西寮の生徒たち(二)
薩摩は決して努力をやめないストイックさで誰からも一目置かれる存在である。
健康体でもあり、これまで一度も遅刻欠席をしたことがない。
その薩摩がインフルエンザに罹って学校を休んだと聞いたときは、宇和島はかなり衝撃を受けた。
いまも薩摩は西寮の空室に隔離され、療養中だ。
宇和島は一縷の希望を抱いて、薩摩を見舞うことにした。もちろん、マスクの着用は忘れない。
隔離部屋の戸には、『面会謝絶』と書かれた張り紙が貼られていた。
厄払いの御札のようなデザインで生徒をビビらせているつもりだろうが、宇和島には効果がない。
宇和島は躊躇せず戸を開けた。
「さっつん、お見舞いに来てやったぞー」
隔離部屋を覗いて最初に目に飛び込んできたのは、大きなダンベルを片手にトレーニングに勤しむ薩摩の姿だった。
「……え、何してるの?」
「何って、見てわかりませんか?筋トレです」
「いや、もうちょっと病人らしくしようよ」
「もう熱も下がっているのに、一週間は登校停止といわれているのですよ。身体がなまってしまいますし、何より退屈です」
「症状が悪化したらどうすんのさ」
「もう快復しているので大丈夫です」
「駄目ダメ。療養中のトレーニングは禁止します。ダンベルは宇和島先生がお預かりします」
宇和島が両手を差し出すと、薩摩はしばらく考え込んだあと、持っていたダンベルを宇和島に差し出した。
「素直でよろしい」
薩摩が手を放すと、ダンベルは物理法則の為すがままに自由落下し、床を激しく鳴らした。宇和島は慌てて持ち上げようとするが、びくりともしない。
何だこれ。一体何キロあるんだ。
「見舞いは嬉しいのですが、あまり長居しないほうがいい。伝染るかもしれませんよ」
「大丈夫。予防接種受けてるから」
「私も受けました」
「えっ……」
「えっ……」
「……あ、そうだ」
宇和島は見舞い品として持参していた大瓶を差し出した。
「栄養たっぷりみかんジュース。免疫力も上がるよ」
「ありがとうございます」
「これでね、みかんご飯をつくるとすごくおいしいんだよ」
「なんですか、それ。聞いただけで目まいがするんですが」
「騙されたと思ってやってごらんよ。おいしいんだから。炊飯器は寮母さんにいえば貸してもらえるよ。なんならウチがつくろうか?」
「いえ、そのままいただきます」
「うー。ダンベル代わりにしないでよね」
「それにしても、今回は災難でしたね」
薩摩が話題を変えてきた。今回の一斉処分のことだ。
「そうだよー。もうひどい目にあってるんだから。ていうか、さっつんも副会長推しだったでしょ?」
「私が処分を免れたのは、私がインフルエンザに罹ったからでしょう。ですが、もう少し詳しく経緯を話したほうが良さそうですね」
「ぜひ聞きたい」
「生徒会による共学化断行の報せを聞き、私はすぐに行動を起こそうとしました。ミヤコ様の許しを得ない形での共学化は必ず学内に不和をもたらします。私はまず、ミヤコ様を通じて生徒会に抗議することを考えました。ミヤコ様による抗議とあれば生徒会も無視するわけにはいかない。私は抗議のために『自学の間』に向かおうとしましたが、そのとき、身体にわずかな変調を感じ、念のため診断を受けたところ、インフルの可能性があると」
「わずかな変調って……」
「そして私は、別室で安静にするよう指示されました。結果的に、福井さんやあなた達に責任を押し付ける形になってしまった。実に不甲斐ない」
「いや、病気なら仕方ないよ」
「私は熱にうかされながらあれこれ思案しました。抗議すべきか否か。そして、ある考えに至りました。今はまだその時ではないと」
「……ん?どゆこと?」
「今は行動を起こす時ではないと、誰かがそういっているような気がしたのです。ですから私は、抗議しないことに決めました」
