第1章02話 「心的外傷」
あらすじ
ひびきちゃんは百合っプル(偽)
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六堂院暦は、六堂院清順のひとり娘で、今年で十二歳を迎えるそうだ。
小学六年生だがあるトラウマが関係していて小学校はまともに通っておらず、自宅学習を進めているという。
そのトラウマというのを封印してほしいというのが今回の依頼だ。
「僕もトラウマはあるけれど、やっぱりトラウマっていうのは記憶の中では結構な代物でね。よく記憶はタンスで表されたりするけれど、トラウマの引き出しはやっぱり特別製なんだよ」
「彩さま、蜘蛛が大の苦手ですものね」
「うん。昔、好きだと思い込んでいた子に蜘蛛を顔面に投げられてね。どうしてそんな状況になったかまでは覚えていないんだけれど、とりあえず蜘蛛は苦手だ」
「あと、高いところも、ですね」
「それはただの高所恐怖症。まあ、僕は違うけれど、人によってはその高所恐怖症もトラウマであることはあるんだけれどね」
トラウマは消えずに残る。子どもの頃に出来心でタンスに張り付けたシールのように、なんとなく目がとまるように残っている。
「ただ問題は、そのトラウマがどれほどのものなのかに尽きるね」
身体に傷があったとして、毎日見ていれば自然とその傷を意識においてしまう。そして、傷は消えたりしない。癒えはしても、消えない傷というのがトラウマなのだ。
記録と記憶に特化した魔術師、八尋彩にとって記憶は有形の概念であり、心の傷もはっきりと見て取れる。
「傷に気が付かなければ傷はないものと同じで、僕の魔術をもってしても記憶は消すことはできない。壊すことも治すこともできるけれど、そこらに形あるものと同じでなくすことなんてできない」
マツリにとってしてみれば、もはや聞き慣れた言葉だった。
記憶は消えない。消えてなくなったりなどするはずがない。
記憶というデータを保管しておく、脳というハードを壊さない限り、記憶が消えることはない。
「だから僕にできるのは傷をなかったことにしてあげるくらいなんだよ」
魔術師は信用ならん連中だ。
六堂院清順は知人からそんな言葉とともに、ただのカウンセラーとして記憶を書き換えることのできるという凄腕の魔術師、八尋彩の連絡先を受け取った。
印象としては悪くない男だった、というのが清順の判断だった。礼儀正しく、仕事に手を抜かない。かつてちらと目に映って来た魔術師のだれよりも礼儀正しい、と。
ただ、同時に疑問を抱いていた。
何を根拠にそう思うのかが、いまいち不透明で、それを考え始めるといつも間にか別の話題を考え始めているのだ。
娘は、暦は大丈夫なのだろうか、と。
六堂院暦が小学校へ行くことを拒絶し始めたのは去年の春先でのことだった。
春休みが終わり、小学五年生へと足を踏み出すその日に、幼き少女は足をすくめて、清順にこう言い放ったのだ。小さな声で、けれど明瞭な意思を込めて。
「おうちからでたくない」
その後、何度か話をして、結局わかったのは「学校へ行きたくない」でも「誰かに合うのが嫌」というわけでもなく、ただ単純に「家から出たくない」の一点張りだった。
理由を聞いても答えず、強く尋ねると逃げるか、泣いてしまう。
そんな娘の痛々しい姿に、そろそろ父親も限界だった。
トラウマというのは、今まで何人も雇った家庭教師やカウンセラーなどの話を聞いて、最後に残った可能性のようなものだった。
だから、トラウマなんてないのかもしれない。
けれど、娘を救いたいという父親心で、業界を頼ることにしたのだった。
業界に娘をかかわらせていいのか、と知人は問いかけ、一年もの思案の末に、清順は業界へと足を踏み入れたのだ。
何か原因があるはずだ、と。その原因の有無すらもわからないまま、走って走って走りぬいて、そうしてようやくここまで来た。
浴衣姿のまま、彩は個室のバルコニーで風にあたっていた。
涼しいというより、季節的に寒いというべきなのだろうが、彩の顔色は涼し気で、どこか遠くを見ているような面持ちだった。
「ここに来たことがあるんだよね」
「……彩さまが、ですか?」
気配を消して忍び寄っていたのに、どうやら彩は気づいてしまったらしく、マツリは少し悔し気に言葉のキャッチボールを投げ返した。
「いや、だれかが」
その返答をマツリ以外にしていたならば、何かのギャグか、それともからかっているのかと憤慨しただろうが、それを察することができる彼女には、まったく別種の言葉に聞こえた。
「幼い息子ともっと幼い娘を連れて、あときれいな奥さんも一緒に。ここより少し大きくて、ここより少し見晴らしのいい部屋に泊ったんだ」
「彩さま」
「わかっているよ。これは僕の記憶じゃない。ちゃんとわかっているさ」
また始まったと認識できた。
これは「自己の分別」だ。
「語る気はない。少し脳裏によぎったから、ちょっと話題にしただけだよ。だから、こういうのがいいねって」
「どういうものでしょうか」
「優しいかんじのさ。トラウマをのぞくのなんてもう慣れてしまったけれど、やっぱり平和とか平等とか、綺麗事のような日常が望ましいなって」
「業界に身を置きながらそういう話をするのは彩さまくらいではないでしょうか」
「そうかもな」
そんなことをいいながら、さすがに寒くなったのか身震いして、マツリの方へ向き直り、ベランダを後にする。
「彩さま」
「なんだ?」
ふたりはしばらく向かい合って、けれどマツリは何も言わずに、彩もまた何も語らないままふたりの距離は離れていく。
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