2-3

 終業式の前日でも授業は通常通り六時間目まで行われたが、ホームルームが終わると、教室の生徒たちは各々の用事へと散っていく。隆や正樹も例外ではなく、塾へ行くからと言ってさっさと教室を出ていった。


 彼方はいつものように、最終下校時刻まで教室で勉強しようと思い、カバンの中で問題集を探る。その視界の端に、いまだ席に座ったままでいる希海の姿が映った。


 右手親指の爪を噛みながら窓の外を眺めている。希海の長い黒髪が夕日を受けて琥珀色に煌めきを放つ様に、彼方はすっと息を飲み、目線を再びカバンの中へと戻した。英語の問題集をつかんだ後、思い直し、古典の問題集を取り出す。


 教室の中にはもう、彼方と希海の二人しかいない。彼方は問題を解き始めるが、すぐにそれを止めた。目の前の文章が、今まで以上に頭に入ってこない。意識が、声も呼吸の音さえも立てずに座っているクラスメイト、佳月希海の方へと向いてしまうのだ。


――佳月は、俺が欲しいものを持っている。


 彼方にはそう思えてならない。確かに、数学もそして体育も、彼方の方が希海より成績がいい。しかし五教科総合の成績、特に模試の成績では、彼方はいつも希海に水を開けられた二番だった。数学だけ勝っていても、彼方にとってはそれはちっぽけな取るに足らないものでしかない。


――別世界の住人。バケモノ。


 彼方が欲しかったのはその称号、父親を唸らせるに足る称号なのだ。しかし、佳月希海という存在が、それを阻んでいる。彼さえいなければ、彼方は学年で圧倒的な一位であるはずだったのだ。

 だから、彼方にとって希海は、ただ劣等感と嫉妬の対象でしかない。そのはずだったのだが、彼方の中に、それだけでは説明できない希海への想いがあった。もともと、彼方の心の中に隠れていて、彼方自身自覚していなかったものだ。それが、あの屋敷での出来事によって、彼方にはっきりと自覚させることになってしまった。

それは、これまで希海に対して抱いていたのとは違う感情。大きさや方向の違いではない。存在する次元の違う感情だった。


 彼方は、雑念を振り払うため、頭を軽く振り再び問題集へと向かう。しかし……

 二重の目から恥ずかしげにのぞく瞳。

 透き通るような調べを奏でる声。

 熱く漏れる吐息。

 体や髪から立ち込める、甘く切ない匂い。

 唇に当たる肌。

 それらが彼方の五感を騒めかせ、彼方の集中を乱した。


――バカバカしい。佳月は男だぞ。


 男に対して、自分の顔や下半身が熱くなってしまったことが、彼方には更なる屈辱のように感じられる。

 するとまた、希海の口から出た『僕を、ここから連れ出してくれないかな、早瀬くん』という言葉が、彼方の頭に響いた。それが山彦のように繰り返される。


――佳月が、お願いをしたんだ。俺に。


 あまり運動神経が良くないという欠点すら女子たちからはチャームポイントのように見られている、非の打ち所の無い、かといって誰かと交わることも無い、孤高とも神秘的とも評される少年が、彼方にお願い事を言ったのだ。

 それが、自分の願望が生み出した妄想であり、別世界の住人に自分が選ばれるという夢を見ただけのこととは思いたくなかった。


 確かめたい。あれは妄想(フィクション)に過ぎなかったのか。それとも現実(リアル)なのか。


 しかし、確かめて、もし自分の妄想に過ぎなかったとしたら、彼方はもうこの学校にいられないと思えるほどに恥ずかしい思いをするだろう。


――どうする。どうする。


 心の中で妄想と現実が何度か格闘した後、彼方は確かめたいという誘惑に抗うことを止め、席を立った。そして意を決し、希海に声を掛ける。


「佳月」


 彼方の呼びかけに、親指は口に添えたまま、希海が視線だけを彼方に向ける。その表情の中にはあまり感情が見られず、彼方は屋敷で見た能面の女を思い出した。


「何?」


 希海の黒い瞳が彼方を捉えている。しかし、眩暈が襲い、気が付けば古めかしい屋敷の前にいたあの時のような感覚は、彼方には起こらなかった。

 希海が自分の口から指を離した。思わず、薄紅の唇に彼方の視線が向く。彼方は、失望と恥ずかしさに、頭を締め付けられた。


「いや、ごめん。何でもない」


 そう言って席に戻ろうとしたが、彼方はそこで強く唇を噛んだ。


――まだだ。まだ、逃げるな。


 もう一度振り返る。希海は窓の外へと視線を戻し、また爪を噛んでいた。


「そうだ、思い出したんだけど」

「何」


 希海はそう返事をしたが、視線は窓の外に向いたままだ。彼方がすっと息を吸う。


「まだ佳月は、あの屋敷の中にいるのか?」


 その吸った息が、言葉として吐き出された。声の余韻が消え、教室に静寂が訪れる。

 それを割るかのように、希海の爪が弾くような音を響かせた。希海の顔がゆっくりと彼方の方を向く。希海の黒い、ただ黒いだけの瞳が彼方の姿を映し出した。


 耳にかかるくらいの髪の毛。少しやせた顎。上がり気味の眉。そして、希海への不可説な感情をたたえた顔。それらが全て、希海の瞳の中へと吸い込まれていった。


 彼方を、全身が揺れるような感覚が襲う。倒れそうになるのを、しゃがみ込んで床に手を付くことで防いだ。彼方は、しばらくの間そうしていたが、眩暈が治まるとすぐに顔を上げる。


 彼方の目の前に、寝殿造りの屋敷が建っていた。


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