融けてしまう前に……お題『約束』
私は、アーシャと何かしらの約束をしたはずだ。
アーシャは、私が目を覚ましたとき、すぐそこにいた。私が目を覚ましたのは、何かの……研究所? そんな場所に見えるところだった。
アーシャと名乗る背の高い彼女は、白衣を着たまま私に語り掛けた。
「目を覚ましたかい? 被検体シータ」
薄い笑顔の奥にある深い愛情を私は感じた。でも私には。
彼女を始めてみるまでの記憶がなかった。
「……だめだよ、支部長。被検体シータは前回の発作で記憶の大部分が欠落しているみたいだ」
通信機に語り掛けつつ、裸の私に服を着せる彼女。
丁寧に、私の青白い肌に服を着せている。
「シータ、君は話せる?」
「え、あ、あの」
「支部長、幸いなことに言語能力は失われていない。どうするのが正解かな?」
しばらく黙るアーシャという女性。
「了解。しばらく被検体との会話で記憶が戻らないか調べてみる」
それから、私とアーシャの長い。
いや、短い日常が始まったのだ。
なんで私が一般的な知識を持っているのかは私自身にもわからない。
アーシャが言うには、記憶が欠落しているけども、言語能力や深層意識に蓄積された知識は失われていないらしい。
「アーシャ? これは何の絵か分かるかな?」
「え、えっと。象?」
「オーケー」
にこやかな彼女は、私に何枚もカードを見せて、その判断をメモに記す。
こんな日が何日か続いた。
「アーシャ、この数式を展開してみて?」
「エックスの六乗足す、ワイの七乗足す……」
「はは、君は本当に賢いね?」
今度は、数の問題が多くなった。だんだん難しくなっていった気がする。
「アーシャ、見て! 新しい私のレポートが研究所で評価されたんだ! これで君の実験も幅広くいかせる!」
何やら、難し気な書類を持って、ある日アーシャは私にまくしたてるように喜んでいた。
私には何のことが分からなかった。
ある日、台の上に寝かされて、点滴を打った。機械の音が部屋中に鳴っていたのを覚えている。どうにも居心地が悪かったけど。
アーシャが喜んでくれると知っている私は、自ら進んで何時間も動かずに横になった。
「アーシャ、私の記憶って?」
「ゴメンね。研究上の問題で、直接思い出してもらうことはできないんだ」
彼女は、少し真顔になる。
「でも、シータ自身で思い出してもらうことが目標だから、思い出したときはちゃんと報告してね。私も会話して、記憶が戻るように手助けはする」
私の『知らない』記憶のことを尋ねても、それ以上アーシャは教えてくれなかった。
「さあ、着いたよ、シータ。すこし辛い実験だけど、がんばってね。応援してる」
私は、寝台の上に寝た。すると。
ガシャガシャ。何かの音がして。
シュン、と。
体の横を横切った何かは。
『私の両肘から下をかすめ取っていった』
「がああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
ずしゃっと吹き飛んだ両腕が床に落ちる音。私自身の絶叫の音。体が痙攣して、のたうちまわって床に体が打ち付けられる音が脳の中でまぜこぜになって赤い液体がまき散る中で、私は耐えられない痛覚の中、アーシャのことだけを考えていた。
しかし、数分経っても私は死ななかった。
「細部の修復、および電荷の発生に異常なし、引き続き観察を続ける」
アーシャは、通信機でまた誰かと連絡を取っていた。たすけて。
たすけてアーシャ。
アーシャ。たすけて。
くるしい。いたい。
「あああぇえええあがあうぐっ! ひゅ、が、ああ、あああ、あ、あ、……」
両腕の切断面から、みしみしという嫌な音が発せられていた。
寝台に寄り掛かって立とうとすると。
切り取られたはずの腕が真新しく再生していた。
ああ、なんで気付かなかったんだろう。
私は目覚めてから、一度も食事をとってなかった。
排泄もしていなかった。
普通じゃなかった。
私は。
人間じゃない。
「ごめんね。辛かったね。でも必要なことなんだ」
アーシャは、平然とした顔で私に告げた。
途端に私はアーシャが怖くなった。
笑顔で、なんで笑顔でいられるの。
記憶って何? 私の知らない記憶って何なのか。
「君の記憶が戻ったら、もうこんな実験はしなくて済む。だから、ヒントをあげる」
「え……」
「私とシータは、ある約束をした。その約束って、なーんだ」
アーシャは、思い出したら実験や検査はしなくて済むと言った。
私は死に物狂いで思い出そうとしたけど、無理だった。
それから、毎日のように検査は続いた。
たまに、腕を吹き飛ばされたり、電流を流されたりしたけど、私の記憶は戻らないままだった。
アーシャ。なんでこんなことするの? なんで笑顔でいられるの?
