彦根と水戸さん

 松山が持ってきてくれた桜枝からまた一枚、花びらが落ちた。

 この桜枝が枯れきった時、宇和島は勝利の祝杯をあげているか、それとも、敗北の苦汁を飲まされているか――。

 中間考査の対策が大詰めに差し掛かる中、宇和島は確かな手応えを感じていた。

 脳の記憶を司る部位を海馬というらしい(これも飛び級ちゃんから教わった)が、この海馬が子馬から競走馬に成長し、駿馬のごとく疾走している気分である(あるいは、ただの錯覚かもしれない)。この調子なら、最近すっかりやる気をなくしたように見える土佐を追い抜くことは可能だろう。問題は、薩摩や萩、佐賀といった才女たちに追いつけるかどうか。


 それにしても、あまりに長時間机に向かいすぎたせいで、肩が痛くなってきた。宇和島は背もたれに寄りかかり、大きく伸びをする。


「あのー……お勉強中すみません」


 戸口から控えめな声が聞こえて、宇和島は視線をそちらに向けた。

 清廉とした佇まいの生徒が、そこに立っていた。


――このひとはたしか、会津だ。模範生徒賞の。模範生徒のオーラを発しているから間違いない。


 ただ、会津は東寮の生徒だったはずだ。西寮の、しかも南棟のはずれにあるこの部屋を訪ねてくるなんて、普通では考えられないことだ。


「……ウチに何かご用?」

「あの私たち、南棟の地下室という所に行きたいんですけど、道に迷ってしまって……。あなたは、宇和島さんですよね?すみませんが、行き方を教えていただけないでしょうか?」

「『私』?別にいいけど……。普通には行けないから案内するよ」


 宇和島が気になって廊下に出てみると、会津の何歩か後ろに水戸さんが立っていた。


「……地下に何の用?」

「それは訊かないであげてください」


 会津が水戸さんをフォローするようにいった。


 二人が南棟を歩き回っても地下室を発見できなかったのは無理もない。なにしろ地下への階段は屋外にあるのだから。



「こんな場所にあったんですね」


 雑草の蔓延はびこる腐り木の階段を目にしながら、会津が感嘆の声を上げた。水戸さんは相変わらず無言だ。


「鍵は持ってるの?」

「鍵は書記長さんが開けてくださってます」

「書記長?話が見えないんだけど」

「じつは、中に彦根さんが閉じ込められていて……いえ、今は閉じ込められていないんですけど、出てきてくれなくて」

「さっぱりわからん」

「終わったら説明しますね」


 軋む階段を下り、扉を開けると、中からひんやりとした空気が流れてきた。

 中にはコンクリート張りの無機質な壁と、十数段の階段が見える。

 三人は階段をさらに下りていく。


「そういえば、仙台さんがすごく心配していましたよ」

「ああ、オヤビン……」

「お友達ですか?」

「友達っていうか……親戚?ウチにもよくわかんないんだよね」

「ああ、ありますよね、そういうの」

「もしオヤビンに会ったら、ウチは元気って伝えておくれ」

「わかりました」


 階段を下りきると、真っ直ぐな廊下の左右にいくつかの鉄扉があるのが見えた。

 天井から吊るされた幾つかの粗末な裸電球が、かろうじて空間を視認できる程度の淡い光を発している。

 宇和島はその不気味な光景に思わず息を呑んだ。地下の存在は知っていたが、実際に目にするのはこれが初めてだ。


「これが秋津洲女子学園アキジョ七不思議のひとつ、『西寮の地下牢』。夜な夜な入口の前を通りかかると、中から女生徒のむせび泣く声が聞こえるという。かつて学園の規律を乱した罰として牢に入れられ、そのまま獄中死した生徒の無念が――」

「宇和島さんは聞いたことあるんですか、その声」

「ないでーす」


 冗談めいたことを抜かしている間に、水戸さんが前に出てきた。


「ここから先はわたくしひとりで行きます。案内、痛み入ります」


 静寂の中に、コツ、コツという水戸さんの足音だけが響く。

 水戸さんは突き当りの懲罰房の前で立ち止まり、扉を開けた。正座のまま大人しく佇む彦根の姿が顕わになった。


「ウチら、このままここにいていいの?」

「二人が掴み合いの喧嘩になったら止めてほしいそうです。なのでこのまま見守ります」

「なにそれ……まあいいけど」


 水戸さんは直立したまま彦根を見据え、しばらく動かなかった。

 やがて……。


 水戸さんが、深々と頭を下げた。


「申し訳ありませんでした」

 

