3-3
御簾が揺れる。
「あがおもいびとのいまそがるに、ないりそ。いね」
希海が被っていた着物から顔を出し、御簾の中に入ってきた気配に向けて、帳越しに鋭い言葉を投げつける。数瞬の空白の後、布を引きずるような音が、廊下を今度は逆の方向へと戻っていった。
そして、扉を閉める音が響く。
「もう、大丈夫、かも」
希海がふっと息をついた。
「あの能面か?」
「うん」
そして彼方に向けて微笑む。希海は、まるで悪いことをしていた子供が、様子を見に来た親から隠れるような、そんな雰囲気を出していた。
希海の長い髪が下に垂れ、彼方の顔に触れている。その柔らかくもくすぐったいような感触に、彼方はそれを口に含んでみたいと思い、それと同時に、そう思ったことに恥ずかしくなった。
「な、何て言ったんだ?」
恥ずかしさを紛らわすために、彼方が希海にそう尋ねる。
「え、えっとね、意味、分からなかった?」
「何語かすら分からない」
ぎこちなく、二人の間で言葉が交わされる。
「古語だよ。日本の古い言葉」
希海が、間近から彼方の目を覗き込んだ。もう少し近づけば、顔と顔が触れ合うだろう。その欲求を、彼方はなんとかこらえる。
「俺に分かるわけないだろ」
彼方はわざとつっけんどんに応じた。
「そ、そっか。えっとね、『お客さんがいるから、入ってこないで』って」
「へえ。でも、何で古い言葉なんだ?」
「古語で言わないと、命婦には通じないんだ」
「何だよそれ」
それを聞いて彼方はげんなりする。それと同時に、あの命婦という女性は一体何者なのか、彼方は少し興味を持った。
「それにしても、古い言葉までしゃべれるなんて、やっぱり佳月はすごいな」
「そんなことないよ。数学は早瀬くんに勝てないから」
数学だけじゃないか。そう言い返そうとして、彼方は止めた。いや、教室で同じ言葉を佳月が言ったのなら、言い返しただろう。そして『お前と比べるな』と、そう言ったに違いない。でも今は、希海の目を見ていると、なぜかそう言われるのが嬉しかった。
教室でも、希海がこんな様子だったなら、彼方の中学生活はもしかしたらもっと別のものになったかもしれない。希海と友達になり、何気ない会話を交わし、そして劣等感を抱くことも無かった……そこまで考えて、彼方はそれ以上考えるのを止めた。そんな想像は、何の役にも立たないのだ。
希海がまた着物の中に顔を戻し、そのまま彼方の横に寝そべった。
「まだ、隠れてるのか?」
「そ、そうだね。もう少し」
そう言って希海は、体を寝台に預けた。暗くて希海の表情は見えない。希海が少しだけ彼方の方へと体を寄せた。
彼方は、気になっていたことを口に出してみる。
「佳月は、いつからここにいるんだ?」
それは、前回ここに来た時にも彼方が不思議に思ったことだ。希海は少し考えた後、重ための口を開いた。
「覚えてないんだ。気がついたら」
「でも、俺のことは分かるんだろ?」
「うん」
「じゃあ、教室にいる佳月は、誰なんだ?」
そう訊いてはみたが、希海が黙ってしまったために、彼方は申し訳ない思いでいっぱいになった。
「ごめん、聞かない方がよかったんだっけ」
慌ててそう口にする。希海が身をよじり、体ごと彼方の方を向いた。
「それも、僕だよ」
「じゃ、じゃあ、なんで、教室で」
希海の口から、彼方の予想に反した答えが出てきたので、彼方は思わず声が大きくなった。希海がまた彼方の口を手で押さえる。
「えっとね」
そこで希海が言葉を止める。布団代わりの着物を何枚も二人で被っていると、希海の体温を否応なく感じることになり、彼方の体の中でまた熱いものが流れていく。希海の体に触れたいという思いが沸き上がり、彼方が無意識に手を動かしたところで、希海が口を開いた。
「僕であって僕じゃないっていう、感覚かな」
彼方が慌てて手を引っ込める。遅れて、希海の言葉を頭でイメージしたのだが、その意味が分からない。
「どういうことだ」
そう訊き返したが、希海は手を口元に持っていき、答えを考えている風を見せる。
「なんて説明していいか分からない」
