36

反射的に俺と竹兄が見上げた店の中の柱時計は16時20分だから、あと1時間も無かった。


「――一緒に帰れるか?」


なんて聞かれて。嫌だなんて言う理由ないし。今日は武蔵八幡に戻るんだ、って解ったら嬉しかったけど。


表情に出さないようにしながら。うん、と黙って頷いた。

 



 柱時計が正時を伝える鐘を鳴らした時、丁度お客さんからグラスとカップを下げてカウンターに戻ってきた俺に。


「小野君、上がっていいですよ?」


竹兄が待ってるって解ってたマスターが声を掛けてくれたけれど。


「これを洗ったら終わりにします」


「ああ、ありがとう。――助かります」


手早く洗い物終わらせてグラスの棚に戻してから。


「お先に失礼します」


「お疲れ様でした。明日もよろしくお願いしますね」


「はい!」


返事をして裏の休憩室に下がってから急いで着替えて。


17時10分過ぎに店の中で待ってた竹兄の横に立って。


「お待たせ竹兄」


って声を掛けたら。俺の姿を上から下まで「信じられない」って顔で往復するように眺めた後で。


「――なんて恰好だよ小野…」


俺が大学行かない、って言った時よりもっと悲壮感の漂った声を竹兄が上げるの聞いたら。


そう言えば俺が余りにもファッションセンスが無いから『御前は休みの日も制服を着ろ』なんて失礼な事何時も言われてた事を思い出した。


「後帰るだけなんだから、別にいいだろ」


暑いんだから、Tシャツにハーフパンツに、最近お気に入りのラメ入りの紫のギョサンが俺の真夏の定番ファッションの何が悪いのか解らなくて首を傾げたけど。竹兄はやれやれ、と首を振りながら、


「良くねぇよ。頼むから年相応のオシャレを覚えてくれ」


「雑誌真似したって、個性無くて全然恰好良くない」


竹兄の部屋ってファッション誌は無かったけど。凄く色々見て勉強してるんだなって事は知ってたから、知ったかぶりして反撃したら、渋い顔しながら。


「――にしたって御前それ、海の家でバイトしてる兄ちゃんみたいだぞ?――いいから。とりあえず座れ」


って。竹兄の対面の席に手を伸ばして促された。


「え?――家に帰るんじゃないの?」


座った途端に色々説教が始まるのが目に見えてたから。座るのにかなり抵抗を感じてたら。


「こうやって話すの久々だろ?」


良いから座れ。ってもう一度目の前の席を示されたから、仕方なく向かい合って座った。


「ココアと、エスプレッソ追加で」


って、竹兄がカウンターのマスターに声掛けたから。


「あ、マスター。出来たら声かけてください」


確かに何も頼まずに座り込むなんてできないから、慌てて手を上げる。


 こうやって向かい合って座って話をするのって…。いつ以来かな…なんて考えながらテーブルに目を伏せて、まともに顔見られないままでいたら。


「――悪かったよ」


目の前で突然竹兄が頭を下げた気配がしたから、俺の方が急に起き直った。


「何で謝るの?竹兄」


怒られるとばかり思ってたから、こんな反応見せられて戸惑ってたら。


「――俺が『大学は社会に出るまでのモラトリアムだ』なんて言ったから、御前は何となく、って理由で大学行くのに抵抗があるんじゃないのか?」


ああ、そういう事か。って納得はできたけれど。竹兄に言われたからでは無い事だけは確かだ。


「抵抗がある、って言うか。本当に自分が勉強したい事なのか解らないまま4年間も過ごすのは嫌なんだ。でも…竹兄の云うように、使える手段全部使って社会に出るのを引き延ばしたい奴は、そうすればいいと思う」


俺の方こそホントは社会に早く出るんだなんて言っておきながら、社会に何一つ貢献するでもなく、解らないまま流されて自分勝手に生きてるだけなんだと解ってた。


だから、竹兄が意地悪そうに唇をゆがめながら、俺の鼻先にはっきりと指を差して、


「――じゃあお前は。高校卒業してから、何時まで続くか自分でも解らないような、『やりたい事探し』って言う名前の、うすら寒~いマスターベーションを延々と続けようって訳か?」


なんて言うのはあんまりに酷い、とは思ったけれど。


こんなに怒りが湧くのは竹兄が云ってる事が正しくて全部本当の事だからだ。反撃する言葉が何ひとつ出てこない。


「――…」


言い返すことができずにただただ睨み付けるしかない俺を。竹兄は視線を逸らさずに受け止めてじっと見つめ返してくる。


「小野がこれからしようって事はそういう事じゃねえのか?俺に言わせれば『モラトリアム』って割り切って、大学4年間目の前にある事をやり遂げる奴の方がまだ、あれこれ理屈こねて色々つまみ食いしたがる御前のような奴より、得る物は大きいだろ?」


「――…」


これ以上は、人の狡いところを見透かして暴くような竹兄の視線に耐えられない、って。息が詰まって窒息しそうな気持になりかけてたら。

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