5

 それからも、柳瀬の別荘への配達は行った。二度、行った。

 配達先を変えることはしなかった。アークはあの日のことが何もなかったように振る舞い、伊庭もそれに付き合った。普段と何も変わりないように見えた。伊庭はそう思うことにした。行き帰りのスケッチは中断していた。アークのスケッチを完成させてから筆が止まっていた。

 あの日から三回目の配達の日だった。つまり、十日が経っていた。その日、伊庭を出迎えたのは柳瀬だった。午前のまだ早い時間だった。いつもの儀式をすませて別荘の裏手に回る。今朝の天気図によれば午後から雲行きが怪しくなるということだった。台風が近づいていた。手早く済ませようと思っていた。普段と変りないアークに会うのは気がすすまなかった。勝手口からキッチンに入る。誰もいなかった。普段通りであるならアークが待っているはずだった。他愛ない会話を交わし、配達内容を確認し、そして手を振って別れる、そのはずだった。

 まいったな、と伊庭は思う。キッチンを見回す。ふと違和感を覚える。精査する。この間、運んできた荷物がそのままになっている。場所も中身も変わることなく、三日前にここを後にした時のままだった。別荘の律動、地下からの振動がいつもより大きく感じられた。

 不意にキッチンの扉が開き、男が顔をのぞかせた。

「おはようございます」

 伊庭は言った。男は無言だった。柳瀬忠司だった。著名なロボット工学者にして、アークの所有者だ。柳瀬は痩身の男だった。左足に、銀の蛇が巻き付いている。歩行補助システム――肉体の再生医療が発達したいまとなっては、骨董品にも等しいメカトロニクスだった。左足とのバランスを取るためか、柳瀬の立ち居は歪み、傾いだものだった。鏡を見ていないのだろうか、無精髭が伸びている。いつもはアークが柳瀬の髭をあてている、と聞いていた。

 柳瀬は扉にもたれかかるように伊庭を見ている。値踏みされている、という感覚を伊庭は覚える。まさに柳瀬の視界にはいま、伊庭のIDが浮かんでいるだろう。彼と会うのは初めてではなかったはずだが――伊庭は不思議に思う。彼は何をそんなに気にしているのだろうか。柳瀬の強い視線に耐えられなくなった伊庭は言った。

「サイン、いただけますか?」

 柳瀬の眼前に署名用のオルタナを浮かばせる。

「それと、」何気なく訊いた。「今日もアークは寝坊ですか?」

 柳瀬の反応は激烈だった。

「誰のことだ、それは!?」

「え?」

 何か間違ったのかと思い――そうか名前、と気がつく。アークが柳瀬に何と呼ばれていたのかを思い出す。

「そう、アクジス、アクジスです。彼女は?」

 柳瀬は殴りつけるようにオルタナに署名する。

「アクジスは出かけている」

 ひどく小さな声だった。

「え?」

「出かけている!」

「あ、そうなんですか。……どこに?」

 柳瀬の視線が泳ぎ、天井を見、そして地面に向けられ、伊庭の方を向いた。

「いない。ここにはもういない」

「そう、ですか……台風が接近しているらしいですから、早く帰ってくるといいですね」

 じっと伊庭を睨んだまま、柳瀬は押し黙っている。

 荷を分類する。こつこつ、と一定のリズムで音が響き始める。見ると柳瀬が足を鳴らしている。身体の不具合からくる不随意の動きかとも思ったが、柳瀬は先ほどと変わらず強い視線で、睨んでいる。すぐにでも地下に戻りたそうだった。帰れ、ということだと察した伊庭は作業を切り上げ、辞意を告げると勝手口から外に出た。振り返ってみるとキッチンにはもう誰もいなかった。

 伊庭はキッチンに戻った。そのまま廊下に出る。柳瀬の姿はなかった。別荘が唸るように鳴っている。だんだんと音が大きくなっている。柳瀬は地下に戻ったのだろうか。伊庭はエントランスホールから階下への入口を探した。アークの姿を、探した。伊庭は確信に突き動かされていた。確かにアークはこの建物の中にいる。彼女は言っていた。自分はここからどこに行くこともできはしない、と。あの時の彼女の言葉には嘘はなかった。だからこそ生半可な応え方が、伊庭にはできなかった。

 だから――嘘をついているのは、柳瀬の方だった。なぜ彼がそんな嘘をつかねばならないのか、わからなかった。いまの伊庭にわかることと言えば、アークに会えずに帰ることはできない、それだけだった。

 伊庭は別荘の中を歩き回る。扉という扉が施錠されており、防塵シートに覆われた廊下の先には行くことができなかった。必然的に見て回れる先は限られてしまう。伊庭は地下への入口を探していたはずなのに、いつのまにか二階の、プライベートな空間に入り込んでいた。二階では三部屋が使われているようだった。一室は柳瀬のものだろう。もう一室はアークのものだ。ではもう一室は――。

 伊庭はまずアークの部屋をノックした。返事はなかった。ノブを捻る。扉はあっさりと開いた。中に入る。凄惨な何かを期待していたわけではなかったが、想像以上に殺風景な部屋に伊庭は衝撃を受けた。ベッドと書き物机、備え付けのクローゼットがひとつきりだった。オルタナひとつも浮いていない。整頓されて清潔であるはずなのに、かえってそれが寒々しい印象を強めている。まるですぐにでもここから出ていけるようだ、と伊庭は思う。唯一アークを印象づけるものとして、空っぽの鳥籠がある。中身のない、役割を終えた、器がある。伊庭は窓に近寄る。玄関の真上だった。擬似林の切れ目から道の先へと続くように、眼下の街の姿がよく見えた。それは伊庭がいつも登ってくる道でもあった。――ここには何もない。

