第26話「またあとで」

 4月14日──月曜日。

 ホワイトデーから1ヶ月が経過し、接触禁止が解禁された日の朝。



 スマホのアラームが鳴った。

 休日が終わり、今日からまた学校が始まる。


 さっきまで夢を見ていた気がする。

 一体なんの夢だったのか。思い出すことはできなかった。


 僕は眠い目を擦りながら起き上がる。トイレを済ませ手を洗った流れから顔を洗い、歯を磨いてから制服に着替えた。


 1階のリビングに降りると、そこには僕のために用意された朝食とお昼のお弁当がテーブルに置かれている。

 ご飯を炊飯器からよそって席に着いた。


「いただきます」


 お母さんはお仕事で出勤、お姉ちゃんは僕よりも1時間も前に登校している。


 ただでさえ朝早く起きてお弁当も作ってくれてるのに、そんなに早く学校に行って一体何をやってるんだろう……生徒会のお仕事かな?


「ごちそうさまでした」


 ご飯を食べ終えてから食器を洗う。ご飯を作ってくれてるから、食器くらいは僕がやると自分から言い出した。

 お姉ちゃんもお母さんも大変だと思うから、僕に出来ることで少しでも負担を軽減してあげたかった。

 もう1年くらいになるから、だいぶ習慣化してきた気がする。


 1階の洗面台で口をゆすぎ、口臭対策のマウスウォッシュは欠かさない。

 鏡を見て寝癖がついてないか確認した。


「う〜ん、左上ら辺が少し跳ねてるかも」


 学校のときはワックスは使わない。

 校則で禁止されてるわけじゃないけど、頭をわしゃわしゃされることがあるからだ。


 少し水で濡らしてドライヤーを当てて乾かすと寝癖は直ったみたいだった。


「寝癖は直ったけど、う〜ん……」


 何だか髪型に納得がいかなかった。

 これは、前髪が決まらないってやつだ。

 ここ最近はあんまり気にしてなかったはずなのに、徐々に些細な身嗜みに気を使うようになった気がする。


 高校2年生になってまだ1週間だけどクラスにも慣れてきて、学校生活もまた楽しく感じるようになってきた。


 楽しく感じる要因は慣れだけじゃないことを僕はだんだんと実感していた。

 それは僕に“気になる子”ができたからだ。


 この気持ちはなんて言ったらいいんだろう。

 うまく言い表すことができなかった。

 その子と話すと面白くて、一緒に運動すると楽しくて、笑顔を見ると……これもなんて言ったらいいか分かんないや。


 身支度を全て終え、鞄にお弁当を入れて玄関のドアを開ける。


「行ってきま〜す」


 誰もいないその家に僕は挨拶をして、忘れずにしっかりと玄関を施錠した。


 学校までは徒歩通学で30分くらい。

 そういえば自転車でもいいように思うけど、何で僕は徒歩で通学してるんだっけ?

 最近になってこんなことを疑問に思うことがあった。


 今日も一人、学校に向かって歩いて行こうと敷地を一歩踏み出したときだった。


「よ……修ちゃん……おはよう」


 少し元気のないような声音で挨拶をしてきたのは、僕と同じ高校の制服を着た女の子。


 そう言えばひまりを神谷さんに紹介したときに、同じクラスだと知ったことを思い出した。


「おはよう。掛川さん、朝からどうしたの?」


「うん……」


 俯いて返事はするものの、理由について答えは返って来ない。

 両手は自身のスカートをぎゅっと握っている。

 何か言おうとしてくれているのを感じ取った僕は、何も言わず言葉を待っていた。


 通り過ぎる男の人たちはみんな掛川さんに視線を送る。

 それはこうしてずっと黙ったまま俯いているからなんだろうか。それともその容姿に思わず魅了されているからなんだろうか。

 僕には分からなかった。


 心地よく照らされている朝日とは正反対のように、その表情は沈んでいく。


 そして、ぽたぽたと滴が落ちてアスファルトを濡らした。

 突然のことで僕は少し動揺する。


 その出どころは、掛川さんの瞳からだった。


「え……どうしたの!? 大丈夫? あっ、そうだこれ」


 僕は制服のポケットからハンカチを取り出して掛川さんに渡そうとしたけど、ふるふると首を横に振って大丈夫だと意思を伝えてくる。


 何も言葉を発しなくなったその唇は震えていた。


 まだ時間はある。

 僕は掛川さんの手を引いて家の庭にあるベンチへ誘導した。


 その木製の二人掛けベンチに腰掛ける。

 スペースに少し余裕があるけど、僕は寄り添うように近くへと詰め、覗き込むようにその表情を見つめた。


 掛川さんはいま何を思ってるのだろう。

 少しでも読み取ろうとした。


 しばらくして落ち着いたのか、ようやく掛川さんが口を開いた。

 ゆっくりと、言葉を絞り出すように。


「修ちゃん……ごめんね……いっぱい……いっぱい……ごめんね……」


 謝られたことに全く身に覚えがない。

 これだけ一人の女の子が思い詰めるようなことを、僕はされた記憶がない。


 そのとき、昨日のお姉ちゃんとの会話を思い出した。

 遥って呼ぶこと。

 僕が遥のことを記憶喪失したこと。

 何かあったことを。


 具体的に何をされたのかはお姉ちゃんからは聞いてない。

 たぶんお姉ちゃんのことだから、全部知ってるけどえて言わなかったのだろう。


「修ちゃん……あのね──」


「大丈夫だよ?」


 僕は遥に微笑みかけた。

 突然僕がそんなことを言って話を遮ったことに、疑問と困惑を織り交ぜたような表情をしている。


 遥に病気のことは話せない。

 だからあった出来事をいま話されても、記憶がない以上は聞いても意味がないように感じた。

 それとこれだけ悩んでるのに、僕が覚えてないって言ったら傷つけてしまうとも思ったから。


「えっとね、僕がそのことを訊くまでは話さなくても大丈夫だよ。だから、何も心配しなくていいんだよ? あっ、でも遥は話したいかな?」


 話すことで不安が解消されるならそのほうがいいように思えた。

 訂正しようと言葉を繋ぐ。


「ごめん、やっぱり──」


「ううん、修ちゃんがそうしたいなら大丈夫……」


「……そっか、ありがとう」


 事情を知らない遥は、僕の真意を汲み取ったわけではないだろう。

 でも僕の気持ちを優先してくれたのは分かる。

 とっても優しい子なんだと思った。


 僕は再度制服のポケットからハンカチを取り出し、それを渡さずに黙って遥の顔を拭った。


 遥は一瞬ビクッとしたけど、目を瞑って受け入れていた。

 拭っているとその白い肌に赤みがさすのがはっきりとわかる。

 少しだけ、頬が緩んだ気がした。


 最近遥を見ていなかったからだろうか。

 昨日までは顔がよく思い出せなかった僕は、それを焼き付けるかのように見る。


 泣きはらした後でもわかるほど綺麗な顔立ちをしている。

 僕はつい言葉が漏れてしまった。


「遥って……お人形さんみたいで可愛いね」


「ふぇ!?」


 遥は素っ頓狂すっとんきょうな声をあげた。

 透き通るような白い肌はさらに赤く染めあがっていく。


「あ、そろそろ行かないと遅刻しちゃうから行こ!」


 僕は自分で恥ずかしいことを言ったことに気がついて、誤魔化すように促した。


「う……うん!」


 遥は少しは元気が出たかな?

 その日の朝はそれから遥と登校した。


 それはいつぶりだっただろうか。


 昔はこうして二人で歩いたことをふつふつと思い出しながら、僕たちは歩を進めた。

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