1-3

 彼方を襲った苦しみが何とか治まるまで、どれほどの時間がかかっただろうか。ようやく落ち着きを取り戻した後、彼方はゆっくりと顔を上げる。そして、絶句した。


 彼方の目の前にいたはずの佳月希海が、いや、何もかもが消えうせ、その代わりに見覚えのない光景が広がっていたのだ。

 彼方のいる場所は教室の中ではなかった。いや、もう屋内ですらない、見たことも無い場所。広い敷地の中であり、周囲を土塀に囲まれている。よくよく見ると、周囲の塀にはところどころ崩れかけたところがあり、随分と古いものだという印象を受けた。木でできているのだろうか、少し大きめの門も見える。


 彼方が顔を上へと向けた。空は全体が鮮やかな青白さ、浅葱色に染まっているが、太陽も月も見えない。


「ここは、どこだ」


 彼方はまた誰に問うとでもなく、独り言ちた。

 土塀の隅は枯草に覆われ、手入れされている様子がない。全体的に『荒れ果てた』という形容がぴったりだった。


 彼方の右手には、母屋らしき木造建物がある。黒っぽい瓦屋根が空の明るい青とのコントラストで妙に浮き上がって見えた。それはまるで、古典の教科書の挿絵で見たことのある、平安貴族が住むような屋敷だ。その正面には階段があり、それを上がると板張りの吹き放し部分が廊下のように左右に伸びていた。等間隔に太い柱が立ち並んでいる。



 その柱の内側には、大きな簾のようなものが並んで掛けられており、それが目隠しとなり、中は見えない。


「一体、何なんだよ、これ」


 彼方は二度目の独り言を言ってみるが、そうしたところで状況は変わらなかった。


 一瞬強い風が吹き、震えるような寒さを感じた。彼方が着ているのは、制服のブレザーとカーディガン、その中にシャツ、そしてズボンである。十二月ならこれで十分のはずなのだが、今はこの服装では心許なく感じた。空気が冷たいのだ。


 とりあえず中に入れてもらおうと思い、屋敷へと近づく。靴を脱ぎ階段を上がると、廊下の冷たさが足に伝わってきた。

 一面に掛けられている簾はどれも全体的に黄色く、赤い線の六角形模様で埋め尽くされている。絹か何かの布でできているようで、彼方にはこの中が暖かそうには思えない。ただ、それ以上に、中から漏れ出てくる光が全くないことに首をかしげた。誰かが住んでいる気配が全くしないのだ。これでは、暖を取ることも難しそうだった。


 どうしようかと彼方は途方に暮れてしまう。すると、

「誰かいるの?」

という高く澄んだ声が御簾の中から聞こえた。


 しまった。そう思い、彼方は咄嗟に柱の陰に身を隠して息を殺す。そうした後で、自分自身の行動に少し可笑しさを感じてしまった。中に入れてもらおうというのだから、隠れる必要は無いのだ。


「みょうぶ?」


 もう一度中から声がする。高音の、旋律を奏でるような透き通った声、まるでボーイソプラノのような……彼方は、その声に聞き覚えがあった。

 簾の揺れる音がする。中にいた人物が外に出てきたのだろうと思い、彼方は柱の影から身を出し、声の主へと声を掛けた。


「佳月、ここは一体」


 そこまで言って、言葉を飲み込む。彼方の目の前にいたのは、佳月希海ではなく、扇で顔を隠した十二単姿の女性だった。

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