3-1

 前に来た時とは違い、空からは青さが消え、黄みがかった琥珀色に染まっていた。空に太陽は無かったが、周囲は明るい。光の下で見ると、この屋敷の荒れ具合がはっきりとわかる。崩れそうなのは土塀だけではない。屋敷にしても、ところどころ屋根が崩れていた。


 ここまで荒れ果てていただろうかと彼方は記憶を探ってみる。しかし上手くは思い出せなかった。

 相変わらず、大きな建物の中は簾(すだれ)が邪魔をして見えない。彼方はそれが『御簾(みす)』と言われるものだということを調べていた。


 屋敷から向かって左手へ通路のようなものが伸びていて、その先にもう一つ小さな建物がある。大きな建物はやはり母屋のようだ。彼方は小さな建物とは反対の方向へ進み、そこから見えないように、母屋の陰に身を隠す。その壁にもひびが入っていて、ところどころ土壁がはがれていた。


 一体ここはどこなのか、なぜ希海と目を合わすとここにいるのか、いや、なぜ目を合わしてもここに来る時とそうでない時があるのか。


 何が引き金になったのかは分からないが、この屋敷の話を持ち出した瞬間、希海の雰囲気が変わったのは確かだ。だから彼方は、教室にいる『佳月』も、この屋敷のことを知っているのではないかと考えた。

 それは、『あの佳月』と『この希海』に繋がりがあるということの証ではあったが、それ以上のことは分からない。


 しかし今は、彼方はそれを一旦頭の片隅へと追いやる。それ以上考えても何か結論が出てくるとは思えず、考えても分からないことは、分からないのだ。


 希海は『この建物から出られない』と言っていた。ということは、今もこの中にいるのだろう。中に入れば希海がいるかもしれないが、もう一人、希海が『命婦』と呼んでいた能面の女性もいるかもしれない。

 彼女に見つかれば、また教室に戻されるのだろうか。しかし反対に言えば、戻りたければ命婦に会えばいいということになる。

 いつでも戻れる。そのことが、彼方の頭を冷静にしてくれていた。


――さて、どうしよう。


 突然のことだった前回と違い、今回は自分で望んでここに来たと言ってもいい。しかし、どうすればここに来られるのかばかり考えていて、ここに来てどうするのかを考えていなかったことに、彼方は今更ながらに気が付いた。

 ただ、目的の一つは達したと言える。自分の妄想などではなかった。今、自分は屋敷の前にいる。これが現実なのだということを彼方は自分の目で確かめたのだ。


 もう一度ここに来られたこと。それが彼方には嬉しくあるが、それと同時に、複雑でもあった。自分はなぜ、ここにいる希海に会おうとしているのか。それを言葉にするのが怖い。

 確かに、希海は『連れ出して』と言っていた。それに彼方は応えようとしている。それは彼方が、自分が『希海に選ばれた』ということに優越感を持ったから。


――俺は、別世界の人間に、凡人たる自分が選ばれたことに喜んでいる。


 そして、まるで尻尾を振るように、ここに来た。これでは、下界から眩しい中を一生懸命目を細めながら太陽を見上げる哀れな生物のようだ。


――父さんが言ってた通りじゃないか、これじゃ。


 彼方はぎゅっと、唇を噛んだ。

 希海が受けると言われているN高校は中高一貫の学校だ。実は彼方は小学校六年生の時、N中学を受験していた。しかし結果は不合格だった。父親は彼方に随分と期待をしていたのだが、中学受験に失敗し、さらに公立中学でも入学以来ずっと学年二位の成績に甘んじている息子を見て、もう期待をしなくなっていた。彼方は一度、『佳月がバケモノすぎるんだよ』と父親にかみついたが、返ってきた言葉は『お前は凡人だったんだな』という冷めたものだった。


 父親としては、圧倒的一位という成績を息子に期待していたのだろう。一位でないと意味がない、二位では駄目だというのが父親の口癖だった。

 一科目二科目くらいなら佳月に勝つ時もある。特に数学は自分の方が上という自負が彼方にはあった。しかし、英語、社会、そして極めつけは国語。定期テストなら成績はさほど離されることはなかったが、模試になるとどうしても差を付けられてしまっていた。


 塾に行かせてもらえなかった彼方は、部活動もせず、ただ自分で黙々と勉強を続けた。しかし、待ち受けていたのは「万年二位」という称号。

 別に希海が、学年一位であることを自慢するわけでも、そのせいで高慢な態度を取るわけでもない。いや、希海はずっと、誰とも親しくすることなく学校生活を送ってきている。先輩、後輩、同級生を問わず、何人もの女の子から告白されたという噂を正樹からよく聞いていたが、希海が誰かと一緒にいる姿を学校で見せることはついぞ無かった。


