6

 雨滴がひどい勢いでヘルメットのバイザーを叩いている。電動バイクのヘッドライトが照らす山道を、伊庭は出せるギリギリの速度で走っていた。この辺りはすでに台風の暴風圏に入っている。しかし伊庭は急いでいた。明日の朝を待てなかったのだ。

 夜、会社の寮へと帰宅し、一本のメールを受け取ると、取るものも取り敢えず伊庭はバイクを走らせた。

 黒い森の先に、別荘が姿を現した。伊庭はさらに速度をあげ、玄関を迂回してバイクを別荘の裏へと走らせる。勝手口にバイクを放り出し、鉄砲玉のようにキッチンへと突入する。

「アーク!」

 ヘルメットを脱ぎ捨て、叫ぶ。

「こんばんは! アーク! いるんだろ!?」

 別荘の中はとても静かだった。声が大きく響いた。外の嵐が嘘のようだった。律動が、地下から響いてくるあの重い音が聞こえなかった。消えていた。身体中から水を滴らせて、伊庭は別荘の中へと歩き出す。そうだ、雨なんかどうでもいい。アークを、アークを見つけなければ。伊庭の手の中には、濡れないように防水布に包まれた手紙がある。ようやく渡せる。

「誰?」

 二階から声がする。

 玄関ホールの階上、白いワンピース姿のアークを見定める。緋色の髪は光の加減か、濃い黒色に見えた。

「アーク!」

「え?」

 伊庭は階段を駆け上る。

「聞いてくれよ、アーク! やったんだ! ついに認められたんだよ!」

 伊庭の勢いに、アークは困惑しているようだった。

「絵が売れたんだ! 僕の描いたものに買い手がついた!」

 伊庭はアークの両肩を掴み、言った。

「だから、来たんだ」

 ようやく今まで描いてきたものが認められたのだ。夕刻、自室で受け取った電子メールには、その旨が記されていた。ヒューマノイドに課された『もうひとつの計画』。中でも「創作」の研究分野で、伊庭は特に絵画に力を入れていた。写実であれ抽象であれ、ヒューマノイドの創作に期待されていることのひとつに、創造物を通してヒューマノイドがどのように世界を観測しているのか知ることがある。訓練によって身につけられる技法そのものよりも、何をどのように表出するのか。どうやら伊庭の描いてきたものはその点で、期待される水準を超えたのだろう。今回投稿したものは、あの日のアークの姿を描いたものだった。スポンサーがもうすぐつきそうなのだ。そうなれば配達夫の仕事を辞めることができる。自分の好きに、バイクを走らせることができるようになる。自由が手に入る。

「ちょっと離して!」

 アークが手を払う。

 素直に手を離す。その手の中には手紙がある。今の自分ならあの時の返事が言える。

「で、あなた誰なの?」

「え? いや、ごめん、ちょっと興奮しちゃって。――でもそんな言い方はないよね?」

 伊庭は苦笑いを浮かべる。しかしアークは躰をよじって、ゆっくりと距離を取る。アークは伊庭をこえて廊下の先に視線を飛ばす。柳瀬がいた。ゆっくりとした足取りで近づいてくる彼に、アークは駆け寄ると背後に周り状況を訴え、伊庭をまるで知らない相手を見るように警戒している。

 アークの瞳を見据える。彼女は怯えたように視線を逸らし、柳瀬の影に隠れる。黒く短い髪。緋の色が失せ、濡鴉色の髪になっている。

「君は……配達会社の。何しにきたんだい?」

 伊庭は驚く。柳瀬は見たこともない晴れやかな表情だった。昼間の彼とは正反対の性格が、その表情にはあった。アークの変化と、柳瀬の笑顔。そして――昼間、アークはいなかった。