 伊庭はアークの部屋を出た。隣の柳瀬の部屋をノックした。やはり返事はなかった。部屋に入った。左右の壁を天井まで本棚が占めていた。オルタナのものが大半ではあったが、中にはいくつか、紙の、原始書籍もあるようだった。伊庭はまっすぐ、窓の下にある書き物机に向かう。机の上には多くの写真立てがあった。ハードコピーだ。必然的に劣化をまぬがれない。色褪せている。伊庭はひとつを手に取る。ずいぶん若い柳瀬が写っている。彼に抱きつくように、髪の短いアークが写っている。柳瀬はそっぽを向いて、視線は写真の外へと向けられている。アークは制服を着ており、日焼けしている。浅黒い肌。黒髪ショート。裏表のない活発な笑顔。写真が色褪せていてもよくわかった。若い柳瀬はまっすぐ立っている。補助装置は見当たらない。これは過去の写真だ。写真のキャプションがポップアップする。「静日しずかの高校進学にて」とある。伊庭は次の写真を手に取る。そこにも「静日」の文字がある。伊庭は次々に写真を確かめていく。すべての写真に「静日」の文字があり、アークによく似た少女が写っていた。写真によってアークと柳瀬の年齢はまちまちだった。しかし最初に見た写真よりも新しいものはどこにもなかった。最近撮られた写真は、一枚もなかった。アークの言っていた写真がこれらのことであると伊庭は気がついた。写真立てを元あった場所に戻すと、部屋を出た。ここにも、必要としているものは何もなかった。

 自分が何をしているのかよくわからなくなってきた。

 アークを探しているのではなかったのか。廊下を防塵シートのある突き当たりまで歩くと、左手にドアがあった。伊庭は誘われるようにノブを捻っていた。一瞬、伊庭の全身に衝撃が走った。すぐに防疫システムが立ち上がり、全身を精査する。しかし何も見つからない。衝撃が走ったという記録すら残っていない。いい予感はしなかった。ここで引き返すべきだった。すでに滞在時間は限界に近づいている。自分に許されている行為、その範疇を飛び越し始めているのだ。

 しかし伊庭はドアを開けて、静日の部屋に入っていた。扉が閉まる音が大きく響いた。懐かしい匂いのする部屋だった。伊庭は初起動からすでに十五年が経過している。最初の五年間は多くの同胞とともに人間のインストラクターに教化された。厳しくも、懐かしい記憶だ。いまできることの多くはそこで学んだ。忘れることはない、しかし特別思い出すこともない記憶だ。なぜかこの部屋には伊庭の記憶を誘発する、そういう匂いに満ちていた。むせ返るような、濃密な匂い。でも匂いを観測するようには作られていないのに。

 不意に背後で多重現実が立ち上がった。見えずとも、伊庭にはわかった。いくつもの多重現実が、人のかたちをなした影たちが次々と立ち上がっていく。すっと腕が伸ばされ、影のひとつが背中にもたれかかってくる。アークと同じ感触がする。いや、これは静日だ。気がつく。背後で無数の、時の停まった静日たちが会話をしている。伊庭の耳にはただの音の連なりにしか聞こえない、小さな小さな囁き合い。なんてこの部屋は懐かしいんだ――思わず胸がいっぱいになる。なった端からこのままではまずい、と躰を動かそうとする。ここは時の停まった部屋だ。無数のオルタナによる、むせ返るような過去の再現。柳瀬によって集められた少女、たったひとりの静日の、いくつもの残滓。いまを打ち消そうと、何度も何度も折り重ねられ再生されている。早く部屋から出なければ取り込まれてしまう。彼女と過ごしたあの懐かしい日々にいつまでも浸っていたくなる。今まで一度たりとも切ったことのないオルタナを非表示にする。できない。そもそも切ることができるのかどうか伊庭にはわからなかった。しかしこのままではまずい。何がどうまずいのかはわからない。ただこのままでは検索も予測もできない事態が発生してしまう――焦燥感だけが募り、反比例して行動は遅滞する。背後の囁きはすでにその音量をいびつに増大させている。音は圧となり、もたれかかる静日の存在感へと変換され、どんどん大きくなっていく。伊庭は膝を屈し、床に手をつく。押しつぶされてしまいそうだった。それもいいかもしれない、と伊庭は思った。静日は優しいから――。

 誰だよ、そいつ。

 伊庭は歯を食いしばる。自分が知っている彼女は、アークだろう。

 配達着のポケットに入ったままの手紙を、伊庭は強く意識する。

 そうだ自分はまだ何もできていないじゃないか。

 こんなところで――静日が幾重にも立ち並ぶ部屋から、伊庭は転がり出る。

すると、重圧が嘘のようになくなった。

 背後で、扉の閉まる大きな音だけが廊下に響いた。

 同時に、滞在時間の限界を告げるアラームが鳴り響く。伊庭は慌てて、階下に降り、キッチンを経由して勝手口から脱出する。バイクに跨り、ちらりと別荘を確認する。さきほど感じたよりも、地下からの律動が大きくなっているようだった。アークの姿を見つけることはできなかった。変わりに伊庭は多くの静日を見つけることになった。自分の預かり知らないところで何かが進行している。後ろ髪をひかれる思いで、バイクを発進させた。また自分は、まだ自分は、何もできない――。

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