第1章11話 「用心棒の杞憂」

あらすじ

行為には及んでいませんのであしからず

―――――


 日曜の朝といえばゆっくりと目覚めるものだったが、ひびきはモヤモヤとした思いを抱えながらまぶたを開けた。

 短い睡眠で目は冴えていたのだが、そのふわふわとした杞憂はどうしても消えなかった。

 朝といっても日はまだ登り始めたばかり。

 ひびきは木刀を携え、もっとも警戒すべき人物のもとへ向かった。


 とはいっても、部屋の前で立ち止まるだけ。ノックも、入ることすらせず、扉の横に背をあずけていた。

 体重をあずけ、肩目をつむり、音もたてずにそこへ突っ立ていた。

 そんな時間を二時間程度すごすと、ひびきは瞑っていた目を開いた。


「おはよ」


「うん。おはよう」


 八尋彩がパジャマ姿のまま、まぶたをこすり、よろよろと歩いていた。


「そこ、何かあんの?」


「なにも」


「そっか」


 大きなあくびをひとつ。

 彩は興味を失ったらしく通り過ぎていく。


「あんた」


「ん?」


「仕事、どうするのよ」


 足を止め、変わらない体勢のままのひびきへ振り返る。


「どうもこうも。食べるためには働かなければならない。だから僕は、きちんと仕事をこなさないとね」


「失敗したのに?」


「だれだって失敗くらいあるでしょ」


「本調子じゃないのに?」


「……バレてたか。まあ、こればっかりはメンタル的なものなので気合で何とかしますよっと」


 会話は終わったとばかりに、歩き出す。


「八尋」


「なに、トイレ行きたいんですけれど」


「や、いいわ。さっさと行ってきなさいよ」


「いや、話の途中だと気になって用も足せないぞ」


「なにそれ」


「話は最後まで聞く。たとえもらそうとも!」


「ひくわ」


 こころなしひかれた。物理的距離でなく、精神的距離で。


「いや、いいから続けろよ。我慢しているからさ」


 ため息をひとつ。

 そういえばこの男はそういうやつだった、と今更ながらに思い出した。


「何で失敗したか、わかっているの?」


「もちろん」


「魔術は精神に直結する。そう聞いているわ。大丈夫なの?」


「関原は心配性だなぁ。僕の仕事は僕のこと。それでいいだろうに」


 いつもの冗談のようで、けれどそれは冷たさを含んだものだ。

 友人の一面に、ひびきは静かに納得する。たしかに彼は魔術師だ、と。


「私は、あんたの友達だからね。少しは心配もするでしょ」


 目を見開いた。ドッキリとしては完璧だっただろう。もしくは不意打ちということならば、きっと彼の首は飛んでいる。死すらも覚えずに。


「関原が……あの、お高くとまった関原ひびきが、デレた」


「デレとらんわ!」


 と、そんな会話に水を差したのは扉が開く音。


「おい。朝っぱらからうるさいぞ。人の部屋の前でイチャイチャするな」


 ぶっきらぼうな口調。事実を的確に表す言葉。冷静な態度。

 どれをとっても聞き覚えがあり、けれどそのトーンの高さには聞き覚えがなかった。


「なに固まっているのだ」


「………」


「………」


 ふたりして停滞する。

 彩は驚愕により、ひびきは警戒により。


「あ」


 その原因のひとは遅まきながらに気が付いた。

 ゆっくりと休暇気分で、いっさいの警戒もなしに熟睡していれば、部屋の前でぺちゃくちゃとうるさく、ゴミに群がるカラスを追い払うような気分で部屋を出てしまったのだ。

 出てしまったのだ。


「ええと、橋渡結?」


 殺し屋の名をひびきが呼ぶ。

 最大限に警戒すべきひと。

 監視していた部屋の、限定的な主。


 それは男だったはずだ。ゆうに百八十はあった体格のいい男だ。

 その男の名を、六堂院暦とあまり変わらない程度の少女に向けて発した。


「………」


 無言で閉まる扉。

 影のさきに最後に映ったのは、ひらりと舞う金糸だった。



 *   *   *



「彩さん。愛、って何なのかしら」


「急に真面目になってどうしたの、こよみちゃん?」


 朝食前、すっきり目を覚ました暦のもとにカウンセラーがにこやかな笑みとともに現れた。春風がさらうような笑みで、今の季節とは少し色が違った。

 おはよう、と挨拶をかわし、雑談をまじえながらのトランプの神経衰弱を遊んでいるときだった。


「好きっというのが、気になって……」


「ふむふむ。まあ、そういうお年頃か。興味を持つことはとてもいいことだと思うよ、僕は。答えの出ない答えを探し、無駄に時間を浪費する。うん! 僕の人生だね」


「それでは、こういうことを考えるのは無駄なのかしら?」


「さあ? 有益かもしれないし、無益かもしれない」


「ふわふわしたいいかたね」


「ちょっと難しいかもだけれど、そういうのは自分が決めるのがいいと思うんだよね。それに必要だからやる。不必要だからやらない。っていうのはさびしいしね」


「お勉強のことかしら?」


「あれはやっておいた方がいいっていうやつだからね。人とかかわるうえで必要なものを、常識ってやつをすり合わせる儀式みたいなものだよ」


「儀式?」


「ごはんを食べるときに犠牲になった命、恵まれた豊穣、もたらせた努力、そういうのに感謝をささげるでしょ。そういうのとおんなじ」


 手のひらを合わせ、まぶたを下げる。神にではなくとも、それは祈りだ。


「いただきますって?」


「そうそう。犠牲ってのはすべてに共通するものといっても過言じゃないからね。肉を食べるのにぶたさんの命が犠牲になる。はたまたとりさんか、うしさんか。どうでもいいことだと切り捨てるには、ちょっと非常すぎるよね」


