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 二学期の定期テストも終わっている時期では、放課後に教室に残ろうという生徒は三年生にはいない。塾に行くか、それとも受験勉強がほとんど必要のない高校へ行く者は遊びに行くか、そのどちらかだった。


 誰もいなくなった教室で、彼方はまた古典の問題集を解き始める。しかし直ぐに嫌になった。彼方には、目の前のものが今自分が使っているものと同じ日本語だとは到底思えないのだ。


――英語の方がよっぽど簡単だ。


 知らず知らずの内に、もみ上げを指で巻いていることに気付き、それをやめる。

 定期テストくらいなら、詰め込みで何とかしてきた。そして彼方が受けようとしている公立高校は、地域のトップとはいえ、今の彼方からすれば内申点も模試の成績も十二分に足りている。古典や社会が不得意と言っても、隆の言う通り『別次元の話』であり、合格には影響しない。


 しかし彼方には、古典を克服しなければならない理由があった。


――佳月には、負けられない。


 ただ、それだけのこと。模試では五教科の総合成績で勝つことはできないだろう。しかし定期テストならチャンスはあるかもしれないと彼方は考えていた。まだ学年末テストが残っている。もう内申には無関係なテストであるので、手を抜く生徒も多い。もし佳月希海がそうであったら、彼方は初めて一位を取ることができるのだ。


――それはずるい考えなのか?


 彼方は自問自答してみる。すると父親の口癖が頭の中で聞こえた。


『一位でなければ意味がない』


 彼方は舌打ちをした後、また問題集へと取り掛かった。


 窓の外に見える空の色が琥珀色から茜色に変わった頃、彼方は手に持っていたシャープペンシルをノートの上に置いた。時計を見ると、もう四時を過ぎている。窓からはどこかの運動部が練習をしている声が微かに漏れ聞こえていた。


 彼方は椅子から立ち上がり、外を見ようと窓際に行く。すぐ外、中庭はもう夕暮れの闇に沈んでしまっている。その向こうに見える運動場の、ボールが外に出ないよう張り巡らされた高いフェンスが、黄昏の空に格子模様を作っていた。


 彼方はふと、自分の傍にある席を見た。それは、佳月希海の席である。希海は進路面談の後、教室には寄らずにそのまま帰ったのだろう。教室に残って勉強して、自分は何を期待していたのか。彼方はそれを考えて、自嘲気味に笑った。


 彼方は、希海がクラスの誰かと親しげに話しているのを見たことが無い。いや、クラスはおろか学校の誰とも仲良くしている様子はなかった。それはもちろん、彼方とも同様であった。


 何も置かれていない机の上をそっとなぞると、指に長い髪の毛が一本巻き付いてくる。それを拾い上げようとして、何とも言えない程の後ろめたい気持ちを感じた。髪の毛を指でつまみ上げ、それをじっと見つめる。その髪の毛が彼方に希海から漂ってきた香りを思い出させ、そしてまた彼方の心に後ろめたさが湧き上がってきた。


 自分は希海に嫉妬している。かつて彼方が目指しそして諦めた中高一貫の私立学校へと希海は行こうとしているが、今の彼方ではN高に合格できないだろう。しかしもし希海がN高に落ちれば、希海に抱いている劣等感が幾分か和らぐはずだ。彼方はそう理解しようとしていた。


 しかし一方で、指の中にある一本の長い髪の毛を見ると、別の想いが湧いてくる。

 希海が入試に失敗すれば、彼方が受験する予定の公立高校に来るはずだ。それは彼方に、再び三年間、嫉妬という感情を持った学生生活を強いることになるだろう。同時に父親の嫌味も聞き続けることになる。


 それでも、彼方はそうなれと望んでしまっている。それは、まるで夜空に浮かぶ青い月を欲しいと願うのに似ているのだろうか。


 彼方は一つ溜め息をついた。


 掻き毟るような衝動を抑えきれなくなり、彼方は指に絡みついた佳月希海の髪の毛にそっと唇を寄せる。ふと、彼方の目に希海の机の中にある一冊の本が見えた。何気なくその本を手に取ってみる。文庫サイズの本で、表紙には有名な古典作品の題名が書いてあった。本を開くと、右のページには古語の文章が、左のページにはその現代語訳が載っている。


 とその時、彼方の後ろでカタンという物音がした。驚いて彼方が振り向くと、教室の入り口に希海がカバンを手にして立っている。眉をひそめて目を細めているのは、教室の照明が眩しいからなのか、それとも彼方を睨んでいるからなのか。


 赦されざる罪を見られたような気がして、彼方はその場で凍り付いたように固まった。希海が靴音を立てて彼方に近づき、彼方の手から本を奪い取る。


「ご、ごめん」


 彼方は謝罪を口にし、そしてさらに弁明しようとして、希海と視線が合わさった。


 淡い紅を差したような唇の上にはツンと立った小さな鼻があり、そこから筋がまっすぐ上へと伸びている。眉は僅かに曲線を描きながら左右へと流れていた。長い前髪の間からは、目頭から目尻にかけて緩やかに下がっている二重の目がのぞく。いつもは、その目が物憂げな様子で窓の外へと向けられているのだが、しかし今は、驚きとも焦りともつかない色をたたえ、見開かれている。そしてその瞳の中には、戸惑った様子の彼方の姿が映し出されていた。


 耳にかかるくらいの髪の毛。少しやせた顎。上がり気味の眉。そして、劣等感とそれとは別の得体の知れない感情がないまぜになっている鋭い眼。


 自分の姿、そんなもの見たくもない。彼方がそう思った瞬間、激しい眩暈が彼方を襲った。


 希海の瞳に映ったものが、自分が、その中へと吸い込まれていくような感覚を覚え、彼方は思わずその場にしゃがみ込む。息苦しさ、胸の苦しさ、一体何が原因なのか分からないまま、しばらくの間それらの苦しみを我慢し続けた。

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