 一体、何があったのか――伊庭はそのまま問いを発した。

「彼女に、アークに何をしたんですか?」

「アークぅう?」

 柳瀬の形相が一変した。表情がどす黒く変色した。

 伊庭にはついていけなかった。しかし怯んでもいられなかった。

「アークですよ! アクジス! あなたを世話していたヒューマノイドだ。いまあなたの後ろにいる!」

 顔を斜めに傾げ、柳瀬が言った。

「ああ、あのロボットか」

「そんな言い方!」

「昼に言ったろう。アクジスはもういない。ここにいるのは」柳瀬は身体を揺らし、笑う。「静日しずかだ」

 名前を呼ばれた少女が柳瀬を見上げる。

「兄さん、あの人、誰?」

 柳瀬は心配ない、とうなずき、部屋に戻っていなさいと少女に告げた。少女はうなずくと伊庭を一瞥し、静日の部屋へ、消えた。

「アークがいないって、どういう意味ですか?」

 聞きたくはなかったが、訊かないわけにはいかなかった。

「昼間、こそこそと探していたようだね。あの部屋にも入っただろう」

 柳瀬がゆっくりと歩き出す。

 伊庭はまっすぐに柳瀬を見ている。

「悪いことをした、とは思っていないようだね」

「規制はされていませんでした」

 はは、と柳瀬が快活に笑う。

「君はまだ若い個体のようだね。では、そんな君に教えてやろう。静日、というのは私の妹だ。静日は十五年前に私が殺し、そして今日、私が生き返らせたのだ」

 柳瀬はまるで自分の手柄を誇るように、一方で痛みをさらけ出すように、語った。

 柳瀬にはかつて「静日」という名前の妹がいた。静日が幼い頃に両親が他界し、歳の離れた柳瀬が親代わりだったという。唯一の肉親であったその妹を、柳瀬は自分の不注意で失った。クルマの事故だった。

「趣味だった。自動に任せるのではなく、自分で動かしてみせたかった。そんな矮小な見栄が取り返しのつかない事故を招いてしまった。私も足を悪くしたが、たったそれだけだった。静日はすべてを失ったのに。私は自分が許せなかった。だから決して忘れることがないよう、足の再生治療は断った。この痛みが、私を明確にふちどっている。だから今まで立っていられた。

 ――そうだ、私はあきらめなかった。あらゆる生命記録を参照することで、静日の表出意識を再現することに五年かけた。同時に受け皿の開発も行った。素体が必要だった」

 だからアクジスを用意した、と柳瀬は言った。

「アクジスとは、静日の逆さ読みだ。静日の代わりとなるべく用意した。ただ――まっさらな素体では生まれ直した静日に、不自由をさせてしまう」

 だから一緒に暮らし、性能向上に務めた。素体となるヒューマノイドを作り、亡くなった静日と、十六歳の少女と同じ運動性能を備えるまで育てあげた。

「世話、とはよく言ったものだ」柳瀬は皮肉げに笑う。「本当にアクジスは甲斐甲斐しく世話してくれたよ。自分がどうなるかを知っていたのにな」

 その時、伊庭は柳瀬の顔をまともに見られなかった。柳瀬の顔から、あらゆる感情を読み取ることを忌避した。もしそこに侮蔑が存在したら伊庭は堪えられないだろうと知っていた。そんな否定を受け止められるようには作られていなかった。

「――それにしても、よく取り込まれなかったものだ。あの部屋は多重現実をかなり強めに設定してある。私は元よりそのことを知っているし、この足が表層現実との錨になるからそうそう危ないことはない。しかし君は何も知らないじゃないか。君が取り込まれることはさして問題ではないが、どうやって脱出したのか、その点は興味深いな」

 うつむいたまま伊庭は言った。

「それで、アークはどうなったんですか?」

「ん? いなくなったよ。消えた。君たち寄りの言い方をすれば死んだ」

「それはいつのことですか? だって三日前までは――彼女は、アークはまだ」

「今日の夕方には素体への上書きが終わったから、その時だろう。あの素体には、二つの表出意識を保てるほどの容量は用意してないからな」

 柳瀬はさらりと言った。

 ぎゅっと強く目を瞑った。伊庭はアクジスの態度や言葉の端々を思い出す。アークはあの川遊びの日、なんと言っていたか。すでに今日の事態は示唆されていた。人の手によって左右される自分たちの存在の儚さを、初めて認識した。

 知らなかった。自分は幸福だったのだ。

 そして、思い至る。アークはこんな絶望の中で生きていたのだ。

 そんな彼女に自分はどうした。何もできなかった。期待させて裏切った。伊庭は――発せた言葉と発しえなかった言葉を悔やんだ。そして――得体の知れない感情が躰の底から沸き上がってくるのを感じた。

 これはなんだ、と戸惑っているうちに躰を低く屈め、柳瀬に突進していた。自然と伊庭の口から叫びが溢れている。真正面からぶつかり、柳瀬が転倒し罵声をあげる。伊庭は勢いそのままに静日の部屋に飛び込む。目前に、驚いた表情の少女がいた。彼女の手を取ると、部屋から駈け出した。

