彦根と生徒会長の部屋
「失礼します」
彦根が東寮の最上階にある生徒会長の部屋を訪問したのは、共学化に関する意見交換会が開かれた翌日のことだった。
「あ、ひこにゃん。いらっしゃい」
生徒会長の澄んだ線の細い声を聞いて、彦根は室内に足を踏み入れる。入ってまず気づくのは、部屋に漂う甘い香りだ。
「定例の役員会の議事レポート、お持ちしました。書記長が多忙なので、代わりに私が」
「うん、ありがと。机の上に、置いといて」
「承知しました。いつもは退屈な内容ですが、今回は爆弾入りで面白いですよ」
「うん、うわさは聞いてるよ」
例の件に関する噂は破竹のごとく学園中に広まっており、ちょっとした騒ぎになっている。長期欠席中の生徒会長の耳にもさすがに入っているようだ。
十ページ弱のレポートを机の上に置いた。レポートを届けに来たというのは実は方便で、本当の目的は別にあるのだが、それを直接的にいうつもりはない。
彦根は部屋を見回す。班単位での集団生活を原則とするこの学園において、個室での生活が認められるのは生徒会長をはじめとするごく一部の生徒だけだ。部屋の中には、オーブン、炊飯器、フードプロセッサーといった、どこから運び込まれたのかわからない調理道具が所狭しと並べられている。
ベッドの上やその周りには、大小様々な白い犬のぬいぐるみが敷き詰められている。紀州犬をモチーフにした『キノック』というキャラクターで、会長の大のお気に入りだ。会長自身が着ている着ぐるみパーカーも、このキャラクターのグッズのひとつだ。
「今日は何を作っているのですか」
テーブルに向かって何か作業をしている会長に、彦根は訊いた。部屋を訪ねたとき、彼女がしていることといえば大抵、お菓子を作っているか、お菓子を食べているかのどちらかだ(稀に、キノックと戯れているだけのときもある)。甘い物に目がないのだ。テーブルに調理道具が並んでいるのをみるに、今日は作る方のようだ。
「ずんだ餅。仙台さんに教えてもらったの」会長は答えた。「カステラはもう飽きちゃったからね。最近、いろんなお菓子を研究してるんだよ」
「他には、どんな?」
「くわにゃんに教えてもらった……なんて名前だったかな。……そうだ、安永餅。中にあんこが入ってるんだって。こんど作ってみようと思うんだ」
背後からテーブルを覗くと、ちょうど茹でた枝豆をすり鉢で潰しているところだった。枝豆特有の青々とした香りで、思わずお腹が鳴りそうになる。
生徒会長。華奢で背は低く、滅多に外に出ないためか白粉のように肌は白く、まるでお人形のようだ。身長の比較をするなら、昨日の意見交換会の参加者の中では最も小柄だった宇和島よりさらに小さい。
彼女の部屋にいると、なんだか時間の流れがゆっくりになったような、不思議な気分になる。部屋の外では目まぐるしく色んなことが起こるが、そういった喧騒さえ、この部屋にいると忘れてしまいそうになる。それが生徒会長の部屋だ。
「先日、イレギュラーな意見交換会が開かれまして。……編入組まで呼ぶのは異例なことです」
「うん……それで?」
「副会長を呼び戻せ、と主張する不届きな者が。まあ水戸さんが副会長を担ぐのはわかるとしても、そこに編入組が乗っかるのは……なんとも不気味です。もちろん、私が一蹴しましたが」
「副会長……」会長が小声で呟いた。「あのひと、あまり好きじゃない」
「知ってます」
澄ました顔で、彦根はいった。
すり鉢の枝豆はすっかり原型を失い、きれいな蓬色のペーストが出来上がっていた。
「そうだ」あることを思い立ち、彦根はいった。「それが完成したら、私と一緒にお茶でもいかがでしょう」
「お茶?いいの?」嬉しそうな声で、会長は訊き返す。
「はい。ぜひ会長とご一緒させていただきたく」
「やった!がんばって完成させるね」
茹でた後に水で冷ました餅を小さく切り分けて、そこにずんだペーストを乗せる。餅は手作りではなく既製品らしい。匙で餅全体を覆うようにペーストを延ばしたら完成だ。
その後、彦根は生徒会長を校舎の茶室に案内した。
四畳半の小間で、彦根が部長を務める茶道部の活動拠点でもある。床の間には『一期一会』と書かれた掛軸が掛けられている。彦根の好きな言葉だ。
釜で熱したお湯を柄杓で掬い、茶碗に注ぐ。茶碗をゆっくりと回し、温まったらお湯を建水に捨てる。茶碗の水気を拭き取り、茶器の抹茶を茶杓で三杯、茶碗に移す。再びお湯を茶碗に注ぐ。お湯の量は少なめ。左手を茶碗に添え、右手に茶筅を持ち、手首を使いながら、はじめはゆっくり、やがて素早くお茶を点てる。ここまでの所作を一切の無駄のない手つきで行う。ここでもうひと工夫。
向かいで正座している会長は彦根の所作をしげしげと眺めている。少し緊張しているようだ。膝下には、菓子鉢に乗せられた会長お手製のずんだ餅が置いてある。
「どうぞ」
出来上がったお茶を会長の膝下に運んだ。会長は茶碗をじーっと眺めた後、彦根と目を合わせる。彦根は笑顔で頷き、茶を飲むよう勧める。
会長は恐る恐る茶碗に手を伸ばし、口元に運ぶと、茶碗をゆっくりと傾けた。
「あまっ!」
会長が驚きの声を上げた。
「甘いよ、これ!」
「抹茶ラテです」
彦根は得意げな笑みを浮かべながらいった。
会長は再び茶碗を口につける。
「ふぁ、おいしい」
会長は呟きながら顔をほころばせた。緊張はすっかりほぐれたようだ。
「やっぱり甘いお菓子には甘いお茶だよねー」
そういって会長は菓子鉢を手に取り、ずんだ餅を口に運んだ。
「んん、ずんだ餅もおいひいよ。ひこにゃんも食べて食べて」
「はい。いただきます」
それからしばらく、お茶とお菓子を愉しみながらの談笑が続いた。その昔、時の生徒会長が突然菜食主義に目覚め、学生食堂のメニューから肉と魚を排除しようとして生徒の猛反発を食らった話や、剣道部が廃部になりかけた時の話など。いま一番ホットな話題である共学化に関しては、敢えて触れなかった。
「……先ほどの話の続きですが」
「うん?」
「意見交換会の」
「ああ、続きって?」
「結局、副会長を呼ぶ代わりに、新たな役員ポストを設けることになりました。生徒会長の仕事を補佐する役職です」
「ふうん。名前は決まってるの?」
「まだ検討中だそうです」
「そっか……」
会長は視線を落として、何か考え事をするような仕草を見せた。
少しの間のあと、茶碗に残っていた抹茶ラテをすべて飲み干す。
「お茶、おいしかったよ」
「ありがとうございます」
「……ねえ、ひこにゃん」
「はい」
「いろいろ大変だろうけど、がんばってね」
彦根が待ち望んでいたのは、生徒会長のその言葉だった。
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