第5話 井上家

右手には大きな玉散らし仕立てのイヌツゲがあり、その隣には蹲があり、ヤマモモ、石楠花、ユズリハなどの常緑樹が並んでいて、その手前には広々と緑鮮やかな芝生が広がってる。


そんな庭に、まだ低い朝日がに射し込み、開放的な大開口の窓に反射している。そこは庭と同じくらい広いLDK。しかし庭とは対象的に、コンクリート剥き出しの躯体に白い大理石の床。そしてこれから朝食をとろうとしているガラステーブルがある。 庭が和なら室内は洋。庭が温なら室内は冷。その庭と室内の対象的なコントラストは、そのままその家の主を象徴しているようだ。
 

ここはアッパーアリア。俗に言う上級地域。多摩川が近くに流れ、最終的には多摩川と合流する丸子川が開渠として家の前を流れている、閑静な住宅街の一角にある井上家だ。
 

ガラステーブルの上には、朝食と言うには多すぎるほどの料理がのぼっている。まるでホテルのバイキングさながらだ。その時の気分で選べるように、サラダも一種ずつ分けられている。レタス、トマト、オニオン、コーン。洋食はスクランブルエッグ、ソーセージ、ベーコンなど。和食は納豆、焼鮭、煮物、惣菜など。そこにパン、白米、フルーツが盛られている。
裕福ではあるが、別段専属の料理人がいるわけではない。全部母、悦子が作ったのだ。ちょうど今年で四十歳だが、顔が小さく、目は大きくて、少しふっくらとしたアヒル口で、四十には見えない、若奥様という感じだ。専業主婦で時間的には余裕があるが、ここまでやるのは、生来の完璧主義と、ここの主である、夫の要求と人間性に要因がある。
 

悦子は庭を正面に、すぐにでも対処できるように、背をキッチンに向けたところに座っている。その左手にいるのが、悦子より十五歳年上の夫、誠司だ。しっかりとした顎を持つ細面に痩身。少し釣り上がった目に、少しへの字に閉じられる口。白髪が多めの髪の毛を軽く立たせていて。さらに冷たい印象を与える銀縁のメガネを装着している。出勤前なので、アイロンの効いた白いワイシャツの上からナプキンを付けて、姿勢良く座っている。
 

その誠司の対面、悦子の右手に座っているのは、二人の一人娘、波瑠、高校3年生、十八歳。セーラー服を着て、髪をポニーテールに結び、前髪は黒くて、しっかりとした眉毛を少し隠している。台形で、父に似て少し釣り上がってはいるが、冷たさよりも意思の強さを表している茶色く大きな瞳。すっと伸びた鼻に血色の良い赤い唇を持った美少女だ。だが今はその唇も色を失ったかのように見えるほど、がっくりと肩を落とし、呆れたように卓上を見渡している。彩りが豊富で温かさを発している料理を無彩色に腐敗させるような雰囲気が漂っている。波瑠がそんな空気を吹き散らすように、


「なんでこんなに作るのよ。どうせ半分も食べられないんだからもったいないじゃない。いい加減にしてよ!」開口は気だるそうに、最後は強い語気で波瑠が言った。


「波瑠ちゃん、そんな事言わないで。お父さんが好きなんだから」オロオロとして悦子が困惑する。


「いいのよ、こんな人のために作らなくて」と波瑠は父、誠司を睨めつける。


「そんな事言うな、波瑠」。釣り上がった目尻に重りを取ってつけたように半強制的に目尻を下げてみせ、柔和に誠司が正す。


「何良い父親ぶってんだよ! たまに帰ってきて王様然と君臨しやがって!」波瑠は立ち上がって、感情を顕にした。


「やめて、お願いだから、もう――」と母は腫れ物でも触るように波瑠の肩に触れた。波瑠はその手を振り払いながら、


「お母さんもお母さんだよ! なんで、いつまでこんな男の言いなりになってるのさ!」


「いい加減にしなさい、波瑠」重りを取った父の目尻が、今度は天へ向けて釣り上がっていく。
――よしよし、もっと怒れ――波瑠は心の中でほくそ笑む。


「どっちがいい加減にしろだよ!」波瑠は卓上を、右肩を軸にして、左から放射状に、手の届く範囲の皿を床へ滑り落とした。母は凝固し、父は沸点に達した。波瑠と対面して約2メートル先に座っていた父は立ち上がり、足早に波瑠へ近づき、躊躇なく、その右頬を叩いた。


――よし!――波瑠は父の左脇を駆け抜け、庭へと飛び出した。芝生の上に置いてあったロープのようなものをすくい取り、玄関方向へと走る。芝生が切れたところに犬小屋があり、中で寝ていた黒いラブラドールレトリバーが波瑠の足音に気づいて、尻尾を振って出てきたところを、慣れた手付きで、先ほど拾ったロープみたいなリードを取り付けた。犬の名前は「シーレ」。両親の好きな画家、エゴン・シーレから付けた名前だ。一緒に駆ける。


 玄関横のガレージの前にタクシーが停まっていて、運転手側の扉に背もたれながら待っていた運転手が、波瑠達が走ってくるのを見て驚く。

「遠藤さん、今日はごめんね」とその運転手に声をかけながら通り過ぎ、玄関を抜けた。
 

少し走ったところで、右手に開渠になっている丸子川が現れた。そもそも追いかけてくるはずもないので、歩き始める。開放感と爽快感で自然と笑みがこぼれてくる。傍らで半歩下がって付いてくるシーレと目を合わせる。衝動的にシーレを連れて来てしまったが、今は学校をサボれない。出席日数がギリギリなのだ。やはり学校へ行かなければと思い直した波瑠は、しゃがみこんでシーレの顔を両手で優しく包み、「――ごめんねシーレ――ハウス!」と言ってリードを離した。一瞬寂しそうな表情をしたかのように見えたシーレは踵を返し、家へと戻っていった。

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