第8話 幸一
五年前のテロの時、波瑠の実父、幸一はムーンラダーの副支配人で、ちょうど展望デッキを巡回中だった。遺体はまだ見つかっていない。優しい父だった。鼻の下の口ひげと顎髭がトレードマークで、少し白髪が多くなったくせ毛をいつもオールバックにしていた。笑うと目尻が下がり、その笑顔が人を魅了した。とても多忙だったが、そんな中でも苦心して家族と過ごす時間を作ってくれた。よくムーンラダーへも連れて行ってくれた。一般の人が入れないところも案内してくれ、その事を友達に話すのが、波瑠のちょっとした自慢だった。そして父も波瑠を職場の人に紹介することがちょっとした自慢だった。
そんな思い入れの深い、そして深い創痍に触れるムーンラダーを間近で見ることができず、こんな所から望遠鏡で見ている。しかし物理的な距離は隔てていても、光学的に、一瞬にして眼前に迫るときは、あの時の苦しみと思い出も押し寄せて、いつも景色を涙がぼやかす。
――意味はなんだろう。お父さんが死んだこと、テロが起こったこと、多数の犠牲者が出たこと。私はその中の一人の犠牲者の家族の一人。そんな遺族が犠牲者の数の何倍も存在する。これは奇跡的なことなのか、ただの偶然なのか、それとも必然なのか――波瑠はいつも考えが反芻する。その時あのエレベーターのインスタレーションが脳裏に蘇る。
――上級、下級、富者、貧者、分断、差別。あのテロ以来顕著になってきた物事。この意味は?あのテロと関連しているのかしら―― 周りには誰もいないので、波瑠はそんな観照をしながらしばらくの間カプセルの中で過ごしていた。
いざカプセルを出ようと、椅子から腰を上げ、乗降口をくぐるように頭を下げた眼の前に、誰かが手を差し伸べた。波瑠は屈んだまま顔を上げる、そこには手を差し伸べたデヴィッドと隣にオルティスがいた。
「やっぱりここにいたね、波瑠」デヴィッドがいつもの微笑で声をかけて、手のひらを蝶の羽ばたきのように動かした。波瑠は黙ってその手に右手を重ねた。「俺達もつまらなくて来ちゃったよ―― 多分ここで波瑠が覗き行為をしてる思って」とまたオルティスは一人で爆笑した。表は涼しそうな顔をしている二人だが、二人の背中は汗でびっしょりと濡れて、その透けたYシャツ下のTシャツのテキストには「Love&Peace」と描かれていた。
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