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 誰もいない教室は、どこか異空間を感じさせる。彼方はふっと一つ溜息をつくと、自分の席へと戻った。そして椅子に全体重を預けるように座ると、鞄の中の数学の問題集をつかむ。しかしそこで思い直し、古典の問題集に変えると、それを机の上に置き、鞄を横に掛けた。


 そこに、富松(とまつ)隆(たかし)が意地悪そうな顔をしながら教室に入ってくる。


「おい彼方。センセ、なんて言うてた?」


 彼方の友人、いや悪友と言ってもいいだろうか。


「別に、なんにも」

「なんや、おもんないな。わいは随分とえげつないこと言われたわ」


 冬の初め、中学三年生は最後の進路面談が行われている。今日の授業は午前中に終わっていて、午後からは順次面談が進められているのだ。彼方は先程それが終わったが、彼方と同様に隆も今まで教師と面談をしていたのだろう。進路面談は基本的に担任が行っていたが、一部の成績上位者は学年主任とである。彼方は後者だった。


「ダイブツに絞られたのか?」


 隆の声に少し元気のなさを感じ、彼方がそう尋ねる。

 彼方と隆のクラスは三年二組だが、クラス担任である体育教師は、その顔の大きさから生徒たちに『ダイブツ』とあだ名されていた。気のいい教師だが、怒らせると怖い。隆の成績は中の中といったところだろうから、怒られたというよりは発破を掛けられたのだろうと彼方は推測した。


「このままじゃ第一志望は無理だぞ、とか言われたわ。豚骨ラーメンよりこってりやで」


 ダイブツの声真似なのだろう、低い声を交えながら隆が答える。


「自分が受けたい高校を受けたらいいんだよ」

「そうはいかんから困っとるねん。志望を下げろ下げろっちゅうて、うるさいわ」

「先生は皆、安全に受験させようとするからな。行く高校が無かったら困るだろ」


 隆が彼方の席までやってくる。そして、彼方が机の上に置いた問題集を覗き込んだ。


「彼方はええよなあ、どこでも受けさせてもらえるんやさかい。なんせ、学年のナンバー・ツーやからな」


『ツー』という言葉が一際強調されているところに、隆の意地の悪さが現れている。彼方が少しムッとした表情を見せた。


「どうせ俺は佳月には勝てないよ。あいつはバケモノだ」

「世の中に古典と歴史がなかったら、彼方も佳月に勝てたかもしれんのにな」


 隆が、彼方の頭をくしゃくしゃとこねくり回す。頭頂部から額へと軽く流れていた髪の毛が、勝手気ままに飛び跳ねたものへと変わってしまった。


「うるさい」


 彼方が隆のおでこを指ではじこうとしたが、隆はそれをひょいと軽くかわす。


「わいからすれば、お前も十分バケモンやけどなあ。古典と歴史が不得意いうたかて、わいらとは次元の違うレベルでの話や」


 そして、両手のひらを上に向けると肩をすくめ、らしくない程しみじみとそうつぶやいた。


「世の中にはもっとすごいバケモノがうようよしてるよ」

「そんなもん、わいには別世界や。で、そのナンバー・ワンの佳月は今面談中かいな」


 彼方の隣の机に腰かけ、隆は教室の入り口の方に顔を向ける。


「ああ」


 彼方は気のない返事を返し、乱れた髪を手櫛で整えた。そして自分のやるべきことである目の前の問題集へと目線を戻す。


「あやつ、N高受けるいう話やで」


 佳月希海が全国でもトップレベルの私立進学校を受験するという噂は、彼方の耳にも入っていた。


「佳月なら受かるんじゃないか」


 そう答えた彼方の心の奥底で、細い針に刺されるような痛みが生まれる。


 多分、佳月は合格するだろう。しかし、それを望んでいない自分がいる。それは嫉妬ゆえの感情だと、彼方は自分に言い聞かせた。


「彼方、お前帰らんのか?」


 目だけを彼方の方へと向け、隆がそう尋ねる。


「もう少しここで勉強していく」

「精がでるのお。んじゃ、わいは先に帰るで。塾に行かなあかんからな」

「ああ、頑張れ」


 顔は問題集に向けたまま、彼方は手だけを隆の方へ向けて、ひらひらと振った。


「塾に行かんでもできるやつが、うらやましいわ」

「その分、今まで自分でやって来たんだ。やってこなかったツケだと思え」


 その彼方の言葉に、隆はけっという音だけを残し、教室を出ていった。

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