第13話 逃走
秀人は走り続けた。髪の毛がないことでこんなにも頭が軽くなることを実感しながら。羞恥心、嫌悪感、屈辱感を含んだ汗と涙が溢れ出しては、シャツの中でまた吸収されていくようだった。
そんな時、前方にガラス張りのビルが見えた。その手前で秀人は走る速さを緩めた。そしてゆっくりと、恐恐とガラス面に近寄る。そこにはモノクロームに映された自分の姿があった。黒く短くなった髪の毛は濃く映り、汗だくになった顔と白いシャツは明るく映し出されていた。右手を頭に持っていってみる。今までサラサラだった髪が、針のように硬く、指に刺さるようだ。―― そういえば母が私の髪を梳きながら言っていたっけ、
『髪の毛ってその人の性格を表すのよ。髪の毛が柔らかい人は心も柔らかくて、髪の硬い人はしっかりしていて。秀人は長いから。毛先の方は柔らかくて、根元は硬いから、両方を併せ持ってるのかしら』って。あれは子供に自身を持たせるために、母が考えた事だったと今は思っている。しかし短く尖った髪は、触れている指先の神経を刺激する。感覚を鋭くしろとでも伝えるかのように。今は母の作り話を信じてみよう。心をしっかり持ち、感覚を研ぎ澄まし、これから何ができるか、何をするべきかを考えよう――。秀人は歩き出した。
秀人はいつもの土手に出て、上流へ登っていった。ムーンラダーの方へ。その麓まで来た。以前はきれいなシルバーの格子状に組み合わされた躯体で、円錐状に聳え立つその先には、展望部の球体があったが、今は風雨にさらされたままで、残骸と土埃にまみれて灰色に化し、上部の球体は断ち切られていた。麓もその当時のままに保存されているので、落下物や破片、もしかしたら血痕だったかもしれないような染みも散見される。
ここを残存させるか否かは、世論的には廃止のほうが多かった。それはあまりにも悲惨な姿だからだ。しかし政府はこうして残している。テロの悲惨さを忘れないためにと言うよりも、復讐心や防衛の必要性を喚起させるモニュメントとしている意図が伺われる。
――やっぱり酷い場所だわ――ここに来ると秀人は寒気と嘔吐感を覚える。
――なんでこんな悲惨なことが起こったのかしら。突然、何の前触れもなしに命を奪われるなんて……今日私の髪が突然に切られたこととは比べ物にはならないけど、理不尽な何かがそうしたのは共通していると思う……権力? それが押し付けたり、強行したり、抑圧しているのかな……なぜ争うんだろう、共存できないのかな……もっと身近なところで、私は共存できているのかしら? クラスで、学年で、学校で……最近の上級とは? あのトラブルの原因はなんだろう。上級って何? そういえば私は上級のことを知らない。知らなければ理解は出来ない。知らないから恐怖心が芽生えるんだわ……そうだ、行ってみよう!少しでも上級のことを知るために。境界を越えられるかはわからないけど、ともかく――
秀人はムーンラダー直近の地下鉄に乗り込んだ。
――地下鉄などの公共の交通は監視が厳しくて、アッパーエリアへは顔認識で改札を通ることが出来ないだろうな。手前の区で降りて何かの手段で越えることしかないわね―― 秀人はそんな事を考えながら、地下鉄を二つ乗り継いで、アッパーエリア手前の区にある駅で降りた。
地上に出ると、そこは大きな幹線道路の交差点だった。歩道も広く、見通しがいい。交差点の対角線にはガソリンスタンド、こちら側にはファストフード店がある。その方面へ秀人は歩いていった。そのファストフードを左に曲がり、区境へ向かう幹線道路と並行した歩道を進む。その道路を跨いで商店街があるので、そこそこの人の往来がある。約100m先が区境だ。幹線道路の上の標識がそれを教える〈ここよりアッパーエリア〉そして歩道にも蛍光ラインが引かれている。更に両側の歩道の電信柱には監視カメラが備え付けられている。――聞いた話では、区境を越えると監視カメラの顔認識で識別され、警告音と音声が流れるらしい。たとえ越境しても認識されてしまったら、追跡されることは確かだろう……勢いでここまで来ちゃったけど、やっぱりダメかな……認識されたらそれこそ内申に響いちゃうよな――ドン!
「あぶねぇな!このクソガキ!」考えながら歩いていた秀人に、前から来た、上下に白いスエットを着て、ミラー仕様のサングラスをかけた、短髪で白髪、顔が黒く焼けた、オヤジヤンキーが秀人の胸にぶつかり、怒声を上げた。秀人は胸を抑えながらも、通り過ぎる自転車のオヤジヤンキーへ振り返り、がんを飛ばしながら過ぎていくそれへ頭を下げた。
――そうだ! 顔さえ見られなければ大丈夫かもしれない。何かを遮蔽物にして通り抜けるんだ……自転車がいい、並走している自転車、その間にうまく入って通るんだ―― そう考えつくと、ガードレールに腰掛けて、並走する自転車を待った。
時刻は11時過ぎ。そろそろ昼食の材料や夕食の買い出しに出てくる主婦仲間が来るような時間だ。30分位、街路樹で作られる陰に隠れながらガードレールに座って待っていただろうか、まさしく買い出しへ向かうような主婦が乗る、前後にチャイルドシートを付けた電動自転車がやってくる。区境線から離れている現在地から、自転車の間に入って並走するのは奇妙なので、秀人は今からジョギングを始めたように区境線へ向かって走り出した――区境線ぎりぎりのところで間に入ろう―― 後ろを随時振り返りながらタイミングを図る。主婦が乗った二台は、初めのうちはおしゃべりをしながら走っていたので、二台の距離は近づいて並走していたが、おしゃべりが止むと少しずつ離れて並走し始めた――よし、そのまま行ってくれ―― 秀人はペースを落とした。その時一方の主婦がもう一方の主婦に話しかけた。それが聞き取りづらかったらしく、自転車で寄ってくる。もう10メートルくらいで区境線だ。二台が秀人の横を通り過ぎた。すかさず後ろから間に入る。二台が近づきつつあった所へ、人が入ってきたので、二人の主婦は驚いた。それにはお構いなしに秀人は上半身を屈め、顔を下へ向けて二台のサドルあたりの位置を保持しながら、区境線を越えた。 警告音も音声も発せられなかった。区境線を超えたと同時に秀人は止まり、二台の自転車の主婦は怪訝そうな表情を浮かべながらも走り過ぎて行った。
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