギスウルムの方へすっ飛んでいった。

「リリース」とタワー。

「ユアウェル」ケイトが答えた。「パーキングハンガーの対岸にパイロットベースがあるのよ」

 僕は再び頭上に目をやって港湾の対岸を見た。何か施設らしいものは見えない。内殻の向こう側にあるのだろうか。

「パイロットと言っても操縦桿を握る人間のことじゃなくて、港の入り口で船を案内するボートのことね。外航船は全天候航法できない船が結構多いから――全天候飛行ってわかる?」

「わかるよ。夜でも雨でもあるいは計器飛行をして無茶せず飛べるってことだ」

「そう。その機能がない外航船って雲とか雨があると迷子になったりデブリにぶつかったりしちゃうの。ちょっとした靄とか風でも結構困るみたいね」

「なるほど。でもミグだと小回りが利かなそうだけど」

「小回りなんていらないのよ。音速の十倍以上出して空域に突っ込んでくる船についていかなきゃいけないんだもの。とにかく足が速くないと。それに、ミグなら空気の薄い外縁部でもある程度ラムで動けるでしょ」

 ラムというのはラムジェットエンジンのことで、一般的なジェットエンジンと違って取り入れた空気を燃焼前に圧縮する機構を持たない。超音速かつごく低気圧環境では下手に空気を圧縮するよりも熱したエンジンハウジングに流し込むだけの方が大きな推力を得られることがあるので、ラムは高空かつ高速なほど効率優位になる。ロス145のエンジンは純粋なラムではないが、エンジン後部を占めるアフターバーナーの燃焼室がラムの性格をかなり強く持っている。

 ケイトはスロットルを開いて七百キロほどまでホルンを加速させた。

「そういえば桟橋型じゃないのは風が恐いから?」

「そう。港の入り口のところ、斜めにマストが立ってたでしょ? 風のある日はあそこの風上側に網を張ってデブリを捕まえるの。中へ入ったら危ないでしょ」

「デブリ?」

「星の屑とか、木とか、昔の軍艦の残骸とか。そういうのが風で飛んでくるんだ。外宇宙だとそういうのってあくまで重力に引かれて流れていくんだろうけど」

「やっぱり風が恐いんだ」

「そう。リエーレで一番恐い天災は風なの。ねえ、あなたが急いでなければ、空港の周りを少し飛んでみようか」

「管制にとやかく言われない?」

「こっち側なら大丈夫。とにかく往来が少ないから」

「それなら。どうせ長い旅だよ」

 事前の連絡ではフェルメール星間港からエアまで二日かかるという話だった。地球一周以上の距離があるのだ。

 ケイトは右に舵を切って空港星の周りをぐるりと一周した。Gメーターは+1Gを少し超えた。地球上と同じ荷重、心地よい重力。思考まで明晰になってくる感じがした。

 星は常に頭上にあった。港湾は円筒形だけど、星自体はひしゃげたどら焼きのような形をしていて、その一番長さをとれるところに港湾の筒が通してあった。そして不思議なことに星の表面はほぼびっしり草木で覆われていた。それは巨大なマリモを思わせた。

「アステロイドに木が生えてる」僕は言った。

「うん?」

「さっき君は高山病にかかるって言ったね」

「そうね」

「その前に高度計で見たら標高六千メートルだった。それだけ気圧が低いってことだ」

「そうか、地球では植物が生えない高度なのね。でも植物の高度分布って気圧じゃなくて気温でしょ。ここはアギスウルムが近いから、地球の低地より気圧が低い分保温は悪いだろうけど、それ以上に温められているのよ。そういうことでしょ?」

