第15話 落とし物

 その日の夜。光は布団の上に仰向けに寝転がり、波留が落とした校章を慈しむように弄び、眺めていた。

「ピピー!ピピー!」突然校章から警告音のようなものが鳴った。そしてそれは赤く点滅し、中央に黒字で「Push」という文字が浮かび上がってきた。

「どうしたの?どうしたの?」と居間で遊んでいたわたるたけるが襖を開けた。光は警告音が止まるのではと思い、校章を押した。すると

「すいません、今大丈夫ですか?」と少し低めの女性の声が流れた。

「お兄ちゃん、誰それ?」と航が聞いてくる。

「誰でもないよ!」慌てて校章を握り隠し、起き上がり、

「ちょっと出てくるね」と台所に立っている母親の真理子に告げながら出ていった。

 階段を駆け下りながら、左手で校章を持ち、語りかけた。

「あのー――拾いました――今日の昼間――アーケードの下で」このままだと息が弾んでしまうので、光は走るのを止め、返事を待った。

「あっ、すいません。お手数をお掛けしました」少し沈んだ声が返ってきた。


この一時間前。波留の井上家で。帰宅した波留がリビングへ向かうと、珍しく父、誠司がいた。また王、然とした態度で。甲斐甲斐しく食事の世話する母、悦子を尻目にゆっくりと食事を口に運んでいた。見るからに、父が居たことで落胆した波留を見て、誠司は開口一番

「校章はどうした」誠司の目線は波留のブラウスの左胸ポケットを射ていた。

「えっ!あっ!気が付かなかった」観察眼の鋭さだけは波留も認める。誠司は食事に視線を戻し、そのまま、

「気が付かなかったじゃないだろ」誠司が食事の手を止めた。給仕していた母の動きも止まる。「いいか、あれはただの校章じゃないんだぞ――」目線は目の前の皿に落としたまま誠司が言う。「この際だから言うが、あれは高性能なGPS機能付きのライフログキャッチャーなんだ――だからとても高額なものだ。これからは大切に取り扱ってくれ」

「ライフログキャッチャー?って簡単に言えば、監視装置じゃない!どこまでつきまとうのよ!」波瑠は激昂した。父はそれを無視して

「メーカーに問い合わせれば現在、校章がある場所がわかるから連絡しておく」

「いらないわよ!そんなもの!」と言い残し波留はリビングを去ろうとした。しかしふとあの時を思い出した。アーケードを逃げる時に視線の合った、あの男子の事を。――もしかしたら彼が―― 気を取り直して「それは問い合わせれば教えてくれるの?」

「ああ、WEBからIDとパスワードでログインしてな」この時父は自分しか持てない権限を誇示するかのように、初めて波瑠の目を見た。

「じゃあ、ちょっと今やってくれない?」

「ああ、いいよ。じゃあ私の部屋へ来てくれ」とナプキンで口を拭った。 

 二階の父の書斎へ、父の後に付きながら入っていった。その部屋のドアが開いた瞬間に、波瑠は無意識に体が強張った。そこは広さにして八畳位、ドアの正面には窓があり、その下に机が置いてある。右手には本棚。部屋の約半分を占める窓の下には二段組の棚。そこにも本が詰まっている。それを過ぎると今度は数々の鳥や小動物の剥製が、本を詰めた棚と同じ棚に展示してあり、窓が切れた壁面には鹿の頭が二頭、サーモンの剥製などが掛けられている。その手前は筋トレスペースになっていて、ベンチプレス用のベンチ、ダンベル等が置いてあり、ドア寄りのスペースにベッドが置いてある。波瑠はこの父親、誠司を象徴し、誇示し、匂わせるこの部屋は息が詰まりそうになる。しかし今は我慢し、父の座った椅子の左隣に立ってPCの画面を覗き込む。 