打ち所が悪かったのか、壁に手をついた柳瀬がよろよろと起き上がろうとしていた。

「兄さん!」

 少女が悲鳴をあげる。

「何をやっている!」

 柳瀬が叫ぶ。

「妹じゃなくて、アークを愛してやれよ!」

 階段を使っている暇はない。少女を抱きかかえると、アークの部屋に飛び込み、窓を破って外に飛び出した。ガラスが砕け、少女がさらに悲鳴をあげる。しかし別荘の外は暴風雨だ。伊庭には聞こえない。

 だん、と両足で着地し、関節部の悲鳴を次の駆動のために圧殺し、少女を抱えたまま疾走に入る。

 背後から銃声が響く。当たるとは思っていなかったが、横っ飛びに避けて、擬似林の暗がりに飛び込み、そのまま走り続けた。

 奪う。意識したわけではなかったが、その行動はその思考に基づいたものだった。少女を奪いたかった。柳瀬は、伊庭からアークを奪ったのだから、今度は自分の番だった。

 速度を落とすことなく走り続けている。山の、闇の中だが、オルタナがフィルターとなって伊庭に正しい道順を提示し続けている。腕の中で少女は固く目をつむっている。顔には雨が当たり、黒髪が風に吹かれるに任せている。伊庭は努めて意識しないように、疾走し続ける。

 不意に視界が開けた。濁った水が怒涛に流れる小川――擬似林の終わりだ。この川沿いに下っていけば街に出ることができる。砂利に足を取られないように減速する。その時だった。少女が身を捩って、伊庭の手の中から逃れる。

 ごろごろと転がって動きを止める。

 伊庭はすぐに駆け寄り、少女を立ち上がらせようとする。

 ぱん、といい音が響いて、伊庭は自分が平手で打たれたことを知る。

「触らないで」

 少女が顔を歪めて伊庭を見ている。頬を伝う雨が流れる涙のようだった。

「ここまでなら、まだ大丈夫。――でもこれ以上、先はだめ。私が私でいられなくなる」

 ひどい既視感。アークも、似たようなことを言ってはいなかったか。

「私の意識とこの躰は、この山に、擬似林が産み出しているエネルギー供給によって支えられている。そういう風に作られているの。このエリアから外に出ることは決してできない。ここが私の世界、そのすべて。兄は目覚めたばかりの私に、最初にそう言ったわ。相変わらず、不器用な人」

「アークはどうなるんだよ」

「……あなたには悪いと思うわ。でも私だって躰が欲しいもの。偶然得た余生だけれど、それでも私は生きていたいの」

「だからって、何も殺さなくたって、他にも手段があるだろうに」

「それは違うわ」少女はきっぱりした口調で言った。「あなたたちは人ではないもの。すべては所有者に委ねられる」

 伊庭は反射的に言った。

「でもぼくはもう独立できるんだ。絵が売れるんだ!」

「もちろんあなたみたいに自分で自分を買い取ることも可能らしいけれど、それだって結局はいまの所有者から新たな所有者へ売買されているだけなの」

言葉を失った。

「でも、そんな……」

「ただ、そうとは決してわからないように人は振る舞っている。それが上位種としての倫理観、ということになっているらしいわ。兄が昔からそう言っていたの。だから申し訳ないけれど……あなたの好きだった人は、もう戻ってこないの」

 少女ははっきりと告げた。責任を果たす、そういう毅然とした態度と彼女なりの優しさが、そこにはあった。

 力なく膝をつく。ポケットから手紙を取り出す。防水布はしっかりと役割を果たしている。しかしこれはもう用をなさないのだ。渡す相手も、渡す理由もなくなってしまった。伊庭は手紙に力を込め、引き裂こうとする。

 その時だった。

 銃声。

 衝撃。

 転倒。

 気がつくと、仰向けに倒れていた。右目の周辺がごっそりとなくなっている――アラートがけたたましく鳴っている。持っていた手紙はどこかにいってしまった。

「当たるものだな」

 擬似林の中から、足を引きずった柳瀬が出てきた。柳瀬は少女を一瞥し、目立った外傷がないことを確認すると、ゆっくりと伊庭に近づいていく。少女は何かを拾い、それを広げたところで硬直している。

「君の雇い主には私の方から説明しておくから安心しなさい」

 柳瀬が発砲した。あさっての方向に着弾したことを、地面の振動から感知する。

 難しいな、と柳瀬がつぶやく。

 伊庭は左目だけの視界で空を見上げている。暗雲が恐ろしい勢いで流れていく。右目周辺の外皮が破壊されている。ナノスキンの自己修復では処置が間に合わない。何より外気に晒されている部位への雨粒の侵入がまずい、と警告が鳴っている。しかし伊庭には関係なかった。遠からず柳瀬が放った銃弾が自分を撃ち抜くからだ。ずっとこのまま空を見上げていたかった。そうすれば思い悩むこともない。ただの指令に忠実に動くだけの、メカトロニクスになってしまいたかった。

