第44話「枯れた花」※ひまり
座敷に降り注ぐ薄明かりで目が覚めた。
時刻は明け方、みんなまだ寝てる。
昨日は一番早く寝てしまったから、一番早く起きたのは当然だった。
「おなか痛い……」
体調は最悪だった。
昨日、食べ過ぎちゃったかな……。
誰かがお布団被せてくれたみたい。
寝相が悪かったのか、浴衣がずいぶん乱れてる。
これ、何だろう……鼻水?
汚い……少し乾いてるけど白いドロドロしたのが浴衣に付いてる。
ティッシュで拭き取ってゴミ箱に捨てた。
トイレを済ませて、みんなが目覚めるまでスマホをいじって時間が過ぎるのを待った。
*****
今日は修学旅行の二日目、移動のバスに乗り込む。
私の席は後方で、時間通りに指定の席に着いた。
出発の時刻になって、バスの乗務員さんが人数を数えてるときに異変が起きる。
「先生、笹倉くんがまだ来てません」
「あと少しだけ待って来なければ探しに行って来ます」
大丈夫かな。
寝坊しちゃったのかな。
そんなことを思ってると、1分後に笹倉くんが勢いよくバスに乗り込んだ。
「遅いぞー」
「すいません、トイレ行ってました」
みんなの視線は笹倉くんへ一点に集まる。
その時だった。
「あっ、花菱さん! 昨日はありがとね! すごく気持ちよかったよ!」
早朝のバスに響いた大きな声。
みんながそのセリフを聞いていた。
気持ちよかった? 気分がいいってこと?
昨日はありがとうって、お財布を拾ったことだよね?
「うん」
私はそれ以上は深く考えずに返事をした。
疑問符が浮かんでたのは、きっと私だけじゃなかったはず。
昨日、私と笹倉くんの間で『笹倉くんが気持ちよくなる何かがあった』その印象が深くクラスメイトに植え付けられた。
それからは体調も徐々に回復して、楽しい修学旅行を過ごした。
修学旅行から帰ってきて、土日はゆっくりと家で寛ぐ。
また明日から学校。
寝付こうとしたときにスマホが鳴った。
「こんな時間に誰だろう……笹倉くん?」
メッセージアプリで送られてきたのは1つの動画。
その前後に動画に関するメッセージは何もない。
何気なしに再生マークをタップした。
「え……」
なに、これ。
浴衣姿の、私。
修学旅行の時の、旅館の浴衣。
映ってるのは、あの部屋。
血の気が引いていく。
ドクドクと心拍数が上がり、頭の中が白く染まっていく。
「違う……これは……私じゃない……」
映ってるのは、私。
「こんなの……うそ」
嘘じゃない。
ママとパパが見たって、私だっていう。
「……いや……触らないで……」
触られてるのは、私。
頭の中で
小さな画面の中で汚されていく自分を目の当たりにし、正常な思考が奪われていく。
極度の緊張で視界がどんどん狭まっていく。
息苦しくて、うまく、呼吸が、できない。
自分にしか認識できない雑音の中から──声が聴こえてくる。
すごく気持ちよかったよ
──レイプされた……。
それ以上、怖くて動画は見れなかった。
私にできたのは、スマホの電源を切って情報をシャットアウトすることだけ。
一睡も出来ずに、次の日は学校を休んだ。
その次の日も、またその次の日も、あの動画の存在を考えると人に会うのが怖くなった。
自分がどこまで何をされて、それに対してもたらされる体の変化のことも含めて、全て考えないように必死だった。
ずっと胸に穴が空いてる感覚が続いてる。
ママとパパには何も言えなかった。
あんなもの、もしも見られたらって考えただけで気分が悪くなった。
絶対に二人に悲しい思いをさせたくなかった。
私は何も言わなかったけど、ママとパパはいつも通り接してくれた。
きっと私がいないところでは、ずっと私のこと話してたと思う。
このままじゃダメだと思った。
1週間経って、スマホの電源ボタンを長押しする。
久しぶりに見るロゴマーク。
心臓がバクバクいってる。
メッセージアプリには、見たこともない数字のバッジが表示されていた。
震える手でそれをタップする。
『動画見たんだけど──』
その文字を見た瞬間、私はスマホを壁に向かって勢いよく投げつけた。
大きな音が鳴り、スマホは地面に落下する。
多分、壊したと思う。
それを拾うのさえ、怖かった。
1時間経ったとき、ママに見られるかもしれないと思って頑張ってスマホを拾いに行った。