 父はブックマークから「波瑠」というフォルダを開き、その中の「学校」というフォルダを開いた。ここに自分のフォルダが作られていることに波瑠は嫌悪感を感じた。ライフログキャッチャーのサイトを開き、問い合わせからログインする。いくつかのラジボタンが並んでいて、その中の「デバイスの探索」を選ぶ。すると次もいくつかのラジボタンが並んでいて、父がどれにするか波瑠に聞いた。波瑠は「通話」を選んだ。それが一時間前のことだ。


「いや、手数なんてことはないけど……」光は土手まで来ていた。今夜はそれほど暑くなく、川上から吹く風とコオロギの鳴き声が涼やかにさせる、はずだが、今の光は暑さとは違った原因からの汗が止まらない。

「もしかして、あの時の――人ですか?」波瑠はPCに向かって問う。

「うん。あの時の……」光はカラカラになった喉から絞り出す。

「ちょっと今話しにくいので、電話番号を教えますから、掛け直して頂けませんか?」波瑠は父の顔をちらっと見た。その眉間に皺が寄っていた。

「あのー、申し訳ないんだけど――僕が教えるので、掛けてくれませんか」

 波瑠は合点した。この人は下級の人なんだなと。通話料金か何かを気にしているんだなと。

「わかりました。それでは教えて頂けますか」波瑠は父のPCの右隣に置いてあったメモ帳とボールペンを引き寄せた。「×××-××××-××××ですね。後ほど掛けさせ頂きます。一旦切りますね」そしてメモ帳はちぎり、父の部屋を出て、自分の部屋へと戻っていった。


 波瑠は机の前の椅子に座った。気軽にベッドに横になって話せる気分とは違う。机の前は窓になっていて夜空が覗ける。ここは近くに川幅の広い河川敷もあるので、夜間の明かりが少なく、都心よりは星が見える。先程教えられた電話番号をキーパッドへ打ち込み、呼び出し音を聞きながら一点の星を見つめた。三回目の呼び出しの後に、

「もしもし」光が応答した。

「先程の校章を落としたものですけど……」少し緊張気味に波瑠が話す。

「あっ、はい――僕は芳賀――芳賀光と言います」光も緊張して、たどたどしい。あのアーケード下で照らされた顔が浮かび上がる。

「私は井上波瑠と言います――この度はすみませんでした」

「いえ――別に――大丈夫です……これ、どうしましょうか……」

「取りに伺います……」

「どこからですか?」

「N町からです」

「N町ですか。やっぱり上級――あっ、アッパーエリアですね」光は普段の呼び名が口をついたことに焦った。

「フフ、上級でいいですよ」真面目そうな光の態度が微笑ましく思い、少し緩んだ頬とともに緊張も和らいだ。光も波瑠の可愛げのある微笑に落ち着かされた。

「僕はローアーエリアのK区のKAなんです。だからだいぶ離れていますね……」あらためてその物理的な距離に光は少し落胆した。

「それじゃあ、お互いの中間地点で待ち合わせましょうよ」波瑠が提案する。

「あっ、そうですね。うーんと――ちょっとスマホでマップを見てみますね」光はあの時の少女というか女性に、会えることが具現化していく事に内心が踊り始めていた。「えーと……中間辺りだと……あっ!いいかも――」

「いいとこありました?」波瑠が興味を持って聞く。

「あー、でも、どうだろう……」光はたじろぐ。

「そんないかがわしい場所なんですか。アハハ」少しからかってみた。すると光が慌てて、

「いや、その、そういうわけじゃなくて――なんていうか、人によっては――」どうもいつもの自分のようにいかない。

「大丈夫ですよ。私は体裁とか環境とかにこだわる性格じゃないし――信用していますから」

「信用?ですか――たった一度――会ったというか、見ただけで――ですか?」光の心中は、嬉しさ7割と疑念3割の割合で、聞いてみた。

「金髪の方ですよね?」

「はい」

「確かにひと目見ただけですけど、なんとなく――信じられるような気がしています」少しはにかみながら波瑠が告げた。マップを見るためにスピーカーモードにしていたスマホから漏れる、波瑠の言葉を聞かれてはいないかと、辺りを見回した。

