第49話「チュー」

 映画を見終わると、ひまりからおうちに誘われた。

 高校にはおばあちゃんちから通ってるらしく、実家はフェス会場のすぐ近くにあった。


 ゴールデンウィークに帰省してたから、現地集合で交通費もいらなかったのか。

 それにしても凄い偶然だ。


「修くん、どうぞっ! ママとパパはいまお夕飯の買い物行ってるって」


「うん、お邪魔します」


 僕は靴を脱いで玄関に上がる。

 その瞬間……僕は我慢が出来なくなってしまった。

 ドキドキして興奮状態。


「ねぇ、ひまり……抱きしめていい? あと……嫌じゃないならチューもしたい」


「……へ?」


 ひまりは僕のお願いに少し困惑した表情を見せるも、すぐに了承してくれた。


「……いいよ……修くんなら……いいよ」


「じゃあ、遠慮なく」


 ひまりは何故か両腕を差し出して瞳を閉じた。

 僕はひまりの横を通り抜け、階段に向かう。


 体を屈んで優しくナデナデ、お鼻を近づける。

 警戒心はない。とっても人懐っこい。

 鼻が自ら寄ってきて鼻チューご挨拶。

 ゆっくりと持ち上げて優しく抱きしめた。


「もふもふだぁ……可愛い……ねぇ、ひまり。この猫ちゃんの名前って、なんて言うの?」


 ひまりは上げていた両腕を静かに下ろすとボソッと呟いた。


「……ばかぁ……」


「バカー? 変わった名前だね」


「修くんのっ、ばかぁ!」


 ……え?


 ……なんで?


 *****


 僕が猫ちゃんを思う存分堪能したあと、リビングに案内される。

 4人掛けのカウチソファーにひまりと並んで腰掛けた。


「そういえば修くん……見た目には分からないけど、ケガしてない?」


「うん、全然大丈夫だよ。最初はびっくりしたけど、そのあとは全部防いだし」


「……ホントに? じゃあ……念のため見せて?」


 ひまりは僕の顔をペタペタと触ったあと、少し体勢を整えた。


「修くん、よく見えないからこっち」


 僕の頭が下に向かって大きく移動する。

 とっても柔らかくて温かいクッションに当てられる。

 ひまりの顔を凄く近くで見上げてた。


 ペタペタ、ムニムニ、サスサス


 僕の顔をいろんな触り方でいじくってる。


「ひまり? 遊んでない?」


「ふふっ、だって修くんの顔可愛いんだもんっ」


 ニコニコでご機嫌な様子だった。

 ひまりは僕の両頬に手を当てながら質問してくる。


「ねぇ、修くん? さっきマタゾーにチューしたの?」


 マタゾーはひまりが飼ってるさっきの猫ちゃんのことだ。

 何だか変わったネーミングセンス。

 ちなみにメスらしい。


「うん、チューって言ってもお鼻をくっ付けるだけだよ? 猫ちゃんにとってはご挨拶みたいなものだね」


「ふーん……」


「ひまり?」


 そろそろと、ひまりとの顔の距離が縮まっていく。

 ひまりの髪が僕の両頬を伝い、首筋までかかる。

 全身がゾワっとする。


 僕の眼前には、ひまりのぷるぷるとした唇が。


 無意識に呼吸が止まった。

 さっきから心臓がとってもうるさい。


 鼻にちょこんと何かが触れたあと、ひまりは顔を上げて元の体勢に戻った。


「修くん、こんばんはっ」


 どうやら僕は鼻チューをされたらしい。

 ひまりの顔が真っ赤になっていた。


 僕も耳が熱い。

 ひまりと同じくらいの赤さになってるんだろうか。


「ねぇひまり、『こんばんは』って言ったら、鼻チューの意味がないと思うんだけど……」


「……そうだねっ、じゃあ、やり直しっ」


 ひまりの顔がまた僕に近づく。

 やられることがわかってると、余計に緊張する。

 その時だった。


 バンッ!


 窓が強く叩かれる。

 僕はガラス越しに目が合った。


 ひまりのお父さんと……。


 *****


「もうちょっとだったのに〜、パパのお邪魔虫〜」


「……何のことだ」


「ひまりー? 悪いんだけど、お風呂掃除して沸かしてきてくれない?」


「はーい」


 ひまりはリビングを出て行った。

 僕はダイニングテーブルに腰掛けてひまりのお父さんと対面している。

 キッチンにいたひまりのお母さんもやってきて、お茶が差し出された。


「ありがとうございます。いただきます」


「どうぞー」


 ひまりのお母さんはひまりの面影があって、とっても美人さんだ。


「ひまりとそっくりで、お綺麗ですね」


「うれし〜、修くんもひまりが言ってたとおり可愛いね〜」


 ひまりのお父さんは少し強面こわもてな感じだけど、きっと優しい人に違いない。


「あなた? 少し顔が怖いわよ?」


「元からだ」


「それでどう? 修くんは」


「……」


 お父さんは僕の顔をじっと見て何も言わない。

 一体何が『どう』なんだろう。


「ねぇ、修くん。ありがとね?」


「え? 何がですか?」


「ひまりね? この間の春休みに帰ってきたときは、心から笑ってなかった。二年生になって、修くんとお友達になってからはとっても楽しそうなの。まるで昔のあの頃に戻ったみたい」


 あの頃っていつのことだろう。

 心から笑ってないというのは、僕が初めてひまりとあった直後みたいな感じのことかな。


「ひまりが苦しんでた時、どうすればいいか……分からなかった。いろいろ考えて考えて、結局ひまりに新しい環境を与えてあげることしかできなかった。母親失格よね……」


 お母さんだけじゃない、お父さんもきっと同じ気持ちになってるのを感じとった。

 子育てってとっても大変だと思う。


 その時に何が正解かなんて、誰にもわからない。

 でも、僕は絶対に間違いなんかじゃないと思った。

 それをどうしても伝えたい。


「お母さん、お父さん、ありがとうございます」


 僕が突然感謝を述べると、二人はキョトンとした顔で僕を見てきた。

 その言葉の意味を届ける。


「僕はひまりと一緒にいて、すごく楽しいです。ひまりと一緒にいて、たくさん元気をもらえます。ひまりとお友達になれて、とっても嬉しいです。そんなひまりを育ててくれて、ありがとうございます。ひまりと会わせてくれて、ありがとうございます」


 僕はお母さんの瞳を見て、心の底から本心を送り届けた。


「母親失格なんて、絶対そんなことないです。だって……」


 だって。


「ひまりはあんなにも、いい子なんですから」


「修くん……うぅ……」


 お母さんは両手で顔を覆い泣き出してしまった。

 やっぱり、ずっと思い悩んでたんだと思う。

 僕の言葉で、少しでも気持ちが軽くなってくれたらいいな。


 お父さんはお母さんの背中をしばらく摩ったあと、僕の方に顔を向けた。


「修司くん……と言ったか?」


「はい」


「今日はもう遅い、泊まっていきなさい」


「え?」


「あ、あなた? それって?」


「……構わん。この子なら」


 一体何の話だろう。

 確かに夜も遅くなってる。田舎だからそろそろ電車に乗らないと帰れなくなる時間帯だ。


「えっと……お母さんに聞いてみます」


 お母さんの性格だとダメとは言わないのが分かってたけど、一応電話で確認する。


 そのあとにひまりのお父さんに電話を代わり、すんなりお泊まりすることが決まった。


「ママー、お掃除終わったよー」


「ひまり、今日は修司くんとお泊まりだ」


「……え? えぇ〜!?」


 ひまりの悲鳴がリビングに響き渡った。

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