「壊れてる……」
それは安堵だった。
ママに買って貰って、大切に使ってたのに。
壊れたことに安心感を覚えたあと、罪悪感が襲ってくる。
ママに見られないように、壊れたスマホは机の奥に隠した。
もう、私は現実から目を背けた。
あんなものが出回って、これまで何も言わなかった私。
今さら何言ったって遅い。
あの動画のことを少しでも考えるだけで、なにも覚えてないことの恐怖が付き纏う。
私は真実を知ることから逃げた。
この日を境に──私は咲くのを諦めた。
*****
悪夢を見るようになった。
私の上に覆い被さり、体をまさぐる男の子。
私はただ、それをジッと見てる。
抵抗しようとしても何もできない。
金縛りにあってるような、そんな感覚。
「いや〜!!」
うなされて、悲鳴を上げて目を覚ます。
「ひまり、大丈夫だよ」
「ママ……」
そんな私をママはギュッと抱きしめてくれる。私が壊れなかったのは、ママのお陰だったと思う。
それからもずっと、家に引きこもった。
私が何も言わなくても、学校で何かあったんだって、もうママとパパはとっくに気付いてる。
勉強もずっとしてない。
ただただ、過ぎゆく日々をベッドの上で眺めてた。
なんでこんなことになっちゃったんだろう。
どうして私はここにいるんだろう。
私は何したんだっけ。
あの事を考えそうになると思考を止める。
考えないように考えないように、必死に眠る。
時折、悪夢を見て起きる。
その繰り返し。
もう、生きてるのがつらいよ──
そんな時だった。
「ねぇ、ひまり? この高校、受験してみない?」
ママが高校のパンフレットを持ってきた。
中学3年生で受験シーズン。
私が今から勉強したって、受かるのかな。
その高校は、おばあちゃんちの近くの高校だった。
ここから凄く遠い。誰も私のことを知らない場所。
「花澤大学附属高等学校……どうしてここなの?」
「ひまりも読んでみたら分かるよ」
「うん……」
私はママに言われるがまま、そのパンフレットを手に取った。
なんだろう……これ……。
その1冊のパンフレットには、“希望”が詰まっていた。
そして読み手の心理を突くような、独特な表現と情報が脳裏を突き抜けるように計算され尽くされたレイアウト。
読む手が止まらず、気づいたら最後のページをめくってた。
「凄い高校だね……」
「そこじゃないのよねー」
「え?」
「そのパンフレットね? その高校に通う1年生の女子生徒が監修したんだって」
「これを……」
私と1学年しか違わない女の子がこれを作った。
まるで現実味のない話。
「あとね、こっちが大学のほう」
「もしかして……これも?」
「そう、凄いよねー」
「うん……凄い……」
「それでもね? ひまりは凄くなくたってママはいいの。ひまりが元気で楽しくいてくれれば、それでいいの」
「ママ……」
「この高校、楽しそうじゃない? ひまりは行ってみたくない?」
「うん、ちょっとだけ……考えさせて?」
「うん、待ってるね」
それから毎日、擦り切れる程パンフレットを読んだ。
もう一度、頑張れるかなぁ。
逃げちゃった私だけど、また頑張れるかなぁ。
ここに通うことになれば、ママとパパと離れ離れになる。
そんな不安もあったけど、きっとここに居たら私はずっと二人に甘えてしまう。
ここならあのことは誰も知らない。
このパンフレットを読んで、新しい自分に生まれ変われるような希望が少しだけ湧いた。
「ねぇ、ママ……高校……受験してみたい」
「ホント!? じゃあ、勉強頑張んないとね?」
「うん……だいぶ遅れちゃったけど、頑張るね」
その私立高校は県内でトップの偏差値。
出遅れている私にはもう、立ち止まってる暇はなかった。
「そういえば、ママはどこでこの高校のこと知ったの?」
「ん? ネットで見てたときにたまたまうちの苗字と同じ“花”って文字が書いてあったから、気になってポチってしてみたの」
「ふふっ、何それ」
そんな偶然の引き合わせが、私の運命を大きく変えてくれるかもしれない。
なんだかとってもおかしな話で、ほんの少しだけ笑顔が咲いた。
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