海底のエース

ある青年の物語

 腹黒いような色をした水の底の中、一人の青年が緑色の鉄屑と共に沈もうとしている。


 日の丸の鉢巻きをした頭からは酷い出血しており、体の所々に裂傷がある。


(俺はこれから死ぬのか……)


 朧げにある意識で、呼吸ができない空間にいる事を本来ならば絶望するのだが、なぜか不思議に、もう生きていてどうしょうもない大きな流れに飛び込まなくていいんだなと安堵をしており、このままいっそ、誰も干渉できない水底に沈めてくれと青年は祈っている。


 青年の目の前には光が届かない闇が広がっており、正常な考えを持つ人間ならば恐怖に襲われてこの場からどうにかして逃げようとするのだが、青年はこの場所がまるで母親の胎内にいるかのような心地よい錯覚に襲われている。


 ボロボロになった野球ボールが青年のポケットから落ちていき、手を伸ばすがもう既に神経は通っておらず、ボールは青年の目の前から遠ざかっていく。


(あぁ、俺の青春は、あっけない線香花火のようだったな……)


 青年は静かに目を閉じる。


 もう永遠に浮かび上がる事はない、深い海の底に青年は永遠のダイブをしていく。


 ⚾️⚾️⚾️⚾️


 青年が目が覚めると、そこは観客で埋め尽くされている野球場であり、ユニフォームを着ているのだが、自分の体ではないような錯覚に陥る。


 周りを見渡すと、かつて数年前、まだ戦争が起こる前にあった野球部のユニフォームを着ている、見覚えのある少年達がいる。


 目の前にキャッチャーがミットを構え、バッターが立っているのを見て、青年は見覚えがある光景に襲われる。


(ここはどこなんだ……? 芝浦……?)


 青年は意識はあるのだが、意識とは別に体が動いており、何者かが体を支配しているかのような錯覚に陥り、芝浦、というキャッチャーをまじまじと見つめる。


(……? 確かあいつは、学徒動員で、南方に……? 何故ここにいるんだ? バッターは、権藤……? いや、ここは、甲子園なのか!?)


 芝浦は審判に向かい声高にタイムといい、ここがどこなのかまだ把握できず緊張している青年の元へと歩み寄り、キャッチャーグローブを口に当て、口を開く。


「ここは、貴様が1番得意な球で勝負しろ、俺が取ってやる……」


「……」


「どうしたんだ? 何がいいんだ?」


「ストレート……ど真ん中のストレートだ、俺が得意な球で仕留める……!」


「ああ、分かった……存分に投げろ……!」


 ニヤリと笑いながらポジションに戻っていく芝浦を見て、青年は頭の中のモヤモヤが一気に晴れ渡り、此処はどこなのか、相手は誰なのか、そして、今は何をしているのかが鮮明に思い出す。


(ここは、学徒出陣する前の甲子園だ……! 相手はV高、去年の甲子園優勝校で、バッターは4番の権藤……! この試合、1対0で、二死満塁だった……!」


 青年は腕を上げ、足を曲げて上に伸ばし、ボールを投げる。


 周囲は彼等の一世一代の大勝負を、息を飲んで見守っている。


 現代で言えば、ジャイロボールというストレートの一種の球は、当時はスピードガンはなく球速は計れないのだが、160キロを超えているストレートの球は芝浦のキャッチャーミットに一直線に吸い込まれるようにして飛んでいく。


 権藤は4番打者の誇りなのか、あまりもの球速に臆する事なく、ホームラン狙いの大振りで直球を仕留めようとバットを振る。


『ズバン』


 バットに掠ることなく、キャッチャーミットにボールが入る心地よい音が、球場にこだまする。


「よし」


 ストライクが敵性音と化した戦時中では、よしがストライクとなっており、審判の澄み渡った声が辺りに響き渡り、青年は肩の荷が降りたのか、グラウンドに崩れ落ち、意識はプツリと消えた。


 ⚾️⚾️⚾️⚾️


 プロペラが回る音で、青年は意識が戻り、周囲を見渡すと、何かの数値を示している計器と、何かの機械を操作しているのだろう、操縦桿を握り、先程見た甲子園の時のように、意識はあるのだが、自分の意思で体を動かしているという感覚は無い。


 青年は辺りを見回すと、緑の下地に赤い日の丸の塗装をした鳥のような翼を持つ物体と、その胴体部分には黒い塊が付けられているのが見える。


(これは……零戦、特攻機か!?)


 雲の隙間から覗く空の色は、不気味なまでに透明がかった青であり、俺は空を飛んでいるのだなと青年は感動しながらも、何故俺はここを飛んでいるのか、爆装した零戦が並んで飛んでいるという事は、特攻隊の直掩か、それとも特攻隊に入っているのかという疑問に駆られ、無線機を操作し仲間に訊こうと思うのだが体が自分の意思を聞いてはくれない。


 目の前には黒い花火のようなものがぽつぽつと、数個ほど上がっており、青年の脳裏に嫌な予感が走る。


(これは……敵艦隊が近くにいる!)


