会津登場

「はんちょー、宿題できたのでみてください」


 初等部の生徒の呼ぶ声を聞いて、会津はペンを止めた。

 放課後から夕食までの時間は初等部生の宿題の時間、というのが班の決めごとになっていて、この日も例外ではなかった。


「はい、お疲れさま」


 会津は生徒の机に歩み寄り、ノートに目を通した。


「ここの問題だけ間違ってるから、もういっかい解いてみようか」

「はーい」


 こんな風に年少の生徒の勉強の面倒をみるのも、班長の大事な務めだ。


 窓に目を向け、伸びをする。

 この数日は日に日に気温が上がり、窓を開けっ放しにしても寒さを感じることはなくなった。

 心地よい季節だ。

 西に傾き始めた陽が、緑葉の繁りはじめた木々を照らしている。日没まではまだ時間がありそうで、つい散歩に出かけたくなる陽気だ。



「会津君、ちょっといいべか」


 戸口から自分を呼ぶ声が聞こえて、会津は振り返った。

 将棋部部長の天童が戸の前に立ち、こちらをじっと見据えている。


「天童さん、どうかしましたか?」

「こっち、こっち」


 手招きする天童に誘われて、会津は廊下に出た。

 廊下に出ると、こんどは近くの自室の前で手招きをしている。

 会津は彼女の導くままに天童の部屋に入った。

 部屋の真ん中に小卓があり、その上に将棋盤と駒が用意されていた。


「手合わせ願いたい」

「あの、私、宿題をやらないと……」

「ほだなごど、メシの後でいいだろ」


 いわれるがままに、会津は卓の前に腰をおろした。


「駒を落としてやろう。何枚落ちがいい?」

「え、いいんですか?」

「さすけねぇ」

「……じゃあ、二枚落ちでお願いします」

「ほう、強く出たな。よし」


 天童は自陣から飛車と角の二枚を取り除いて、箱に戻した。


 上手うわて、6二銀。


「ほかの部員はどうしたんです?」

「あいづらはやる気ねぇんだ」

「天童さん。つかぬことを聞きますが、まさか、数合わせのために自分の班の生徒を部員にしたんですか」

「ひと聞きの悪いことをいうな。ちゃんと合意は取ってある。早く指せ」


 下手したて、7六歩。まず角道を開ける。


「米沢さんは?副部長ですよね」

「あいつはオレが部費を浪費しないか見張るためだけに入部したんだ。オレはこんなチンケな卓上盤じゃなくて、脚付きのやつが欲しかったんだ。なのにあいつがゴネたせいで……」

「あんな高価なもの、部費じゃ買えませんよ。部活の予算、年々減ってるんですから」

「お嬢様学校が聞いて呆れるな。あいつの部屋の標語、なんて書かれてるか知ってるか?『質素倹約』だとよ。ったくつまんねぇよな。なにが悲しくて学生が生活を切り詰めなきゃならねぇんだ」

