第1章10話 「用心棒の思案」
あらすじ
あざねちゃんはすべて覚えている
─────
彩のシリアスなだけで面白くない話をギャグ抜きで話している同じ時分。
風呂場で対面していたふたりもまた佳境に入っていた。
「ねえ」
「あー?」
幸路あざねがただの一般人であり、結の殺しを目撃した人物であり、殺されるはずだったが、通りすがった八尋彩の「記憶を消す」という条件で生き延びた少女である。
ということをあらかた聞こえた後、言い知れぬ空気が風呂場を漂っていた。
すなわち、殺し屋である橋渡結の正当性を認めてしまったのだ。
「……なんでも、ない」
殺し屋が目撃証拠を消すことに疑問も矛盾もないから。
まあ、そんなことはどうでもいいのだ。ひびきの顔色を考えればいいたいことは容易に想像できた。
瞳は潤い、頬は上気し、息は熱を持っている。
つまり、のぼせそうなのであった。
対して結は心地よさそうな声を漏らして、肩までつかっていた。黒衣のため表情や顔色すらもうかがえないが、声のトーンからまだ余裕があることは容易に理解できる。
「………ふぅ」
湯船は軽く四十度をこえ、湯気もあって体感温度はかなり高い。サウナまではないにしろ、普段からあまり長風呂をしないひびきには十分な打撃だ。
「おい、大丈夫か」
「何のことかしら」
「そうか」
背中越しに響く声。
平然を偽って、ひびきは見栄を張っていた。
よく考えなくとも張る意味のない虚勢だったが、彼女も業界に肩までつかりながら生活をしているのだ。背中を見せるなど、自殺行為と同義だった。
さらにいえば、橋渡結の人間性を少し認めてしまっていた。
用心棒は突き詰めてしまえば殺し屋の側面を持っている。正当性も理解できるし、やるべきことも身体が覚えている。
簡単にいえば、羞恥心がぶり返してきたのだった。
「………出ないの?」
「どうだろうな」
「そう」
熱い。暑い。とにかくあつい。
身体はすでにゆで上がり、思考もやや阻害され始めている。
ふと、我に返る。なぜ出ないのだろうか、と。
ただ、彼女にもプライドというものがあった。この場面で顔を出す意味が果たしてあるのか、と平常時の彼女なら冷静に判断しただろうが、熱気がそれを許さない。
湯船とは一種の地獄なのではないか。
否、これは橋渡結の作戦なのではないだろうか。
ゆであがらせることで思考能力を奪い、無防備な隙に首を掻っ切るのではないだろうか。
「俺、先に上がるぞ」
そうに違いない。
ひびきと結の戦闘能力はやや前者に軍配が上がる。ひびきが武装した場合には天秤ですらはかれないだろうが、この状況では五分に等しい。
ならば、これは絶好のチャンス。
殺し屋は油断のうちに仕事を為す。
どうしてそんな基礎的なことすら忘れ、一時は信頼の念すら浮かんでしまったのだろう。
「のぼせるなよ」
「待てっ!」
扉を開けようと手をかけた結は動きを止めた。
まずい。脳が警鐘を鳴らす。
背中はがら空き、振り返るまで一秒未満。
けれど、それだけあれば十分。
カナデという用心棒が噂にたがわぬ実力者であれば、これはすでに死を意味する。
「―――かはっ」
一瞬の痛みの後、肺の空気が無理くり押し出される。
脳はブラックアウトから即座に復帰し、状況を理解する。
身体は動かず、タイルの冷たさがよくわかった。それすならち、押し倒されていた。仰向けに。
「―――」
「―――」
呼吸が止まり、視線が交わる。
状況は確実に結が不利。押し倒され、両腕は尋常でない握力で動きを封じられている。
結は理解できなかった。だが、殺し屋としての経験が思考を後回しにした。
腕が無理なら、足しかない!
柔軟で長い足が、覆いかぶさる少女をはがそうとうねりをあげる。
「………っ」
が、それを察知できないひびきではない。
ひざをもも筋に突き刺し、威力を殺した後、両足でホールドし、動きを封じた。
攻防は決した。
結の両腕の血流はせき止められ、抵抗する技術はすでにない。
武術家の達人であれば覆せたのかもしれないが、彼はしがない殺し屋に過ぎない。
ゆえに―――
「………ひぇ」
無言で視線が上がる。
ひびきも。結も。
「あ、ごめん。邪魔しちゃったね」
八尋彩がそこに 立っていた。
扉を開けて、仁王立ちで。
無論、目の前のふたりは傍から見れば、裸で抱き合っているように見える。
「ま、まったー!」
なぜ、こうなった。
「ほうほう。盛っていたのではなく、殺し合っていたと」
無言で首を縦に振った。
ひびきはもう一度思う。
どうしてこうなった。
「橋渡さん。大丈夫ですか?」
「俺は問題ない。で、訳を聞こうか」
現在、全員がタオル着用のもと、風呂場で事態収拾の解体作業が始まっていた。
「……ごめんなさい」
ペコリと頭を下げる。それ以外に思い付かない。
ひびきの頭はある程度冷めたとはいえ、まだのぼせていた。
「その、カナデが顔を出したというか。私がやりたくてやったわけじゃないというか」
指先ツンツン、視線チラチラ。
湯煙の中、男ふたりと女ひとりのタオル有りでの異様な集会は、一触即発ながらもどうにか平穏を維持していた。
それもこれも、戦闘能力皆無の魔術師のおかげなのだろう。
「二重人格?」
「ちがくて、何といいますか。スイッチは入った、みたいな」
「何故だ」
「その、ええと」
結の質問に口を濁した。
理由は簡単で、だからこそ事態を複雑化させるのだとわかっていたから。
「ころ―――」
「どうせ、はだか見られたのに怒ったんでしょ。今も顔がまっかっかだぜ」
ひびきの声を遮って、彩の確信が出された。
「……てい」
「ぐはっ」
ドボンっ、と水しぶきが上がった。
ひびきに投げられた彩が浴槽へ着水したのだ。ほれぼれしそうな背負い投げで、実際見守っていた結はおお、と感嘆の息を吐いていた。
「余計なことはいわんでよろしい」
パンパン、と手をはたく音が響いた。
「おい」
「な、なによ」
「本当に、そうなんだな」
黒衣からのぞく眼光は、意図をたしかめようと品定めする。生きるために培った観察眼は、たとえ業界の異常者であろうがしっかりと見抜く。
ただ、ひびきにも理解できたのは、決して真実を知りたがっているわけではないということ。
「ええ、そうよ。あのバカのいう通りよ」
「そうか。なら、俺はあがることにする」
黒衣の殺し屋は、相変わらず顔を見せずに風呂を出ていった。
「ああ、そうだ」
「……忘れものでも?」
「ああ。……明日の日中、俺が借りている部屋には誰にも近づけないよういっておいてくれ。飯もいらないと、あの旦那に伝えておいてくれ」
それだけいうと、扉はガシャリとしまった。
理由は何も告げず、またもひびきの苦心は増えるばかりだった。
「あのー、関原さん?」
「おぼれていればよかったのに」
「こわっ。たしかにいくらか水は飲みこんでしまったけれど、そこまでやりますかね」
「やるわ。あと、こっち見ないでね。殺すから」
「……いえっさー」
八つ当たりがとんでいった。
えてして八尋彩の役回りというのはこういうものなのかもしれなかった。
「そいや、関原ってCくらいあんのな」
その夜に死者が出なかったことを、喜ぶべきだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます