2-1

 朝、目を覚ますとすぐ、彼方は自分が今寝ている場所を確認した。それは見慣れた自分のベッドであり、柔らかいマットレスが敷かれていて、その上に羽毛布団がかけられている。

 照明を点けると、LEDライトの真っ白い光が部屋の中を満たした。ベッド以外には勉強机と本棚、そしてクローゼットしかない簡素な部屋ではあるが、ここにいることがこんなにも自分に安心を与えてくれるのだということを改めて感じる。

 佳月希海がいた古びた屋敷の中は、簾の隙間から冷たい空気が流れ込んでくる、薄暗い場所だった。そこにずっといるとしたら、どんなに淋しいだろうか。ふとそんなことを考えてみる。


――でも、結局あれはなんだったのだろう。


 その屋敷の中で暮らす黒髪の姫君。あれは、本当に佳月希海だったのだろうか。姿、服装、場所、全てが彼方にとって謎でしかない。それに、屋敷にいた希海は、彼方の知っている佳月希海とは反応が全く違っていた。


――夢か幻でも見ていたんじゃないだろうか。


 眩暈のせい。そう考えるほうが普通だった。朝起きて、なら夢だとも思える。しかし彼方が経験したのは、教室にいた時だった。寝ていたわけではない。彼方が眩暈から回復すると、目の前に希海がいたが、それは彼方が屋敷に行く前に見た光景の続きだった。

 しかし、とも思う。唇に感じた希海の肌、そして汗の感触。思い出そうとすれば、それらが全てリアルに蘇ってくる。すると彼方はまた下半身に熱いものを感じてしまうのだ。


――佳月に、訊いてみようか。


 彼方は、希海の目の前で眩暈に襲われしゃがんでしまったのだから、その様子を希海が見ていたのならば、彼方に声を掛けたりなどの反応があっても良かったはずだ。しかし、そういうものはなかった。ただ、本を取り返すと、希海は怒ったように教室から出ていってしまったのだ。


 いや、とそのシーンを思い出しながら彼方は考える。見られたくないものを見られたという感じであり、怒ったというよりかは、恥ずかしがっている風であった。

 それも彼方が知っている『今までの佳月』とは少し違う反応だ。


 彼方の心の中には随分ともやもやしたものが残ってしまっている。だからちゃんと確かめたい。そう思い、彼方は学校へ行くと、教室で希海の姿を探した。


 希海は普通に学校に来ていた。だが、彼方を見てもいつものように眉を顰めるだけで、それ以外何の反応も示さない。それはまるで昨日のことなどなかったかのようであり、彼方に対して咎めるわけでも、怒るわけでも無かった。それ以降も、彼方は希海の様子をチラチラと見ていたが、誰と話をするわけでもなく、休み時間ともなればこれまでと同じように窓の外を眺めているのだった。


 結局、話しかける勇気が彼方の心の中には出てこず、彼方はその日希海に声を掛けることができなかった。

 それから二日、三日と過ぎていくにつれ、彼方自身にも『もう一人の佳月希海』に出会ったのが本当に現実だったのか、言い切る自信がなくなっていった。


 期末テストが終わった後も普通に授業は続けられている。二学期の授業は十二月二十四日まで。二十五日には終業式が行われる予定になっていた。


 クリスマスが間近に迫ると、世間だけでなく教室の中もどこか浮ついた雰囲気へと変わっていく。それがクリスマスというイベントのせいなのか、それとも冬休みへの期待のせいなのかは人それぞれだったが、彼方にとっては、希海に会う機会が無くなるということを意味していて、その落ち着かなさが日に日に増していくのを感じていた。


 しかし彼方も、受験を控えているのだ。冬休みは身を入れて勉強しなければならない。だから彼方は、屋敷での出来事は眩暈を起こしている最中に見た単なる幻覚だったのだと思い込もうとした。しかしその度に、『僕を、ここから連れ出してくれないかな』という希海の言葉が甦ってくる。


 結局、何もできないまま迎えた終業式の前日、街の様々なお店でクリスマスソングが流れる日の昼休みに、富松隆が彼方に声を掛けてきた。


「彼方、今日はなんかすんのか?」


 隆の短く刈りこんだツーブロックの髪型は、この時期では少し寒々しく見える。

 髪の毛が長ければ、少しは暖かいのだろうか。彼方はふと、屋敷にいた十二単姿の希海を思い浮かべた。


「別に、何も。勉強だよ」


 彼方はそっけなく答えたが、隆は彼方の肩に手を回して、いやらし気に笑う。


「またまた、そないなことを。今日はな、クリスマス・イブやで」

「クリスマスに浮かれてる暇なんかないだろ」

「あのな、彼方。人間、たまには休息っちゅうもんも必要や」

「休息は勉強の合間にするもんだ。休息の合間に勉強しているお前と一緒にするんじゃない」

「わいかて、ちゃんと勉強くらいするがな」


 隆は、何かを言いたそうな雰囲気を出しているが、彼方にはその内容が予想できない。気持ち悪さを感じつつ、お弁当箱をカバンから取り出した。蓋を開けると、母親が作ってくれたサンドイッチが並んでいる。


「隆はご飯食べたのか?」

「まだやで。それよりな、彼方。お前さん、I高校受けるいうてたやろ。いっちゃん難しいいうても、所詮市内の公立高校の中の話や。お前なら楽勝や」


 そう言いながら、隆はお弁当箱の中のサンドイッチを一切れつまみあげた。


「今度別のもので返せよ」


 彼方が隆を睨みつける。しかし隆にその視線を気にする様子はない。彼方は普段、そんなにたくさん食べるわけではない。サンドイッチの一切れや二切れ取られたところで気にもしないことを隆は知っているのだ。


「で、なんでそんなこと訊いてくるんだ」

「今日くらい、なんかすんのかなぁって」


 隆は、サンドイッチを口にほおばりながら、反応を探るような視線を彼方へと向けた。それで彼方はピンとくる。


「正樹に、何か探ってこいとでも言われたんだろ」


 小諸田(こもろた)正樹(まさき)は、隆と並んで彼方の『悪友』の一人なのだが、学校中の様々な噂話(ゴシップ)を集めるのが趣味という、少し変わった男だった。

 大方、隆はクラスメイトのクリスマス・ゴシップ集めの手伝いでもしているのだろうと、彼方は苦笑する。仕掛けた悪戯がばれたような顔を隆が見せた。


「なんで分かってん」

「なぜ分からないと思ったのか、そっちの方が知りたいよ。にしても、正樹もほんとにゴシップ好きだな」


 彼方もサンドイッチを手に取り、口に入れる。すると、前の座席に、少し小柄な男が椅子をまたぐように、彼方の方を向いて座った。


「おいおい、ゴシップじゃなくて、ジャーナリズムだぞ」


 丸い顔に不釣り合いな細い目には、常に好奇心に満ちた色が浮かんでいる。こいつが、正樹。ぼさぼさの髪があちらこちらに棘を作っていた。

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