でも、検査の数値が取れて、レポートが認められるたび、アーシャは本当にうれしそうに私に会った。
「ありがとうシータ! 本当に君は私の天使だ! 今まで落ちこぼれの研究員だった私がここまでこれたのはシータなんだ!」
抱きついて、頬をすり寄せるアーシャ。アーシャは、私のことどう思ってるんだろう。なんであんなに痛めつけても笑顔でいられるんだろう。
「毎日ひどいことしてゴメンね。辛かったね」
軽く笑うアーシャ。
「あとは君の記憶さえ戻れば完璧なんだけどな……。試しに散歩してみる?」
私とアーシャは、初めて外に出た。
風が私の体を撫でた。
ちょっと外の風は生臭かったけど、それでも何かが分かるように気がした。
……いつか二人で……。
アーシャの声が頭の中で響く。
記憶だったのかもしれない。でも、断片だけですべては思い出せなかった。
「4号練には行っちゃだめだよ」
アーシャは言う。
「あそこを見たら、記憶が戻っちゃうからね。君自身で思い出して」
何のことかはわからないけど。私は毎日を過ごそうと思った。
アーシャが喜んでくれるなら、私はつらい実験も耐えられる。
それから何日も過ぎた。
あれから進展はなかった。
なんで、だろう。
全身に針を通されても、私の記憶は戻らなかった。
私はなんなんだろう。
人間じゃないなら何?
しかし。
記憶が戻る日も。
アーシャとの約束を思い出す日も。
突然に訪れた。
「……シータ」
アーシャは、今まで見たことのない深刻な表情で部屋に入ってきた。
「……君の、廃棄処分が決まった」
目の前が真っ暗になった。
アーシャとの日々は、もうなくなってしまうということだった。アーシャは実験が終わるたびに私を労わってくれた。アーシャは一番最初に私に語り掛けてくれた。アーシャは、アーシャは。
私の大切な人だ。
アーシャなしでは考えられないほど、私の生活はアーシャで成り立っていた。アーシャが喜んでくれるから、私は実験を受け、生きていくって決めた。
約束を思い出したいから生きていくって決めた。
なのに。
「シータ」
彼女は私の名前を呼んだ。
「逃げよう」
アーシャも、思いは同じだったんだ。
「この世界で一番素敵な君を」
私たちは、大切なもの同士。
「消したりなんかさせない」
私たちは、夜中にスペアキーを使って、研究所の端まで移動した。
夜風の生臭さが、あの日の散歩を思い出させた。
記憶はまだもどらない。
「さあ、この先にジェットが用意してある。もうすぐ……ッ!?」
アーシャが倒れた。破裂音がした。
「アーシャ……?」
アーシャは、うめき声をあげながら、立ち上がろうとする。血が。
血が大量に出ていた。
撃たれた……?
「いたぞ! 研究員もかまわん! 撃ち殺せ! 被検体は確保しろ!」
気づかれたのだ。後ろから研究員たちが追ってくる。
「あ、アーシャッ!」
「いって……」
「でも!」
「シータ、がんばって生きて……」
私は、アーシャの言葉にかまわず、彼女を引きずってジェットに乗せた。扉を絞めれば一旦安全だ。
私は、窓からその景色を確認した。
四の文字が書いてある、4号練。
「君の名前はシータ、だ!」
「これかい? この写真はね。私の前の彼女」
「どうだい? 君に似てるだろ?」
「まあ、研究中の事故で死んじゃったんだけどね」
「シータ、大好きだ」
「最初は、自分への慰めのつもりだった。でも、違う」
「今は、前の彼女のシータじゃない。被検体のシータが好きだ」
「本気で愛してる」
私は、その約束を思い出した。
「は、はは……思い出したか……げぼっ」
「アーシャッ!」
「私も長くないよ。逃げようって思ってたけど、コリャ無理だね」
彼女は、いつもの空っぽの笑顔を私に向けた。
「いやだ! 私はアーシャと一緒がいい!」
私の眼からボロボロと液体がこぼれる。
「シータ……」
それから、何をしたかあまり覚えてない。
ただ、自分から発せられた何かが、研究所のエネルギー炉を爆破させたのだ。
研究所は煙を上げた。
轟音を響かせた。
熱風をまき散らした。
壊滅した。
これでいい。
私とアーシャを邪魔するのなんて消えればいい。
「アーシャ……」
彼女は、既にいなくなっていた。
残っているのは肉体だけ。
でも、私は約束を思い出した。
そうだ。約束さえ果たせば、また会える。
……いつか二人で、……研究しよう。
愛する人を、……よみがえらせる方法を。
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