「ちょっと待ってよ。生徒会に従うつもりなの?このままじゃ彦根さんの思うがままだよ」
「今は好きにさせておけばいい。彼女のやり方がそう長く続くとは思えません」
薩摩の突然の態度豹変に、宇和島は困惑した。こっちは謹慎で困っているというのに、なんだか仲間を失った気分だ。
「それから、勉強の件では私は力になれません」
「うっ、察しのいいことで」
教科書とノートを携えているのを見て、ここに来た別の目的を察したのだろう。
だがさすがに、病人を相手に教師役を乞うのは気が引ける。
「力にはなれませんが、ひとつ提案があります。彼女をたずねてはどうでしょう」
「彼女?」
「少々変わり者なので、あてにできるかはわかりませんが」
『彼女』の部屋は、北棟の西端近くにある。
薩摩の居室をあとにし、彼女の部屋の前に立った。
宇和島は彼女について知っていることを思い返してみるが、それが驚くほどに少ないことに気づかされる。
理系科目で彼女の右に出るものは居ない、というのが彼女に関する専らの定評だ。だがそれ以外に関してはあまりに謎が多い。
休日も他班の生徒との交流はほとんどなく、自室にこもっているが、いったい何をしているのか、少なくとも宇和島は知らない。
部屋の引き戸は閉まっていた。
宇和島は戸に手をかけ開けようとするが、びくりともしない。施錠されているのか。
諦めて戸から一歩離れる。よく見ると、戸の左右と上部の壁の三箇所に、黒いドーム型の機械のようなものがくっついている。これは、カメラか……?
機械が赤いランプを発し、一斉に動き始めた。宇和島の顔を見ているようだ。
二、三秒して、『ブブー』という機械音が鳴る。
『顔認証、エラー。入室には、班長の許可が必要です』
滑舌のいい女性の声がどこかのスピーカーから響く。
「なんぞ、これ……」
なんだか気味が悪い。再び戸に手をかけてみるが、やはり動かない。
突然、甲高いモーター音とともに、引き戸が勢いよく開いた。自動扉だと……。
薄暗い部屋の中に、ひょろりとした長身が立っているのが見える。眼鏡をかけた色白の顔が、小柄な宇和島を見おろした。
「ありゃ宇和島さん、いらっしゃい。今日もやーらしかね」
「あ……佐賀ちゃん……こんにちは」
「ウチを訪ねてくるとば珍しかね。なんか用と?」
「うん、ちょっと相談したいことがあって」
「そうね。さ、あがらんしゃい」
「え、いいの?」
「よか、よか」
佐賀は決して自室に他班の生徒を入れないという先入観があったため、彼女の招きは思いがけないことだった。
招きに応じて、宇和島は恐る恐る薄暗い室内に足を踏み入れる。
『学園の最先端研究室、佐賀フロンティアへようこそ』
再び、女性の音声が響き渡る。
他の班よりも部屋が狭く感じるのは、所狭しと並べられた機械のせいだろう。ひときわ目を引くのは、コンピュータが格納された大きな棚だ。サーバラックというやつだろう。
「佐賀ちゃんってさ、普段部屋にこもって何してるの?」
「いろいろな研究をば」
「たとえば?」
「一時的に身体能力を飛躍的に高める薬とか」
「それって、ドーピングなんじゃ……」
「あと、最近嵌っているのはAIですね。AI教師ばできたらばらい凄かないですか。ただ教えるだけじゃなく、生徒の質問ば解釈して答えを見つくっとです」
「うん……それはすごいね……。そういえば、いま授業中だよね。こんなところにいて大丈夫なの?」
「大丈夫。リモート受講ですけん」
「リモート?」
佐賀の指さした先に、タイル状に並べられたモニターがあった。その中の一枚に、教室で教鞭をとる先生の姿が映っている。
宇和島はぞっとした。教室のどこかに、カメラが設置されているということではないか。
「いいの、これ?」