「どうして米沢さんにそんなに強く当たるんです?立派な方じゃないですか」

「うるせぇ」


 上手、5四歩。


 標語の話題が出て、会津は天童の部屋に貼られた標語を見上げた。

 『一歩千金』と書かれている。変わった標語だ。意味はよくわからないが、なぜか彼女らしいと思った。


 会津は飛車先の歩を突こうと、2筋の歩に手を伸ばした。

 そのとき。


「4筋だ」

「はい?」

「4筋の歩を突け」

「でも……」

「二枚落ちでは下手はまず4筋の位を取るのが定跡だ。いや、鉄則といっていい」

「そうなんですか?」

「んだ」

「……私を騙そうとしていませんか?」

「信じろ」


 いわれるがままに、4六歩と突いた。


「ところで、天童さんは誰に将棋を教わったんですか?」

「ああっ?」


 天童の鋭い眼光がこちらに向けられて、会津は思わずびくっとした。

 好奇心から訊いてみただけだったのだが、気に障ることだったのだろうか。


 お互い無言のまま、何手か進む。


「…………米沢だ」

「はい?」

「さっきの質問の答えだ」

「そうだったんですか」

「中等部の頃にな。やつは強くて、最初は何度指しても勝てなかった。四枚落ちでも歯が立だねかった」

「それはすごいですね」

「オレは悔しくてたまんねがった。だがら必死で勉強した。やつを倒すために」

「……それで、一生懸命勉強していたら、いつの間にか米沢さんより強くなっていた……?」


 天童は答えなかった。

 ひとつの大目標を達成したあとに訪れる無気力感のようなものを、会津は想像していた。自分の実力が米沢を超えたことに気づいたとき、天童の中にあったのは喜びよりも、無気力感だったのではないだろうか。


「米沢さんより強くなれたのは天童さんが頑張ったからであって、米沢さんの落ち度じゃありません。だからそんなに辛く当たらなくても……」

「それだけじゃねぇ。数年後、オレは将棋部を結成しようとした。やつにも声を掛けたんだ。そしたらあいつ、なんていったと思う?『まだやってたの?』だ!」

「ああ、それは……」


 いわれたときの辛さを、なんとなく想像することができた。まして、将棋好きになったきっかけのひとにいわれたのだから。米沢自身は、傷つけるつもりはなかっただろうけれども。


「だげんど、米沢なんて今はどうでもいい。オレは新しい目標を見つけたからな」

「新しい目標?」

「将棋で天下を取ることだ……って、おい」


 会津が持ち駒の歩を打ったところで、天童が呼び止めた。


「よく見ろ」

「……はい?」

「二歩」

「……あっ」


 会話に気を取られて、自陣の歩をすっかり見落としていた。

 天童がため息をつく。


「すみません」


 会津は肩をすぼめながら謝った。



 ちょうどそのとき、部屋の外から生徒のざわめき声が聞こえた。


「何かあったんでしょうか」

「見に行ったらどうだ?オレは興味ないがな」


 廊下に出てみると、何名かの生徒が階段に押しかけているのが見えた。みな何が起きているか理解しているようには見えず、噂話に引き寄せられているのだろう。


 わけもわからないまま彼女たちを追跡していると、やがて生徒会執務室の前にひとだかりができているのが見えた。


「みなさん、自分の部屋に戻ってください。なんでもありませんから」


 ひとだかりの中から、野次馬をなだめる声が聞こえる。この声はたぶん、生徒会の書記長だ。


「あっ、会津さん。ちょうどいいところに。ちょっと来てもらえますか」

「えっ、私ですか?」


 書記長に呼び止められて、会津はいわれるがままに執務室に足を踏み入れた。

 執務室内には、書記長のほかにもうひとり、生徒がいた。


「水戸さん……?」


 水戸さんが澄ました顔で椅子に座っている。彼女はたしか、謹慎中だったはずだ。

 会津は混乱していた。いま生徒会長に代わって生徒会業務を遂行しているのは彦根だったはずだ。その彦根がここにおらず、代わりに彼女との不仲説が囁かれている水戸さんがいる。


「あの、状況がまったくわからないのですが、私はなぜ呼ばれたんでしょうか」

「水戸さんへの処罰について、会津さんのご意見を伺いたくて……」

「処罰?なんの処罰ですか?水戸さんはもう罰を受けてるじゃないですか」

「それとは別の件です」

「あの……ちゃんとわかるように説明してもらえますか」

「すみません。最初から順を追って説明しますね。……昨日の放課後、校門で暴力事件が発生しました。襲撃を受けたのは彦根さんで、加害者は三人組の生徒でした」

「彦根さんが……?」

「生徒は班章を身に着けておらず、顔も隠していました。うち二名は返り討ちにあいましたが、残る一名が彦根さんを捕縛し、その場から連れ去りました。連れ去る様子を何名かの生徒が目撃しており、彼女たちの証言を集めた結果、犯人は水戸さんの班の生徒の可能性が高いとの結論に至りました。そして問いただしたところ、水戸さんの班の生徒三名が襲撃実行を認めました」