 別世界の人間。いつの間にか、クラスの中で希海はそう思われるようになり、話しかけようとするクラスメイトもいなくなっている。だから、気にしなくてもいい存在だと言えばそうなのだろう。正樹の格好のネタの一つなだけの存在。

 しかし、と彼方は思う。自分も、別世界にいるはずの人間だったのだ。でも、なれなかった。

『二位でもすごいじゃないか』

 彼方にとっては、そうではない。二位は二位でしかないのだ。それでは父親には認めてもらえない。かといって、頑張っていればいつかは勝てる。そんな希望も、もうすでに打ち砕かれていた。


――あいつさえいなければ。


 そう思ったことが何度あったことか。しかしその都度、『そうじゃない』と否定してきた。佳月希海だけがバケモノなのではない。自分は、その壁を越えられない凡人でしかないのだ。


――馬鹿だな、俺は。


 建物の壁にもたれ、彼方は乾いた砂地の地面に座った。


 教室にいる『佳月』は、彼方に劣等感を感じさせる存在でしかなかった。しかし同時に、彼方にとって眩しく映る存在でもある。それを思い出した時、劣等感とは違う感情が心の中に現れる。それは憧れなどという言葉では説明できない感情だった。


 会いたい。いくら、希海は男なのだと自分に言い聞かせても、その気持ちを抑えきれないでいる。この屋敷で会った『希海』と一緒にいた時に感じた熱い感覚。彼方が求めていたものが、そこにあったのだ。

 もう一度、あの『希海』に会いたい。だからここに来た。しかし、この感情は何なのだろうとも思う。自分は希海に会って、どうするつもりなのか。今の彼方にとっては、会うということが手段ではなく目的になっている。

ふと、それは『恋』と呼ぶべきものではないだろうかという考えが彼方の頭によぎった。そしてそれを即座に否定する。


 それは、いけないことに違いない。二人は、男同士なのだ。そんなことはあってはいけない。

そこで彼方ははっとする。『いけない』とは思っていても、その感情が『恋』だということを否定できないでいることに気が付いた。


――なら、会ってそれを確かめればいい。


 ここに来られたのだ。ここに、教室とはまるで別人のような『希海』がいるはずであり、考えている暇があるのならあって確かめればいい。この感情が本当に『恋』なのかを。ただ自分は一時の気の迷いでそう思っているだけかもしれない。会えば目が覚める、彼方はそう思った。


 屋敷の中も外も、およそ人の気配を感じることはできない。彼方は、中にいるはずの希海が何かの拍子で顔を出すまで待っていようと思っていたのだが、しばらくたってもそんな様子はなかった。

 このまま待っていても状況が変わらないのなら、いっそ、一か八か、中に向けて声を掛けてみようかと思ったその時、屋敷の中から大きな声が聞こえてきた。


「なんじょう、さることかはせん!」


 女性のもののようにも、少年のもののようにも聞こえる、高く澄んだボーイソプラノ。彼方はすぐに、それが希海の声だと分かった。


 それにしても、声の調子が随分と鋭い。怒っているようにも聞こえた。それを不思議に思い、彼方は物陰から少し顔を出してみたが、御簾が揺れるのを見て、慌ててまた身を隠す。もう一度覗いてみると、一人の女性が廊下を小さい建物の方へと歩いていくのが見えた。どうも、あの能面を被った女性のようだ。


 女性が建物へと入った瞬間、彼方は建物沿いに身を屈めながら走り、正面の階段の陰に身を隠す。そのまま辺りをうかがってから靴を脱ぎ、音を立てないように階段を上ると、御簾の下から転がるように部屋の中へと入った。揺れる御簾を手で押さえる。そして、部屋の中を振り返った。


 部屋の中は御簾の隙間から漏れる光があるだけで、暗さに慣れていない目には余りはっきりとは見えない。しかし、息をひそめると、部屋の真ん中あたりからすすり泣く声が聞こえてきた。


「佳月」


 彼方はその音の方へと、声を掛ける。すると泣き声が止まった。


「早瀬、くん?」


 響きは同じ。しかし、教室で言葉を交わす時とはまるで違う、可愛らしくも柔らかい音色。そんな希海の声が、彼方の名前を呼んだ。その声が、彼方の心臓をくっとつかむ。


「ああ」


 彼方がそう返事をすると、部屋の真ん中にある寝床を囲う帳から、背中まである長い髪を束ねもせずに振り流したままの姿で、一人の女性が――いや、佳月希海が顔を出した。

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