「なぁに。試験で満点とれば誰も文句いいやしません。ウチは学び方改革を実践してるんです」
「学び方改革……?」
「はい。ばってん、ウチの学園はそういう改革に後ろ向きやけん困ります。この学園は、強力なホメオスタシスに支配されてますけん」
「ホメオタ……何?」
「ホメオスタシス。現状を維持しようとする力のことです。班とか連帯責任とかいう制度が続いとーのがいい例です。世ん中は絶えず変化してます。その変化に適応せんば、あっちゅう間に時代遅れになるっちゅうことです」
「でもさ、共学化っていうのはある意味すごく大きな変化じゃない?佐賀ちゃんは共学に賛成?反対?」
佐賀はニヤリと笑みを浮かべるだけで、すぐには答えない。
「知っとりますか?統計的に、共学校より男女別学のほうが生徒の学力が高いっちゅうデータがあります」
「え、そうなの?」
「ですが、そもそも学力の高い生徒が別学に進学しているっちゅう可能性もあります。だけん、統計データを鵜呑みにするんはようなかです」
「ふぅん……で、結局、佐賀ちゃんは賛成なの?」
再びニヤリ。
これほど頭のいいひとなら、すでに態度を決めていてもおかしくないはずだが、それでも言明しないのは、生徒会に目をつけられるのを避けるためだろうか。だとすれば、彼女はイメージ通りの計算家ということだろう。
「そういえば、相談があるーいいよったね」
「あ、そうだった。じつは、勉強を教えてくれるひとを探してて」
「勉強熱心。よかばい、よかばい」
「次の試験でみんなをぎゃふんといわせたいんだよね。力貸してくれないかな?」
「試験対策には自信あるばってん、ひとに教えるんはちょっと……。研究で忙しいけん」
「やっぱり……」
「ばってん、いいこと教えます」
佐賀は机の上から数枚の紙を拾い上げ、それを宇和島に手渡した。
「これ、なに?」
「昨年の同時期の試験問題です」
「え……マジ?」
「担当教師は変わってませんから、それで傾向はバッチリ掴めます」
宇和島は驚嘆しながら試験用紙を刮目した。これはかつてないほど強力な武器になるに違いない。
「だんだん!……でも、どうやって手に入れたの、これ?」
「……知りたいですか?」
佐賀の浮かべた不気味な笑みが、プレッシャーのように宇和島の精神にのしかかる。
「……いえ、結構です」
「使うてもよかばってん、コピー機は使わんでください。記録を見られるとまずいことになります」
「じゃあノートに写すね。……あともうちょっと部屋を明るくしてくれるとうれしいなぁ」
過去問を写し終える頃には、終業まであと少しという時刻になっていた。
佐賀に礼をいい、自動ドアに魔改造された戸をくぐり、宇和島は彼女の部屋をあとにした。
「妖怪だ……」
佐賀との奇妙なひとときを振り返りながら、ひとりごちる。
何も考えずに彼女から過去問というギフトを受け取ってしまったが、本当に良かったのだろうか?
彼女に弱みを握られることになりはしないだろうか?
あとで見返りを求められたりしないだろうか?
佐賀のことはいったん忘れて、宇和島はこれからのことを考えた。
過去問という強力な武器を手に入れたものの、これを自力で解けなかったり、解けたとしてもそれが正しいかどうかを検証できなければ、たいした意味がない。やはり教師役になってくれる誰か、一緒に勉強してくれる誰かが必要だ。
薩摩レベルは高望みだとしても、それに引けをとらない優秀な生徒がほしい。
それをあてにするなら、やはり彼女しかいない。彼女の部屋は佐賀と同じ北棟にある。まもなく終業時間なので、校舎から帰ってくる頃だろう。
宇和島は萩の部屋の前に立ち、彼女の帰りを待った。
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