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鬱蒼とした木々がアーチをつくる山道を、電動バイクが走り抜ける。山肌に点在する別荘地へと走らせていたバイクを路肩に駐車し、彼はヘルメットを脱ぐ。空気に素肌を晒して、バイクの給電口から電源プラグのついたケーブルを伸ばすと、迷うことなく樹に突き刺した。給電中を示すポップアップが空中に浮かぶのを確認して、切り株を模したベンチに腰を下ろすと、多重現実のキャンバスを開いて素描を始める。林の切れ目から眼下に覗く風景を、キャンバスに写しとっていく。
じわり、と背後で管理虫が鳴いた。管理虫がとまっているのも、電動バイクに給電を行なっているのも、人工光合成によって発電し、蓄電する擬似林だ。林のメンテナンスを行っているのは、景観を崩さないよう配慮された、昆虫型の機械知性体だ。
ポーン、と今度は別の音が鳴る。スケッチを中断し、立ち上がると給電プラグを擬似林から抜き取り、指を木に添わせる。一瞬の後、伊庭の口座を中継して配達会社から電気代が引き落とされる。ひとつ、うなずくとヘルメットを被り直し、バイクに跨る。荷物を視線だけで確認して、モーターをスタートさせる。ちらと今まで自分が座っていた場所を確認して、地面から足を離す。ゆっくりとした初動でバイクが走り出し、アクセルを開け加速する。
週に一度、山道の行き止まりにある別荘へと荷物を配達している。それが仕事だ。彼が所属している会社にはヒューマノイドが多く、人は社長とメカニックマンがいるだけだ。
このカーブを抜けると目的地だった。伊庭は浮き立つ気持ちを静めるようにゆっくりとブレーキをかけ、速度を落とす。
視界が開け、古めかしい木造の別荘が現れる。かつては療養所であった建物をいまの持ち主が買い取り、改築したという。外壁の古い建材を支えるように、真新しい有機構造材がいびつにモザイクを形成しているのが見て取れる。もう少し侵食が進めばきちんと同化して往時の色合いを再現するのだろう。かつてほど目の敵にされることはなくなったとはいえ、CO2を固定している古材をそのまま再使用することは、エネルギー問題に端を発した前大戦を経たいまの社会では、ひとつの美徳とされているのだ。しかしここの家主は住めればそれでいいと判断したのだろう。伊庭は毎度、玄関ポーチを見上げるたびに不安に囚われる。有機構造材は伊庭の躰を構成しているナノスキンと本質的には同じものだ。再形成途中の別荘は、己のいびつさを直視させる。頭をふって意識を切り替えると門柱に指を添える。別荘のローカルネットへの認証が済むと、いつものようにバイクを押して建物の裏手に回る。
そうだ、頭を切り替えないと――勝手口から、荷物をキッチンに運び込む。不思議と静かだった。誰もいない、などということはないはずだった。そうでなければ伊庭が別荘に入ることはできなかっただろう。何よりここの家主が外出することはほとんど考えられなかった。足が不自由なのだ。
それに、と伊庭は思う。サインを貰わないと帰れない。キッチンから廊下に出る。日の入らない廊下は薄暗い。歩き出すと動体を感知した照明が歩く先々をゆっくりと灯していく。
「誰かいませんか? サインをいただきたいのですが!」
玄関ホールまで回ると、大きな声で言った。反響が消えるに合わせて耳をすませていると、地下の方から重い振動音が響いていることに気がつく。何か大きな機械が駆動でもしているのだろうか。そちらに誰かいるだろう、と地下への階段を探そうとした、その時だった。
「はいはーい!」
玄関ホールの正面、大階段から少女が勢いよく駆け下りてくる。
「アーク!」
伊庭の胸に飛び込むように立ち止まる。腕の中で少女は顔をあげ、えへへ、と笑う。
「アーク、危ないよ」
「ごめんごめん」
少女は舌を出して悪びれない。
彼女はアクジスと呼ばれている。この別荘で家主と一緒に暮らしているヒューマノイドだ。伊庭は親しみを込め、彼女のことをアークと呼んでいる。
アークは白いワンピースの裾をはためかせて、伊庭から離れる。長い緋の色をした髪、艶のある火照った肌、細い肢体にまとわりついている白い布地――照明の薄明かりの中で、彼女のいる場所だけが明るく浮き上がって見えた。
「やーね、見蕩れちゃって」
「あ、いや、誰もいないかと思った」伊庭は慌てて言った。「柳瀬さんは?」
「ごめんね、ちょっとばたばたしてて……だから私が出てきました」
笑みを崩さぬまま、アークは薄い胸をそらす。
「そう、じゃあ」