 刹那、アイスキャンディのような曳航弾が隣にいる僚機に当たり、火を吹いて落ち、青年の嫌な予感はますます的中の方向へと向かう。


 後ろには、F4Fが数機飛び交い、特攻隊に向けて情け容赦無くブローイング13ミリ機銃を当てていく。


(確か俺は……)


 青年の操縦する零戦は、250キロ爆弾を付けており既に鈍重と化した機動性を使い、敵艦隊の方へと向かおうとするのだが、13ミリ機銃の曳航弾は執拗にも追い続け、とうとう被弾して主翼から火を吹き始め、青年も被弾をし、操縦不能となり海へと落ちていく。


 火達磨になり水面に落ちる瞬間、青年の意識は消えた。


 ⚾️⚾️⚾️⚾️


 再び青年の意識が戻った時、光が届かない暗闇の海の底へと落ちていっている最中である。


(そうだ、俺はあの時、敵の攻撃を受けて被弾して、撃墜されたんだ……)


 特攻隊が編成された時既に零戦の対策は練られており、それに加えて特攻隊用の250キロの爆弾を抱えた零戦の運動性は失われ、敵のいいカモになってしまった。


 ーー青年は、甲子園で優勝を果たした後に学徒動員で収集され、予科練に入り、燃料不足で訓練がままならず、飛行時間が500時間ながらも優秀な成績を収め、特攻隊に配属になり、沖縄へと出撃をしたが敵艦隊と接敵する前に護衛のF6Fの攻撃を受けて海の藻屑へと消えた。


 脳細胞の機能を果たす酸素はほとんど残されておらず、機銃の攻撃を受けて全身のありとあらゆる筋肉や神経は寸断されこの場所から逃げ去る事はできず、後はただ光が差し込まない深海に落ちて死を待つだけである。


(親父、母さん、兄さん、吉治……大日本帝国万歳……)


 この国が戦争に負け、肉親が捕虜としての辱めを受けないか憂い、絶望的な戦争に勝つことを信じていた青年は、生きる活動を後世に託して諦め、静かに目を閉じる。


 ⚾️⚾️⚾️⚾️


 初夏の木の芽の匂いと、そして灼熱になりかかった暑さと太陽の光が顔に照らされ、眩しそうになり、青年は目が覚める。


「ううん……ん!?」


 青年は形容し難い痛みに襲われていた感覚は無く、栄養が満タンに補給されているかの如く胆力が迸っている体に驚きを隠さず、むくりと起こす。


 そこは、出陣前に皆と野球をしていた甲子園球場の光景が広がっている。


 グラウンドには、かつて自分の母校の野球部のユニフォームを着た人間が揃っており、その中にいる、身体がずんぐりとした男はにこりと笑いながら青年を見つめている。


「……芝浦!」


「やっと、貴様もここに来たみたいだな」


 青年は、この状況が夢ではないかと頰をつねるがはっきりとした痛みがあり、彼らは幽霊ではないかと足元を見るが透けてはおらずきちんと足があり、ああこれは、現実か、いや現実ではないがそれに近いんだなと一歩、また一歩と芝浦達の元へと歩み寄る。


「ここは、どこなんだ?」


「あの世だ、俺たちにとっての天国だ……」


「天国? ここが……?」


 天国と聞き、青年は思わず靖国神社や寺院の修行僧が教えてくれた極楽浄土を想像したのだが、目の前にあるのは観客がいない、単なる野球場である。


「思う存分に野球を楽しめる、極楽浄土だ……ほらよ」


 芝浦は、どこからか野球ボールを取り出して青年に手渡す。


「これから、一試合やらんか? 俺たちが生まれ変わるまでにはまだ時間はあるんだ……」


「しかし、相手は……」


「後ろにあるさ」


 青年は芝浦の言動に戸惑いながら後ろを振り向くと、かつて甲子園の決勝で三振を奪った権藤と、V高校の野球部の面々がいる。


「貴様、この前はお世話になったな。今回はその果し合いだ……返り討ちにしてやる」


 権藤はいますぐにでも野球をしたいという、うずうずとした欲求を隠しきれない様子でいる。


「貴様も戦死したのか?」


「あぁ、硫黄島に行く途中に乗っていた輸送船が魚雷攻撃を受けた。……やるのか、やらんのか?」


「……」


 青年は、ため息をつき、軽く俯き、顔を上げて意気揚々と手にしたボールを上に上げる。


「やるぞ! 今すぐ!」


 誰もいないはずの観客席に、瞬く間に無数の人間の姿があらわれ、多くの歓声が聞こえ、球場は歓喜の渦に包まれる。


 ーーW高校野球部主将、勝俣重治(カツマタ シゲハル)はピッチャーを務め、高校生活最後の甲子園で宿敵のV高校主将であり4番打者の権藤清隆(ゴンドウ キヨタカ)を三振に抑えて初優勝を果たした。


 そしてすぐに学徒出陣で予科練に配属となり、優秀な成績を買われて、訓練後に沖縄へと特攻出撃をし、敵艦隊に体当たりする直前に、敵戦闘機の攻撃に遭い戦死する。


 その次の日に、戦争は終わりを告げたのであった。


毎年、夏のこの時期になると、V高とW高の熱戦が語り継がれるという。


2020年の夏、甲子園球場での決勝戦を、重治は雲の上からのんびりと見ている。








 


 






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海底のエース @zero52

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