「ぶたさん? とりさん?」


「僕はとり肉が好きかな。むね肉とかもも肉とか。比較的安価だしね」


 そこでようやく、彩の口上が閉じた。長ったらしいだけでなにも意味はない言葉の羅列に、反旗を振るったのは番になってもカードをめくらない少女だった。


「彩さん」


「はい。なんでしょうか」


 つい、正座に体勢を変えた。やわらかなベッドのクッションのおかげで、幸いにも正座はつらくなかった。

 ベッドの上、散らばったカードの中。

 暦はハートのクイーンとスペードのキングを表にする。はずれ。


「話がずれています」


「……すみません」


 流石、金持ちのご令嬢だけある。不思議な高圧感は。自然ににじみでていた。


「それで、愛ってなんなのでしょう?」


「愛ねぇ」


 足を崩して、胡坐をかく。ついでに首筋もかいた。


「好きって、愛しているって、どういうことなのかしら?」


「だれもが考えて、ひと通りに答えが出されて、考え尽くされることがない。それに好きに重さがある。質量はないけれど、あるんだよ。まあ、どうでもいいことか」


「?」


「大丈夫。わからなくてもいいよ。僕は考えるのが苦手でね。こうやって口に出して、整理して。そうやって最後に出てきたのが僕の答えなんだ。付き合ってくれるかい?」


「いいわよ。わたしが尋ねたんだもの。朝食に呼ばれるまではお付き合いしますわ」


 一向に進まない神経衰弱。

 手番は代わる代わる。けれど、なかなかカードは減ってゆかない。


「僕はこよみちゃんのこと好きだよ。けれど、これは言葉の綾でね。わかるだろうけれど、友達としてだとか、そういう感じ。こういうのは言語化による感情の誤認、聞いた人に思いが伝わらないことを引き起こす」


「わたしも彩さんのことは好きよ」


「ありがと。でも、やっぱり重さはあるんだ。見えないし、感じられない。わかるわけがないそういうもの。嫌よ嫌よも好きのうちってやつ?」


「わたし、キノコがきらいだわ。食感がダメなの」


「へー。まあでも、それは好きになるきっかけがあるっていうことなんじゃない?」


「どういうことかしら?」


「話は少し変わるけれど、好きの裏返しって知っているかい?」


「好き? 反対なら嫌いでしょ?」


「結構有名なんだけれどね。好きの裏返しは「無関心」なんだ。好きっていうのは結局、興味を持つことだから、その裏返しは興味を持たないことなんだよね。つまり、好きと嫌いは一緒なんだ」


「話がややこしくなってきたわ」


「そうだね。僕ものべつ幕無しに口を回しているだけだから。そこら辺はごめん。話半分に聞いてくれるだけでもうれしいよ」


「……彩さん」


「なんだい」


「終わったわ」


 ベッドに散乱していたカードは一枚も残っておらず、どうやら暦の手番で神経衰弱は終幕を閉じたらしい。


「僕の負けっと」


「次は、ババ抜きをやりましょう」


「わかった。じゃあ、僕も口を動かそうかな」


 カードを回収して、手際よく何度もシャッフルし、配り終えて暦の手番。


「……一枚目からそろわないなんて幸先がわるいわ」


「幸先ね。幸福と不幸。どちらかの方向。まあ、普通に考えればさいわいへ向くんだろうけれど。そうだ。こよみちゃん。きみはどっちが好きなんだい。幸福か不幸」


「それは幸福に決まっているわ」


「どうして?」


「幸せなほうがいいでしょう?」


「それはそうだ。けれど、幸せはそうでないときがあってはじめてわかるものなんだ。谷があるから山がある、とまではいわなけれど、海のかなたの地平線を見て、陸があれば気付ける? みたいな感じかな?」


「彩さんは不幸が好きなのかしら?」


「いや。僕は幸せが大好きさ。でもメリハリがないと人生に潤いはないって感じだね。だれもが幸せな世界があったとしたら、僕はどう思うんだろう?」


「素敵ね、それは」


「僕はそう思わないな。子どもに何をいっているんだという自覚はあるけれど、それでも何か違う。たぶん、今の人間じゃ追いつけない世界だよ。少なくとも、僕の居場所はないだろうね」


「子ども扱いしないでくださる?」


「失礼、レディ。でも、子どもの方がいいよ。多くを知るのは人類の宿命だけれど、知恵は毒でもあるからね。大人になるにつれ、致死量を超えた毒を呑まないといけなくなる。まあ、僕もまだ子どもだけれどね」


「それで、彩さん。答えには近づいているの?」


「うん。もしかしてあきちゃった? それは申し訳ないな。じゃあ、少し身体でも動かそうか」


「お部屋で?」


「うん。外に出るほどでもないし、おなかも減り過ぎちゃうしね」


 ベッドから降りて、ふたりして伸びをする。

 年の離れた兄妹のようで、それにしてはふたりの距離は離れすぎていた。

 手を伸ばさずとも届く距離。へたをすれば息づかいさえも聞き取れる。

 それでも。


「さあて、ラジオ体操第一! てきな!」


「えいえい、おー」


「それはちょっと違う」


 結局答えは出ないまま、朝食の時間はやってくる。

 でも、八尋彩にとっては日常で、答えなんかでない方がいいのだ。


 答え合わせが必要なのは、教科書の中でだけ。

 人生で必要なのは、少なくとも示し合わせに近いことは間違いないのだ。

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