3-2
「早瀬くん!」
服が重たいのだろう。それを引きずるように希海が帳から飛び出し、彼方の傍まで這うように来ると、彼方に抱きついた。
「お、おい」
ふわりと、甘い香りが彼方の鼻をくすぐる。
「来て……来てくれたんだね」
「いや、まあ、来たというか、何というか」
「でも、どうやって」
希海が、彼方の首に縋りつきながらそう尋ねる。
実際のところ、どうやってここに来られたのか、彼方にもよく分からない。ただ、佳月と教室で見つめ合うと、何かが起きる。そう思って試しただけのことだったのだから、答えようがなかった。
「どうも、お前と見つめ合うと、ここに来られるようなんだ」
それは余り正確な説明とは言えなかったが、彼方はそのまま希海に、教室でのことを話した。
御簾の近くだと、漏れ入る光で希海の顔がはっきりと見える。希海は、いつもの目を細めて眉をひそめている姿とは違い、少し下がり気味の二重瞼の目を丸くして彼方を見つめている。それが彼方には可愛いらしく見えた。目が赤いのは、御簾からの光のせいなのか、それとも涙のせいなのか。
と、希海の目がはっと見開かれ、御簾の向こう側を探るような仕草を見せる。そして立ち上がると、彼方の手を引っぱった。そのまま彼方を帳の中へと誘う。彼方は、希海が着ている着物や袴の裾を踏まないように気を付けながら、希海と一緒に中へと入った。
「ここなら、大丈夫だよ」
帳がある分、部屋の中よりさらに暗くなるが、彼方の目も少しずつ暗さに慣れてきている。ある程度はこの暗い中でも目が見えるようになっていた。
「でも、さっきはあの女性が部屋の中に入ってただろ」
「この帳の中までは入ってこないんだ」
希海はそう答えると、寝台として高く積まれている畳に腰かける。
「そ、そうなんだ」
彼方を見上げる希海の目が、何かを訴えかけているような気がして、彼方も希海の横に腰かけた。肩が触れて、彼方は心持ち希海から体を離す。
「あの女性、一体何なんだ? 能面被ってたぞ」
彼方に分かることと言えば、あの女性と目を合わせると、現実へと戻されるということだけである。
彼方の問いかけに、希海は視線を横に逸らした。そして、えっとという言葉を何度か口にした後、少し顔をうつむき加減にしながら、上目遣いで彼方を見る。
「僕も命婦と呼んでいるだけで、あの女性が何なのかは、分からないんだ」
そしてそう答えた。
「そっか」
彼方は返事をした後、希海に見つめられることが少し気恥しくなり、正面を向く。
「そ、そういやさ、なんで、泣いてたんだ?」
帳は薄い布で出来ていて、向こう側が透けて見えている。部屋の中は、御簾の隙間から漏れる光で、うっすらと琥珀色に照らされていた。
彼方が横目で希海を見る。希海は顔を正面に戻しうつむいていた。彼方の問いかけには答えない。黙ったまま右の親指の爪を左の親指でこすっていた。長い髪が希海の左の頬に垂れていて、その横顔を隠している。
「ごめん、訊かなかったほうが良かったか」
沈黙に耐えきれなくなって、彼方がそう口にする。希海が、顔を少しだけ彼方の方へと向け、また上目遣いに彼方を見上げた。彼方の心臓がまたくっとつかまれる。
「あのね、僕を迎えに来るって」
ぽつりと、希海がつぶやいた。
「迎え? 誰が?」
彼方がそう尋ねると、希海が一瞬迷うようなそぶりを見せた後、「お父さん」と小さく答えた。
それを聞いて彼方は、驚くとともに少し混乱してしまう。
「お父さん、ここにいるのか。迎えって、外に連れ出してもらえるのか?」
父親が希海を外へと連れ出そうとしている。そうなんだという言葉が彼方の頭の上っ面に浮かんだ。
希海をこの屋敷の外へと連れだすのに、自分である必要はない。自分は期待されてはいない。自分は、雲の上で起こることをただ指をくわえて下から見上げている凡人でしかないということを、彼方は思い出した。
瞳に彼方の姿が映るくらい、希海は彼方のことをじっと見つめている。心の中を探られているような気がして、彼方は希海から視線を外した。
