幻影……お題『髪』

 忘れもしない三か月前。私は工具を取りに家の近くの倉庫まで出かけていた。

 そのとき、後ろからとてつもない『嫌な』気配を感じて振り向く。

 フードを被った体つきからして、……女だろうか。少し背の高いその女がハサミを持って私に向かっていた。

 ひぇ、と変な声がのどの奥から出た。

 その女、あいつは私の長い黒髪を、その大きな裁ちばさみで、じょきっと切り落とした。そしてなんと、その切り落とした私の髪を握ってすたすたと立ち去っていったのだ。


 私は怖くなって、急いでその場を離れた。警官にも相談した。だが、そんな不審者の情報はなく、できるだけ警戒してもらえるよう頼めただけだった。


 そして、一週間後。家のポストに、何か『絵画』のようなものが投かんされていた。

 白と黒だけの絵画。いや、まさかそんな筈はない。

 しかし、また驚くことに。私を模したのか雑な女の絵画は、すべて髪の毛を紙に張り付けて構成されていた。


 さすがにこれはマズイ。

 いわゆる重度のストーカーというやつだろうか。胸の奥が心底震えた。

 あの女。あいつだ。

 あれだけの髪の毛を切り取ったなら、こんなのも説明がつく。十分な量だ。何がしたいのか分からないが、このままではどんな目に遭うかわからない。かなり気味が悪いし、そのうち『気味が悪い』なんて範疇も超えてしまうだろう。


 私は、何回も警察に相談したが、結局見回りを強化してもらうことしかできない。なにせ、フードを深くかぶった『あいつ』の住所もわからない。相手が分からないのだ。

 ひたすら家に閉じこもった。

 髪の毛を切り取って絵画にするなんて、あいつはよっぽど猟奇的な趣味をしているに違いない。

 執念を感じた。ただ怖かった。


 こんこん。とドアをノックする音。

「……は、はい?」

 私は、震える声を押しとどめながら少しドアを開けて玄関先の様子をうかがう。

「やっぱり」

 前にいたその女が、あいつが、口にしたその言葉の意味が分からなかった。

 そう呟いたあのフードの女は、すさまじい力でドアをこじ開けて私の家の中に入ってきた。

「ちょ、ちょっと!?」

 しかし、脚がすくんだ。

 何か凶器を持っているかもしれない。慌てずにここは逃げよう。しかし、その女は私の首根っこを掴んで、引き留めた。

「ぐぇ!?」

 首が締まる。そしてそのまま、私は抵抗できずに部屋の奥まで連れ去られてしまった。

「私を覚えてる?」

「は、はぁ!? おぼえて?」

「私。ほら、小さいころに結婚しようねって約束したじゃない」

「へ?」

 フードを脱いだその顔に、かすかな面影があった。


 私は、小さいころに遊んでいたその少女と、何か約束をしたはずだ。

 結婚しようね……? 仲よく遊んでいた中で、冗談で言ったはず……?


「18歳になったら結婚しようねって言ってたじゃん!」

 まさか、あの子……。

 あれから私は引っ越して、さらに一年前から一人暮らしを始めて。

「忘れちゃったの? 忘れてないよね? 忘れるわけないよね? 恥ずかしくてきっかけがなくて、私に会いに来なかっただけだよね?」

 まくしたてるように、よどんだ眼で語り掛けるその女。

「いや、あの、ええと」

 ……わたしはどう答えればこの場を抜け出せるのか必死に考える。

 そうだと答えれば一旦助かるかもしれない。その後に大変なことになるだろうが。

 違うと答えれば、どうなるかわからない。この女は正気じゃない。十年以上も前の、それもあんなに小さいときの冗談だと思ってた約束なんていちいち覚えてない!


「ねぇ、私ね。貴方が小さいころに髪を切ってあげたよね。ふざけ半分だったけど、私あの頃の貴方の髪の毛をずっと保管して匂いを嗅いで貴方のこと忘れないようにしてたの。でもね。やっぱり小さいころのあなたと大人になった貴方の臭いは違うんだろうなって。だから、大人になった貴方の髪の毛の臭いをかぎたくなった」


 言っている意味が分からなかった。

 匂いを嗅ぐ? 忘れないように?


「でも、貴方は会いに来てくれないし、場所を探しても見つからないし」

 

 ぼろぼろと、その女から涙が滴ってくる。


「ねぇ、本当に忘れちゃったの!? 私が切ってあげた髪の毛のことも、忘れちゃったの!?」


 まずい。


「え、ええと。その」

 ぶしゅ。

 何かが首に差し込まれる。針?

 横を見る。

 何かの薬の瓶が転げ落ちている。

「へ、へひゃ、ふはひゃ。わ、私の作った絵、気に入ってくれた? 今度はね。貴方の臭いだけじゃなくてね。本物のあなたを感じたいの。だからね」


 意識がとろけていく。

 だめ。眠くなる。

 いやだ、たすけて、だれか。


「髪、また短くなっちゃったね」

「ッ!?」

 その声で目が覚めた。口を縛られて、手足を鎖でベッドにつながれている。

「んんんんんんん!」

「ふふふ、かわいいね」

 起き上がろうとすると、眼がくらんでまたベッドに横たわってしまう。

 どこだろう。薄暗い窓のない部屋だ。私の黒い髪は、すっかり切られていた。

「ねぇ、ホントに覚えてないの? 全部忘れちゃったの?」

「んんんんんんん」

「正直に言って? 首を縦に振るか横に振るか」

「……ん」

 私は、震えを抑えきれずに、ガクガクと首を横に振った。

「そう、残念」

 しゅん、と気が抜けたように女が悲しげな表情を向ける。

「私は本気だった。周りの女の子が男と引っ付いていく中で、あなたが私を救ってくれると信じてたのに……」

 女は、またあの針、注射器を片手にもって、こちらに迫る。やめて、やめてやめてやめて。

「おくすり、もっと欲しい? 気持ちよくなれるよ?」

 私はボロボロと涙を流しながら必死に首を横に振った。

「そう? でもね大丈夫。すぐ思い出すよ。がんばろ。私と一緒に。あの頃に戻ろ?」

 首へと注射器が迫る。

 私は必死に抵抗する。やめて。嫌だ。私は忘れた。来ないで!


 しだいに意識が薄くなっていく。

 幼いころの記憶が掘り起こされる。


「ねぇ、髪、切ってもいい?」

「ええ、なんでぇ? ママに怒られちゃう!」

「ふふふ、でも、さすがにこれは長いよ。ちょっと、ちょっとだけだから」

「……わかった」

 しょきしょき、と鳴る音が心地よくて、次第に髪は短くなって。

「ねぇ、私ね。貴方のお嫁さんになりたいな」

「いいよ! 毎日髪を切ってね!」

「えぇー。毎日は無理だよぉ……」

「ふふ」

「髪を切るのは、特別なことなんだよ? だからね。私はあなたの特別を独り占めしたいの」

 女は、そんなことを言っていた気がする。


 その次の瞬間、とてつもない快感が私の頭を襲って。

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