 出てきたのは、凛々しく堂々とした謝罪の言葉だった。


「わが班の若輩者が大変な無礼をいたしました。班長として、謹んでお詫びいたします。後輩には厳しくいって聞かせますので、どうか、ここから出てきてください」


「やはり、あなたの班の生徒でしたか」


 彦根が口を開いた。


「……ここは静かですね。かつては、学園の規律を乱した者をここに閉じ込め、反省させていたとか。まさに、私に相応しい場所だと思いませんか?」

「もう十分です。ここから出てください」

「私には責任がありました。いちど共学化を決断した以上はそれを最後まで遂行し、反発する生徒の心を鎮め、学園の秩序をすみやかに回復する必要があった。しかし、私のしたことはすべて裏目に出てしまった。もうこの学園に、私の居場所はありません」

「ごちゃごちゃいってないで……」


 彦根の悔恨の言葉を聞いていた水戸さんは苛立ったのか、前に出て彦根の襟を掴んだ。


「立ちなさい!立て!」


 見守っていた会津が思わず前のめりになるのを、宇和島は手で制止した。


「そこまでいうのなら、ここを出ましょう。ですがその前に少し、私の話を聞いてもらえますか?ただ、ここだけの話にしてもらいたいのですが」

「……わかったわ」


 水戸さんが襟を掴む手の力を緩めた。

 彦根はしばしの沈黙のあと、再び口を開いた。



「私は、共学化には反対でした」


 水戸さんの目が、驚きのあまり大きく見開かれた。


「……どういうこと?」

「創立以来長く続いた女学園としての伝統を、私たちの代で終わらせたくなかった。ここは女子の学び舎です。女子だけだからこそ得られる自由がある。それは紛れもない、秋津洲女子学園の魅力であり、価値です」

「じゃあなぜ……?」

「私は生徒会の代表者として、何度か理事会の方たちと話をしました。そうするうちに、私はあることに気づきました。『理事会は共学化を推進している』と生徒は口々にいいますが、実際はそんなものではありませんでした。彼らにとって、共学化は既定路線なんです」

「なによそれ……おかしいじゃない。共学化の是非は生徒の意思で決まるって……」

「それですよ。理事会かれらにとっては学生自治なんて、子供のままごと程度のものに過ぎなかったんです。理事会は生徒が拒否しようと共学化を進めるつもりでいます。彼らの高慢な態度を見て、それを確信しました。

 私は腹が立ちました。今すぐ大人たちの顔面をグーで殴りたい衝動に駆られましたが、我慢しました。私にはあなたと違って理性がありますから」


 水戸さんが、むっとした。


「冗談です。……もし生徒が拒否してなお、理事会が共学化を推し進めようとしたらどうなるか、想像してみてください。生徒は怒り、失望するでしょう。学生自治なんて、幻想に過ぎなかったのかと……。そして、わが学園の学生自治は終焉するでしょう」

「……けど、生徒会が受け入れれば、少なくとも体面を保つことはできる。あなたが共学化を受け入れたのは、生徒の自主権を守るため……?」


 その通り、とは彦根は答えなかったが、彼女のかすかな笑みから、その意思を窺い知ることができた。


 水戸さんの、襟を掴む力が再び強くなった。


「そんなの、大人たちのいいなりになってるだけじゃない!」


 水戸さんが声を荒げる。


「なぜ自分の意思を貫かないのよ?なぜ抗おうとしないの!この学園が好きなんでしょ!」

「私は、あなたとは違うんです。……もし、私ではなくあなたがこの役職に就いていたら、この学園はまったく違う道を歩んでいたかもしれませんね」

「そうね。いまからでも遅くない。抗ってやる。戦ってやる。大人たちが何といおうと関係ない。この学園は、私たちのものよ!」

「ぜひ、そうしてください。私は学園の片隅で、見守らせていただきます」


 水戸さんが、彦根の襟から手を放した。


「……早く出るわよ。こんな所にずっといたら、身体こわすでしょ」


 二人が入り口に戻ってくるのを見て、宇和島と会津は慌てて地下室から出た。

 どうやら、これで一件落着のようだ。



「しかし、彦根さんが共学化に反対だったのは意外だったなぁ。まあ、どっちにしろ辞めてくれてせいせいしてるけどね」


 会津から大方の事情を聞いたあと、宇和島はほっとしながらいった。


「そうですか?私、感動しちゃいました」


 会津が目を潤わせながらいった。


「え、なんで……?」

「お二人が分かり合えたみたいで」

「あれ……分かり合ったっていえるのかなぁ……」

「私、信じてるんです。たとえいがみ合う仲でも、腹を割って話し合えばきっと分かり合えるって」

「……会津さんって、結構ロマンチストだねぇ」


 宇和島は、にやりと笑った。

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