希海は、囁き声でそう言うと、そのまま黙ってしまった。
教室の希海と、目の前の希海が同じ人物であるのなら、教室でももっと違う反応を見せてくれればいいのに。彼方はそう思わずにはいられないが、希海が困っているのが分かるだけに、これ以上問い詰めるようなことはやめておくことにした。いつか、分かる時が来るかもしれない。
「まあ、考えても分からないことは、考えても仕方ないから、置いておこう。で、その遠いところに行くって言うのが嫌なのか?」
「もちろんだよ」
希海の返事には、訴えるような響きが含まれている。その返事に、彼方は安堵を覚えた。目の前にいる希海が、自分と同じ世界に生きているように思えるのだ。
「じゃあ、何か方法は無いのか? その、遠くに行かなくてもいい方法が」
彼方がそう訊くと、希海は「えっと、えっとね」と言いながら、自分の右手で左手を触り始める。そして、消え入りそうな声で「だから、早瀬くんが僕をここから連れ出してくれたら」とつぶやいた。
「でも、あの能面が邪魔するんだろ?」
「う、うん」
「じゃあ、どうすればいいんだ。佳月にはその方法が分かるのか?」
しっと言って、希海が彼方の口を押さえる。彼方の声がまた少し大きくなってしまったようだ。彼方が体を固くすると、希海は口に当てた手をゆっくりとのけた。
「あ、あのね」
「どうした?」
希海がまた手遊びを始める。彼方は希海が次の言葉を言うまで、辛抱強く待っていた。
「早瀬くん、今日から三夜、僕と一緒にここで過ごしてくれないかな」
しかし、そうやって待った後に出てきた希海の言葉に、彼方は思わず「は?」と声を上げる。そしてすぐに自分で口を押えた。
「だ、だめかな」
希海の手の動きが止まる。
「い、いや、構わないけど」
「ほんとに?」
「あ、ああ。でも、そんなことでいいのか?」
「うん。でも、ほんとに嫌じゃ、ない?」
希海が恐る恐るそう訊いてくる。
「別に、嫌じゃ、ない。一緒にいるだけだろ?」
口ではそう言うが、彼方の心は全く穏やかではなかった。自分の心臓の音が希海に聞かれてしまうのではないかと思うくらいに大きく鳴っている。
「うん」
希海が、どことなく安堵したような感じでうなずいた。
「あ」
突然、彼方が声を上げる。
「どしたの?」
「いや、ここを離れてしまうと、ここに来るのにまた苦労するだろうなと思って」
「そ、そうだね。ごめんね」
「謝らなくても……そうだ、俺がずっとここにいればいいんだよな」
「う、うん。そ、そうだけど」
なぜ、どうして。疑問はいくつもある。しかし、それらを訊くことがどこか格好悪いように思えて、彼方は「分かった。やってみる」とだけ答えた。
それにしても、と彼方は外の景色を思い出してみる。ここに、昼や夜はあるのだろうか。
「あのね」
また希海が口を開いた。それが、彼方の思考を止める。
「ん? 何?」
「彼方くんって、呼んでも、いいかな」
希海がそう、途切れ途切れ言う。その声の響きが、彼方の心の中の何かに触れた。
「あ、ああ。じゃあ俺も、希海って、呼ぶぞ」
彼方は、自分の心に咲いた嬉しさに夢中になり、底の方でくすぶっている複雑な感情を忘れてしまっていた。そこに「うん」という希海の嬉しそうな返事が加わり、彼方は希海の為なら、このまま家に帰らずに親に怒られてもいいかという気分になる。
彼方が次に考えたことは、この後ここで三日間、希海と何をして過ごそうかということだった。
「それにしても、ずっとこんなところにいたら、飽きそうだな」
「うん、だから、彼方くんがまた来てくれて、嬉しかった」
「希海がいるって分かってここに来たわけじゃないぞ。それにどうやったらここに来られるかよくわからなかったから、たまたま」
彼方がそこまで言ったところで、希海の手が彼方の腕に触れるのを感じ、彼方は言葉を飲み込む。
「うん、分かってる。でも、ありがと」
希海が少し体を震わせた。それが彼方にも伝わったが、それが何だったのかは彼方には分からなかった。
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