夢幻の果て……お題『霧』

 私は、どうしても『貴方』が欲しかった。

 最初に会ったのはいつだったっけ。よく湿った日のこと。もう半年も前のことかな。

 霧の街角から、貴方は現れた。

 すらりとした体がこっちを向いて、それで、貴方は私に話しかけた。濃いあの霧の中でも街灯に照らされたつややかな髪、丸くて大きい瞳。

 何かに射抜かれたような気がした。私も同じ女性なのだけれど、そんなの関係なかった。


 一目惚れだった。


 私に向かって、貴方はこう言った。

「今夜泊まれるところを探している」

 どうにも、事故のせいでお金がないらしい。詳しいことは聞けなかった。安い宿を見つけようにも、もうあたりが暗い。霧も濃い。女一人で出歩くには危険だった。そんな中私が出歩いていたのも、薬の買い足しに行っていただけだったのだけれど。

 私は、喜んで彼女を泊めた。

 すぅすぅと寝息を立てている彼女を、傍から眺めていたのを覚えている。私は、専門の薬の調合をしながら、眠れずにいた。


 私は愛を知らなかった。


 両親から殴られて育った。歪んだそれが、愛には思えなかった。たくさん酷いことをされた。

 自力で運よく逃げ出すことも出来ず、両親が不幸にも病で倒れるその日まで、私の体は傷で覆われ続けた。

 私は、その後助けを求めて孤児院へ入ることになった。

 しかし、貧しい暮らしの中でたまった、他の子どもたちの鬱憤のはけ口になってしまった。

 また殴られた。モノを盗まれた。私はどこにでもいる平凡な『不幸な子』だった。


 でも、この人の優し気な立ち振る舞いを見ていると、どこか『一緒にいたい』と思えるような温かい気持ちになった。


 私はやはり眠ることにした。


 夢を見た。


 霧の街角から名も知らない貴方が出てくる夢。

 そしてそっとキスをする。

 そのままずっと。抱き合い続ける。ああ、温かさってこういうことなんだ。私は夢の中で、あり得ないそんな現象を感じていた。


 そしてそのまま貴方を送り出した。貴方の名前も聞いた。貴方はいつか、『お礼がしたい』と言ってそのままどこかへ行ってしまう。


 不思議だった。まだ霧の中にいるような、そんな夢見心地な感覚。ずっとこのぬるま湯のような湿った感覚に溺れていたい。この愛らしい感情に縋っていたい。

 この人生で初めて味わう『愛』という感覚。快感。

 私は、もう一度あなたに会いたいと思うようになる。だから、私は人探しを始めた。

 仕事である薬の調合の片手間に、酒場などに出かけて名前を聞くいてまわる。こんな女を知らないかと。


 そのまま半年がたつんだ。


 私の中に爆発寸前まで溜まったこの感情を、どこにつぎ込めばいいんだろう。何か別のもので採って帰ることはできるだろうか、否、できるわけがない。

 もともと空いてもいない穴がぽっかりと出現して、そのまま居座っている。

 愛する人がいないとはこういうことなのか。ああ、気持ちが悪い、でも待ち遠しい。愛しい、寂しい、恋しい。


 今なら、産んだのちに虐待を繰り返したあの両親にでも感謝できる。私はあの人に会うために生まれてきたんだ。そうに違いない。

 私は町中を探し回る。いつかお礼をしてくれるそうだ。私はすれ違いにならないよう、家の扉にメモを残しつつ、毎日走り回る。


 いない。もうこの街にはいないのか。

 でも、住む場所にも困っているようなあの人が、移動するわけない。


 どこかには絶対、いるはず。


 私は探し回った。探し回って、やっと貴方のことを見つけた。曲がり角で、霧の中後姿の貴方。私はその手を掴もうと走る。


 ……夢だった……の?


 ぼやぼやとした頭で、時計を見る。夜中の十二時。少し疲れていたみたい。

 私は玄関先で夜風にあたって、頭を冷やすことにした。少しはスッキリするかもしれない。

 濃い霧の街で、貴方を見つけようとしても『いない』。


 もしかして、あの日自体が夢だった? そうなのかもしれない。

 あの人は本当は存在してなくて、ただ私が記憶の混濁をしているだけなのかもしれない。

 途端に、生きる気力というかなんというか、そういう精神力を失ってしまった気がする。もうあの人には会えないのか、と。


「あの、すみません」


 後ろから声がかかった。

 私は、聞き覚えのあるその声にびくっと反応する。


「半年前の者です」


 私は、とにかく中に入れた。天にも昇るような心地だった。実際に、声が上ずらないように注意した。貴方から聞いた。友人の借金を返すのに協力して、大変だったのだ、と。働いていたらしいが、このままではらちが明かない、と。友人と、やっとの思いで手に入れた自分の家、二軒を家具から何まで入れてすっぱりと売ってしまったらしい。晴れて借金は返済できたものの、また住む場所が無くなってしまったのだ、と。

 なんとお人よしなのだろう。自己犠牲が過ぎる。

 自分の住む場所を、他人の借金のために売り払ってしまうなんて。


「どうぞどうぞ」

 私は、ほんのしばらく貴方を泊めることにした。

 でも、彼女はまた安定した生活を求めて出ていくだろう。


「迷惑を掛けてはいけませんから」

 

 とんでもない。ずっといてほしい。

 こんな優しい人、もう見つからない。

 私にはわかる。『貴方』がいないと、もう私には不幸しかない、と。

 だから、貴方にはずっといてほしい。貴方は私のためにずっといなきゃいけないんだと。


 ばたん。

「……ふへっ」

 変な笑いが漏れてしまった。

 彼女が飲んだ紅茶に入れた薬が、とてもよく効いている。

「へひゃ、……はぁ……はぁっ」

 体が熱くなる。大丈夫。私が貴方に安定した暮らしを提供してあげる。

 貴方は私に愛をくれればいい。

 お互いに分け与えあいましょう。


 私は彼女を地下室に運び込む。


 ちゃんと鎖でつながないと。




 今日もこの町は霧に覆われている。

 頭にボヤがかかってしまった私。

 もう二度と頭の霧が晴れることはないのかもしれない。でもそれでいい。


 だって、こっちの方が幸せなんだもん。

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