1-7
希海は、教室ではあれほど孤高で不愛想に振る舞っていた。しかし今、その希海が彼方にお願いをしているのだ。ここから連れ出して欲しいと。そのことに彼方は少しだけ優越感を感じていた。
空の青さは変わっていない。太陽も月も空にないことにも変わりはない。しかし彼方には、空から届く光がそれまでよりも随分と明るくなっているように思われた。
彼方が今までいたのが母屋なのだろう。右を見ると、母屋から向こうへと渡し廊下のようなものが繋がっていて、その先に小さな建物が見えた。
そこに希海の世話をしている人がいるに違いない。彼方はそう思い、冷たい縁側をそちらの方へと歩き出す。すると、まるでそれに合わせるかのように、渡り廊下の向こう側から布を引きずるような音が聞こえてきた。
彼方が様子をうかがうために立ち止まると、渡り廊下をこちら側へと歩いてくる人影が姿を現す。顔はうつむき加減で彼方からは見えないが、長い着物の裾を引きずるように歩いていて、その音が繰り返されるたびに人影が彼方の方へと近づいてきた。
彼方は、この人が『ミョウブ』なのだろうと思い、その場で待っているのももどかしく、縁側を小走りに進む。渡り廊下の入り口まで来ると、ちょうど目の前に、希海と似たような十二単を着た髪の長い人物がいた。
「すみません、あなたが」
彼方がそう声を掛けた瞬間、その人物が伏せていた顔を上げた。それを見た彼方の喉が、驚きの為に一瞬詰まってしまう。そこにあったのは、一切の感情を持っていないかのような、表情のない能面だった。
女性の顔をかたどっているものだろう。広い額の上の方に薄い眉が心持ちハの字に書かれており、額の下には横に細長い三角形の目が二つある。やや丸い鼻の下には、口がうっすらと開いているが、それが笑っているようにも、怒っているようにも見えた。
――こいつは、なんだ?
ただその疑問だけが、彼方の喉の中を暴れまわっていて、言葉はおろか、空気すら出ていくことが出来ない。
能面の目には穴が開いている。その向こうから、黒い瞳が彼方を見つめていた。一切の光を反射することのない、真っ黒な深淵のような瞳。その黒い穴に飲み込まれるような感覚を覚え、彼方を強烈な目まいが襲う。彼方はその場にしゃがみ込み、動けなくなってしまった。
どれくらいの間、そうしていただろうか。一瞬だったかもしれないし、もっと長い時間だったのかもしれない。ようやく眩暈を感じなくなってから、彼方は顔を上げた。視線の先で、希海が彼方を見下ろしている。
希海が屋敷から出てきたのかと思ったのだが、しかし直ぐに彼方は、希海の服装が中学校の制服、ブレザーであることに気が付いた。
慌てて周りを見回す。窓の外では茜色が薄らいで、そのかわりに濃紺の空が広がっていた。教室の照明を受けて、窓には彼方の姿が映し出されている。
希海は、唖然としている彼方を一瞥すると、彼方の手から奪い取った本をカバンへとしまい込んだ。そしてまた、彼方を睨みつける。その顔は、彼方がこれまでに見たことも無いほどに紅潮していた。ぷいと彼方から視線を外し、希海が教室の入り口へと歩き出す。
「お、おい、佳月」
彼方が声を掛けると、希海は足を止めた。
「何?」
振り返りもせず、希海がそう応える。声は高く澄んでいて、しかし彼方にはそれが心なしか震えているように聞こえた。
「いや、何って」
一体どうなっているのか……それを訊こうとして、彼方は言葉を飲みこむ。
「勝手に、見ないで」
希海はそう言うと、小走りに教室を出ていった。
彼方はしばらくの間茫然と立ち尽くしていたが、ふと我に返り、自分の席に置いてあった鞄を手に取る。そして家に帰るために教室を後にした。
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