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 水面に蛍光イエローのウキが浮かんでいる。擬似林からエネルギー補給した後、最初は真剣に見つめていたアークも今は飽きてしまったのか、ぼんやりと遠くを、川下の方を向いている。伊庭はパラソルの影の下で、アークを見ている。眼前に開いたオルタナのキャンバスに、アークの姿を写し取っていく。

 アークがぽつりと言った。

「よく考えるの。私の姉のこと」

「お姉さん?」

 初耳だった。

「そう、私は二人目なの」

 二人目、と訊く前に、アークの遠くを見るような目に気がつく。

「柳瀬の机の上に、写真が飾ってあるの。古いフォトデータをわざわざ印刷して。それしか残ってないっていうの。笑っちゃうでしょ」

 アークは決して笑っているようには見えなかった。

「私の顔を見て話すことも笑うこともないのに、写真なんかに――」

「アーク」

「何?」

「ウキが」

 糸にタグ付けされたオルタナのウキが上下動している。アークが素早く膝立ちになる。竿を支え、視線をウキに集中する。なめらかな動きだった。アークが言う。

「私たちは目的があって作られた道具なの。この釣竿と一緒。それから逃れることはできない」

 アークの言葉に躰を震わせる。何か応えなければいけない。そう、強く思った。アークが言ったことは、そのまま伊庭にも当て嵌まることだ。日々の仕事から逃れることのできない自分と。

 ――しかしそれでも手は止めなかった。止められなかった。この一瞬、驚くほど生気に満ちたアークの姿を、伊庭はこの場ですぐにオルタナに写し取る必要があった。人の手によって作られた躰の底から、無性に突き上げてくるものがあった。衝動が、伊庭を動かしていた。この一瞬を逃すことなどできなかった。

「かたちにこそ魂がやどるの。私は、その器に間借りしているだけ」アークは続けて言った。「ここにいる私はどこにも行けない。ゆっくりと消えるのを待つだけなの!」

 ウキが勢い良く川の中に引き込まれた。瞬間、アークは竿を持った手を躰に引きつける。釣竿が大きくしなり、水面にしぶきがあがる。光が反射する。輝いている。そうか、と伊庭は気がつく。これは闘いなのだ。

「私は、」アークが強く言葉を切り、立ち上がる。「ここではないどこかを、見てみたい!」

 一際、大きく水しぶきがあがる。

 アークの手中には、トラウトが虹色に身体を輝かせている。

 アークが伊庭を見る。まっすぐに見据える。

 伊庭は、見られていることに気がつく。

「これ、ダメだね」

 うなずく。絶滅危惧指定を示すオルタナが釣り上げた魚の周りで狂ったように踊っている。背後の擬似林で管理虫がうるさく鳴いている。警告音だ。アークは魚の口から自壊性を持つ釣り針をわざわざ取り外し、そっと水の中に戻す。

 バイバイ、と手を振るアークの背中を、伊庭は見ている。手は止めていない。小さな背中を、その輪郭を写し取っていく。川を向いたまま、アークが言った。

「ねぇ、キミは私がついて来てほしいって言ったら、どうする?」

 アークの表情は窺えない。初めて伊庭は手を止めた。

 思う。アークと旅に出る――この土地以外の場所を知らない。麓の市街で目覚め、そしておそらくここから出ることなく稼働年数を終えるだろうと思う。いまのままでは。

 だから、と伊庭は思う。その旅は、とても楽しいものになりそうだ。――しかし、ここから出ていくためにはいまの自分では無理だ。労働資源としてのヒューマノイド。この土地から逃れられないように、その役割からもまた、逃れることはできない。人に作られた道具。意思はある。だが、道具でしかない。いまの自分がここから抜け出すためには、まだ何者にもなれていない自分ではアークと旅に出ることなどできはしない。ポケットの中には原始メールが入ったままだ。伊庭は強く、強く思う。今日こそは渡せる、無根拠にそう思っていた自分が憎らしかった。このままでは、いまのままでは無理なのだ。アークと旅に出ることなど――。

「今日が最後のチャンスなんだけどな」

「……そうなんだ」

 ああ、と伊庭は思う。自分はいまこの場で彼女に、アークに何もしてやることができない。

 伊庭は何もできない。描くことに逃げ込むこともできなかった。

 そして――、伊庭は見た。

 アークがさみしそうに笑い、すぐにそれと悟られないようにいつもの快活さで笑うのを。

「そうなのよ」

 アークは立ち上がる。

「そろそろ時間ね」

「え?」

「今日は楽しかったわ。また遊びましょ」不意に大人びた口調でアークは言った。「柳瀬がそろそろ帰ってくるの。私があそこにいないと彼、恐いから」

 アークはてきぱきとパラソルや釣具を片付け始める。

「別に暴力をふるうって意味じゃないのよ、ただちょっと、ね」

 アークは聞いてもいないのにしゃべり続ける。言葉を挟む隙間もない。

「キミも知ってるでしょ、彼、私がいないとダメなのよ」

 細い肩に軽々と荷物を載せ、アークは手を振る。

「それじゃあバイバイ。今日は本当に楽しかったわ。ありがとう」

 そしてアークはまったく確かな足取りで擬似林の中へとわけ行った。

 止まっていた時間が動き出したように、管理虫セミが騒々しく鳴き始める。蝉時雨の中、伊庭はただアークの背中を見送るだけだった。残されたのは描きかけのスケッチ。伊庭は思い出したように空を仰いだ。目もくらむような青い空が広がっていた。雨が降るなんて嘘っぱちだ、と伊庭は思った。太陽は恐ろしく高く、擬似林はここぞとばかりに葉を広げて、発電しているようだった。

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