 柳瀬が足を引きずり、近づいてくる。

「手間をかけさせてくれた。では、さよならだ」

 柳瀬が言った。

 伊庭は空を見上げている。

 その時、声がした。

「ダメ!」

 アークの声だった。片手をついて伊庭は躰を起こした。

 目前に両手を広げて自分を庇う、アークの姿があった。すぐにわかった。アークだと思った。伊庭の記憶にある、躰の動かし方だった。緋色の髪の流れる様を、幻視した。

「やめて、これ以上はダメ」

 柳瀬は銃口をおろす。

「……静日ではないな。アクジスなのか? しかしどうやって」

「そう、アークよ。私が消されることは決まっていた。そのために準備をしないと思ったの? 何も考えていないと?」

 柳瀬は黙った。

「静日はどうなっている?」

「代わってもらったの。いまは私が隠れていたところに、いるわ」

「……無事に返してくれるのか?」

「ふふ、理解が早くて助かるわ。――そうね、私のことを見逃してくれるのなら」

 おおアクジスよ、と柳瀬はアークに近づき、彼女を抱きしめる。

「今まで一緒に暮らしてきたではないか」

「そうね」とアークが言った瞬間、柳瀬が呻いてアークに倒れかかった。

 柳瀬は足を抑え、うずくまる。アークにハックされた銀の蛇――歩行補助装置が、ぎりぎりと柳瀬をしめあげていく。

「だからそこで少し待ってて。あなたは信用ならないから」

 アークが伊庭に近づく。

 伊庭はよろよろと立ち上がる。躰のバランスがおかしくなっている。駆け寄ったアークに支えられる。彼女の手に握られているものに気がつく。

 視線に気がついたのか、アークが言う。

「これ、読んだよ。こんな風に考えてたんだ」

 アークが微笑んだ。

 伊庭の書いた手紙だった。随分前に書いたように思えて、伊庭はもう具体的な内容を覚えていなかった。ただ渡すこと、伝えること、そのことが伊庭には重要だった。それがいま、達成されている。

「でも、もっと早く教えて欲しかったな」

「いろいろ、心の準備が必要だったんだ」

「私たちに心なんてないのに?」

 アークの言葉に、苦笑するしかなかった。結局のところ自分たちは刺激に対する反応を躰に走らせるプログラムでしかない。しかしそれでもアークは「自分」を保つために努力し、そしてそれを達成したのだ。

「ありがとう」

「え?」

「手紙、うれしかった。だから出てこようと思ったの」

 アークには確かに静日が上書きされた。しかしアークはバックアップされていた。ボディの持つ防疫機構がアークをバックアップしたのだ。アークと稼働年数を同じくするボディ。素体は自らが変化しすぎることを予期し、予防策を用意した。元々の存在であるアークをバックアップしておくことで――かたちにこそ魂が宿る。

 そして、圧縮された領域の中で、アークの再構成がトリガーされたのは、伊庭の手紙があったからだという。

「でも、このままこの躰にはいられない。私はこの躰によって形づくられた。防疫機構はまだ私のことを躰の一部として認めてくれているわ。でも、静日がこの躰に順化してしまえば、私は消えてしまう。これが最後のチャンスなの」

 アークはそっと手を伸ばし、伊庭の右目の傷に触れる。痛みはない。そういう風にはできていないからだ。しかしアークは痛そうに顔を歪めている。伊庭にはその表情をただの反射とみることはできなかった。

「だから――」

 アークの言葉を遮り、うなずいた。自分にできることなどは知れている。だからこそ伊庭はうなずいた。

「一緒に行こう、アーク」

 これだけは自分がやらなければならない。あの時、言えなかった言葉を、伊庭はようやく言うことができた。

 アークは嬉しそうにうなずくと、指を差し伸べる。手の素肌を開き、内部構造をあらわにしながら伊庭の傷口に腕ごとを差し込んでいく。情報の奔流が赤い色となって流れ込んでくる。異物に対する防疫機構の反発を抑え込み、同時に痛みを感じる。肌の下を掻き回されるような痛みだ。しかしそれは心地のよい、痛みだった。何かを受け入れるためには必要な痛みだと、伊庭は思った。そして、視界が緋色の閃光に染まり、色の中にアークの笑顔が焼きついた。伊庭は思う。この痛みは決して忘れることはないだろう。己を縁取る大切な、痛み――。

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