「それで、彦根さんは今どこに……?怪我は?」

「犯人は彦根さんを西寮の地下にある懲罰房に閉じ込めました。怪我はないそうです」

「懲罰房?うちの学校に、そんな場所ありましたっけ?」

「歴史の長い学校ですから……。あ、もちろん今は使っていませんよ。……私が救助に向かいましたが、彦根さんは出てきてくれませんでした」

「え……なぜですか?」

「ここで少し頭を冷やしたいと仰っていました。それから……生徒会長補佐を辞職したいと」


 書記長は伏し目がちになりながら力ない声でいった。

 やがて表情を引き締め、水戸さんを見据える。


「もういちど尋ねます。本当に水戸さんは関与していないのですね」

「天地神明に誓って……いいえ、ミヤコ様に誓って、わたくしの指示ではありません」


 それはいつもの気性の激しい水戸さんとは違う、慎ましく穏やかな口調であった。


「水戸さんはこういっていますが、会津さんはどう思われますか」

「水戸さんを疑うのであれば、関与したという証拠を示すべきです。それができないのであれば、水戸さんの証言を信じるべきじゃないですか」

「それは……そうですが……。連帯責任というものがあります。たとえ水戸さんが直接関与していなかったとしても、班長たるもの、班員の行動には責任をもたなければなりません。……たしかに彦根さんのやり方は強引だったかもしれませんが、暴力に訴えるなんて、秋津洲女子学園アキジョの生徒のすることではありません。学園の名誉を傷つける行為です」


 書記長の声には怒りがこもっていた。書記長はもっと気弱なひとというイメージを持っていたために、会津は少し驚いていた。


「わたくしは如何なる処罰も受ける覚悟です」


 水戸さんが落ち着いた口調でいった。


 会津は思案を巡らせた。暴力は許せない。その考えは同じだ。自分も班長だから、連帯責任についても自覚しているし、それが長く続いた伝統だということも承知している。しかし……。


「もうやめましょう。こんなこと」

「会津さん……?」

「処罰処罰って、このひと月の間に、どれだけの生徒が処罰を受けたんでしょう?それは何のためですか?学園の規律を守るためですか?生徒を罰することで、この学園は良くなったんでしょうか?ちっとも良くなってないじゃないですか。生徒の不満が募るばかりで……。なぜ生徒が生徒を罰しないといけないんです?こんなことを続けていたら、不信感ばかりが大きくなって、学園は滅茶苦茶になります。書記長の怒る気持ちもわかりますが、ここは冷静になって、これからの学園のことを考えるべきだと思います」


 喋りすぎた。

 相手に冷静になれといいながら、自分がまったく冷静ではなかった。


「すみません……出過ぎたことを」

「いえ、私も冷静ではありませんでした」


 書記長が穏やかな口調いった。


「会津さんのいうとおりです。私たちは変わらなければなりません。実行犯の三名にはしっかり反省してもらいますが、水戸さんへの追求はこれ以上行わないことにします」

「ありがとうございます。……あと、もうひとついいですか?」

「何でしょう?」

「いま謹慎処分を受けている皆さんを、早めに解いていただけないでしょうか。尾張さんに福井さん、土佐さんに……ええっと、それから……」

「……宇和島さんです」

「そう、宇和島さん。いまの学園には彼女たちの力が必要だと思います」

「ですが、まだ謹慎期間が……」

「彦根さんのやり方を継承されるおつもりですか?」

「そういうわけでは……。わかりました。役員会に図ってみます」


 こうして、突発的に開かれた水戸さん処分会議は幕を閉じた。


 執務室を退出しようとしたとき、水戸さんに呼び止められた。


「会津さん……ちょっと、頼みたいことがあります」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る