「はいはい、サインね」
伊庭がさし出した手を、指を、アークが握る。そうだ、サインなら簡単にもらえるのに――左のポケットにある手紙を強く思う。
圧縮された情報のやり取りと、受け取りの認証が済むと、思わず手を払ってしまう。
アークは驚いたように目を開く。
伊庭は自分の反応に、自分で戸惑ってしまい、誤魔化すように言った。
「荷物、出しっぱなしだから」
駆け足にキッチンに向け、歩き出す。
「そうね」
アークは素直についてくる。何も訊かない。
自分が、恥ずかしい。
キッチンに戻るとテーブルの上に置いたままの荷物を、冷蔵庫行き貯蔵庫行き生活雑貨と仕分けする。アークの指示で手を動かしている間に、伊庭はいくぶん自分を取り戻す。
「柳瀬さんは最近どうですか?」
「どうもこうも」アークが答える。「あいかわらず研究ばっかり。せっかくこんなにいいとこに越してきたのに」
別荘の家主・柳瀬忠司はアークを連れてこの夏の初め、この山に越してきた。なぜ柳瀬が麓の市街から離れたこんな山奥にわざわざ居を構えたのか。前々回の訪問で聞いた柳瀬の研究内容から、ぼんやりとではあるが想像できていた。電気だ。この辺りの山に植わっている樹々は発電のための擬似林だ。柳瀬の行っている研究は、周辺の山を擬似林ごと買い上げなければならないほど電力が必要なのだろう。なぜかアークは詳しい内容を教えてくれなかったので、機会があれば柳瀬に訊ねてみるつもりだった。
「あー、でもあの足だとなかなか外に出られないから」
「そうね。でも私がいるんだから」
思いつめた言い方だった。
伊庭はどきりとする。自分たちの役割を思い出すとき、不意に思い知らされるとき、そんな素振りを彼女から感じ取ってしまうとき、不安は襲ってくる。絵を描きたくなるのだ。規定された役割の外側にある、無心に風景を捉えようとしている、あの感覚の中に戻りたくなる。
「今度だって」とアーク。「自分一人で行けるって言って、私を連れていこうとしないし」
伊庭は現実にフォーカスを合わせる。
「まぁ私はここから出られないんだけど」
アークの顔には薄い笑みが広がっている。眉尻の落ちた儚げな笑い。
「そうだ!」笑いの色が変わる。伊庭はほっとする。「キミ、次はいつ来るんだっけ?」
「三日後」
「うん、じゃあデートしよう、ちょうどいないし」
「え?」
「彼、外出するの」と床下を示す。柳瀬は地下にいるのだろうか。
だから、とアークは続ける。「この辺りにね、とてもいいスポットがあるの」
そう聞いて伊庭は山道の途中、いつもスケッチを行うあの場所のことを思い出す。
「たまには天然物ってのも、悪くないしね」
「……もしかして魚釣り? できるの?」
アークは誇らしげに薄い胸をそらしてみせる。
「そう、できるの。散歩してたらね、この山と隣の山の境界に小川が流れてたの。その川――渓流って感じで隣の山の、つまり天然の小川っぽいの。だからきっと魚もいるわ」
そういうものなのだろうか、と伊庭は首をかしげる。
「あ、信用してないわね。いいわよ、じゃあ今から見に行きましょ」
「え、ほんとに? でもまだ配達が――」
「それもそうね」とアークはあっさり引き下がる。「――じゃあ釣具は用意してきてね。ここにはないから」
「……わかったよ」
「あ、大丈夫よ、費用はこちらで持つから。配達品目の中に入れておいてくれれば、いいから。――うーん、楽しみ!」
「アーク」
「何よ?」
「大丈夫なの?」
言外に様々な意味を込めたつもりだった。
「大丈夫!」
アークは気持ちよく応えた。さきほどまであった笑いは霧散し、アークの顔には力強い笑みが広がっていた。
視界の隅にアラートがポップアップして伊庭に限界滞在時間が迫っていることを示す。視線でアラートを消して、言う。
「じゃあ三日後に」
「ちゃんと配達、終わらせておいてね」
「わかったよ」と伊庭は苦笑し、勝手口から出るとバイクに跨る。今日も原始メールを渡せなかったな、という思いと、次はもしかしたら渡せるかしれない、という思いが交互に沸き上がってくるのがわかる。
ふと背後を振り返る。キッチンの窓からアークが手を振っている姿が見えた。伊庭は片手をあげて、それに応えるとバイクを発進させる。
三日後を一日空けるためには――仕事の調整と前倒しについて思考を回し出す。呼応するようにバイクのモーターが回転数をあげようとするが、安全装置が適切に働いて、のんびりした速度で山道を下っていく。
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