その瞬間、「遠くに」という単語が、希海の口から飛び出す。余りにもその言葉が彼方の予想を超えたものだったので、彼方がその言葉の意味を頭にイメージするのに数秒かかってしまった。
「遠くにって、どこ」
彼方が希海に視線を戻す。すると今度は、希海が彼方から視線を逸らした。
「遠く、だよ。二度とここに戻ってこられないくらい、遠いところ」
それがどこなのか、希海ははっきり言おうとしない。しかし彼方には、そこが自分の手の届かない所だということがはっきりと分かった。
希海が自分の着ている着物をいじり始める。女性用なのだろうが、希海にはとても似合っている。彼方はそう思った。
やはり希海は、自分とは違う世界に生きている。教室でも、この屋敷でも。彼方はそのことを自分に言い聞かせ、納得する。
今のこの邂逅は、異なる世界同士が偶然すれ違った一瞬に過ぎないのだ。
「そっか。じゃあ、会えなくなるんだな」
そうとだけ言って彼方が口をつぐむ。すると彼方の頭に様々なことが回り廻った。
この屋敷はどうなるのだろう。二人を囲っているこの帳や、今座っている寝台は? これらは捨て置かれ、やがて朽ちていくのだろうか。彼方が希海に対して抱いた、秘めた想いと同じように。そしていつか、それが無かったかのように、消えてしまうのだろうか。
希海も口をつぐんでいる。彼方には希海が何を考えているのかは分からない。しかしきっと、希海の頭の中には彼方が思っていることとは別のことがぐるぐると回っているのだろうと思った。
「あの、あのね」
ひとしきりの沈黙の後、希海がそう口を開いた。彼方が希海の方へと顔を向ける。希海は、眉を少し中に寄せ彼方を見つめていたが、何かを言おうとしたその後の言葉を飲み込んだようだ。
「どした」
吸い込まれそうな黒い瞳。見つめているだけで、彼方は自分の心臓の鼓動が速くなっていくのを感じる。それは赦されないことなのだと思い、息を止め、その想いが顔に出そうになるのを我慢した。
「僕が、ここから連れ出して欲しいって言ったの、覚えてる?」
希海は、彼方にそう尋ねると、視線を下に落とし指をいじり始めた。
「あ、ああ。でも、お父さんが迎えに来るんだろ。俺が連れ出さなくても」
彼方はそう答えたが、全てを言い終わらない内に、希海は顔を上げ、「嫌だよ!」と大声を出した。そしてすぐに、両手で口を塞ぐ。
その声の大きさに彼方はびっくりしたが、何かをやらかした風な希海の様子に、辺りを見渡した。
「ど、どうした」
「しっ。静かに」
希海が、彼方の口に人差し指を立てる。彼方が軽くうなずくのを確認すると、希海は立ち上がって、着ていた十二単を脱ぎ始めた。そして、単衣(ひとえ)と袴だけの姿になって、彼方と一緒に脱いだものを被る。そして寝台に横になった。
「もしかして、能面か」
「うん、ごめんね。大声、出しちゃった」
能面ではなく命婦なのだろうが、彼方にとっては、希海を世話しているという女性の名前はもう『能面』でしかなくなっている。
「静かにね」
そう言って希海が息を殺した。
また至近距離で希海の吐息を感じることになってしまっている。彼方は、希海以外の別のものに意識を向けようとした。
しばらくの静寂。体がすっぽりと収まるほどに大きな衣の中で、彼方の吐息と希海の吐息が混ざり合う。希海の体から仄かに立ち上がる匂いが彼方の鼻をくすぐると、彼方はまた体の火照りを抑えきれなくなってしまった。
「な、なあ」
沈黙に我慢できなくなり、彼方が声を出す。すると希海の手が、彼方の口へと当てられた。彼方は体を少しねじり、希海から下半身を離そうとしたのだが、希海の脚が彼方の両脚の間に入れられていてそれができない。希海がはいている袴の、随分とごわごわした感触が彼方の足にまとわりついていた。
動くことも声を出すことできず、さらに時間が過ぎていく。と、彼方の耳に、木の扉を開ける音が聞こえた。そして、何かを引きずりながら、誰かが廊下を歩いてくる。それが部屋の前で止まった。
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