「僕も覚えています。ポニーテールでしたよね?」

「はい」

「僕も信じられるような気がしています」思わず直立して光は言った。「じゃあ、待ち合わせは――国会前にしましょう――いいですか?」

「はい」波瑠は窓越しに見える星が金色の髪の毛を纏っているように見えてきた。

「それじゃ」光は風に揺らされた川面の陰影が、黒髪のポニーテールに見えた。電話を切った後に、落ち合う日時を決めていなかったことに気が付き、電話をかけ直そうと思ったが、今後のことも考えてショートメールで送った。(日時を決めるのを忘れました。早い方がよければ、ちょうど明日は祭日だし、祭日は境界がフリーになるから、明日のAM10:00に国会前はどうですか? それと、僕のSNSのコードを送りますから、よかったらこれで連絡を取り合いましょう) すぐに波瑠から返信が来た。

(はい、早いほうがいいです。了解しました!)そしてその後にSNSに(楽しみにしています!)と、多分飼っている犬だろうと思われる犬にサングラスを合成したアイコンで送られてきた。光も返す。

(僕も楽しみにしています!)父の椅子の上に牛乳を載せたアイコンとともに送った。


 その直後に秀人からSNSに連絡が入った。「もう!どうしてるの。優しい言葉の一つくらい掛けてよ!」光は忘れていたわけではないが、心、秀人にあらずだった。光は罪悪感も含めて、

「ごめん、大丈夫か?結構坊主も似合ってるよ」

「ありがと!まぁ、別に昼間のことはなんともないけどさ。ともかく荒れてるよ」

「そうだな」

「光、明日遊ぼうよ」

「えっ、あー」

「どうしたの?都合悪いの?」

「うん、ちょっと……」根が素直な光はすぐに心情か出てしまう。

「あー、やだー、デートでしょ?」冗談っぽく言ったが、秀人の心中では大真面目だった。

「いや、そんなんじゃないけど、今日の秀人を助けた子、いるじゃんか。あの子が校章を落としたんだよ――それがGPS付きで、俺が持っていることがわかって、ついさっき連絡を取ったんだ――高価なものだし、学校や親からも早く戻すように突かれるらしいから、明日渡すんだよ」

「ふーん、そうなんだぁ。楽しみ?」光の答えは分かるけど、嫉妬を覚えつつ聞いてみる。

「そんなんじゃないよ、面倒くさいだけだよ」そういう光が今どんな表情や仕草をしているのかは、秀人には透かし見えている。

「まっ、いいか。助けてくれてありがとう、って彼女に伝えておいてね」自分を助けてくれた彼女への恩義もあるし、光への嫉妬も芽生えている。そんな自分の複雑な心境に呆れてもいる。いつも冗談では言っているが、本当に光の事を男として好きなのかも定かではない。全く自身が面倒くさいと秀人は辟易した。


 波瑠は電話を切った後に、今までにない心情を自分の中に感じた。もちろん波瑠だって恋をしたことはある。しかしそれは若い子のファッションのようなもの、とても表面的で一過性で、相手も上級の男子。容姿は学校一だと言われていても、いざ付き合ってみると、中身が何もなく、腑抜けた者だったりした。今、周りにいる男子は誰もが子供っぽく波瑠には見えてしまい、恋愛に興味が持てなかった。それより恋愛の対象になりえないデヴィッドとオルティスの二人といる時間と空間がとても居心地がいい。

 しかし今芽生えたこの心の高鳴りは、無意識下で生まれてきたもので、抑えが効かない。何に惹かれるのだろう。顔? 容姿? 金髪?どれを思い浮かべても、確かに好感は持てるが、その一つ一つだけではないようだ。これは考えても無理だと波瑠は思った。どうしようもなく感じてしまうことだと、窓の外の一点の星を見つめながら、委ねることにした。

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