「なるほど」と僕。

 木々は常緑針葉樹が多かった。間隔が不均等だから人工林ではない。広葉樹に不適な環境なのか、まだ育っていないだけなのか……。


 ふと、空港星の向こうに赤い輝点が見えた。

 最初は外の恒星かと思った。

 でも違った。それが足元側に来るまで時折目を向けて覗き込んでみたけど、それはだんだん横長になって巨大な流星のように見え始めた。彗星と言ってもいいくらいだ。

「ほら、パイロットプレーンだよ」とケイト。

 赤い流星の中に船のシルエットが見えてきた。リベレーション級だ。

 つまり空域に突入してくる時の空気摩擦で赤い流星のように見えていたのだ。このクラスの輸送船はスペースデブリの密集宙域などを突き抜けるために矢尻のような硬い船首――いわゆる衝角――を持っていた。軍艦の標準装備のようなものだが、搭載兵器の制約を受ける戦闘艦よりも構造的に有利なので、その後の減速区間の距離さえ確保すれば突き刺さるように大気圏を突破することができた。

 輸送船は赤熱のヴェールを脱いで前方を飛ぶケシ粒のようなミグに追いついていった。ミグのエンジンが吐いた飛行機雲が船の生み出す衝撃波に巻き込まれて一瞬で掻き消える。

 一機と一隻はほとんど空の端から端まで渡るようなスケールで僕らの眼下を駆け抜けていった。そう、それは僕らの下で起きていた出来事だった。

「すごいな」と僕は呟いた。

 ケイトは笑った。

「ユウは子供みたいだね。見るもの全部興味津々だね」

「ずっとここで生きてきた人間には当たり前かもしれないけどさ、僕はここに初めて来るんだ」

「ごめんごめん。でも私だってこの空域が初めての人を案内するのは初めてじゃないのよ。それでもあなたほど心の底から酔いしれてるひとは誰もいなかったわ」

 ケイトはまだ笑っていた。彼女のせいでホルンまで震えているような感じがした。

「そこまで言われるとバツが悪いよ」

「いいのよ。私もその方がガイドのしがいがあって」

 ここでようやくミグとリベレーションの衝撃波が飛んできてホルンを叩いた。機体がちょっと浮き上がり、ドーンという落雷のような低い音が聞こえた。

「それじゃあ、行きますか」

 ホルンは水平飛行(体感では緩降下だが)に戻って空港星から離れる。プロペラピッチを調節すると滑らかに機速が上がって九百キロを超えた。

 僕は多機能ディスプレイで空域のマップを映せないか試してみた。もともとホルンを中心としたセンサー画面が映っていたけど、その縮尺がどんどん小さくなって空港星が入り、やがて惑星エアまで映るようになった。

 エアが僕の目的地だ。でもホルンの進行方向はエアから左に三十度近くずれていた。

「針路がかなりズレてるみたいだけど、そんなに風が強いの?」

「ああ、そうじゃないよ。気流に乗るの。その方が早いから。リエーレの空域って二つの恒星に挟まれてるでしょ」

「うん」

「そうすると、空域自体地球より全然大きい、というか、広いわけで、空域の中でも恒星に近いところは空気が暖められて、端のところはどちらかというと冷めてるでしょ。そうすると対流が起きるんだ。外縁部には恒星から見て放射状に温かい空気の気流ができるの。風といえば、まあ、風なんだけど」

「逆に空域の内側には恒星に向かう冷たい気流が生じているわけだ」

「そう。今乗ってるのはそれこそエア気流って言うんだけど、これに乗るのと乗らないのとじゃ所要時間が一日くらい違ってくるよ」

「それはすごい」

 僕は気流の速さが感じられるものが何かないか探してみたけど、周りには見渡す限りなにも浮かんでいなかった。背後にあるはずの空港星も最初の十分ほどで大気の霞みに紛れて見えなくなってしまっていた。流されている状態なのでもちろん体感では測りようがない。

「だからこの空域の天体って、小さいのはその、潮目というか、暖流と寒流の間にある無風地帯じゃないと浮いていられなくて、結構決まった配列になってるの」

「なるほど」

「あとでもうひとつ面白い場所に寄ってあげるよ」

「面白い場所?」

「着けばわかるわ。説明より先に見てほしいの」

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