35
テンパってる俺に、マスターが穏やかな笑顔を見せた。
『大丈夫だから。いつも通りにね?』
お願いします、って。氷水の入ったグラスと、御絞りと、オーダー伝票の乗ったシルバートレイを手渡されたから。
いつも通り…って、どうしたっけ?って。今まで全然考えなくても体が動いてできてたことが急に出来ない気がしながら。とりあえずトレイを左手に乗せて運んだ。
後姿だった竹兄の席のテーブル脇に立ったら。熱いおしぼりを手前に置いて、右手側に水の入ったコップを置いて。
トレイを左わきに挟んでから。ペン持って伝票に書き込む準備してから、出来るだけ竹兄の方を見ないようにして声を掛けた。
「――お決まりでしたらお伺いします」
捲ってたメニューを閉じてメニュー立てに戻すと、竹兄がこっちを見上げる気配がした。
「じゃあ、何時もの…」
「はい」
竹兄が頼んでるのは「エスプレッソドッピオ」だって解るから。伝票のエスプレッソの欄に○を付けて「W」と隣に書き加えた。
「――エスプレッソドッピオお願いします」
カウンターのマスターに声を掛けて、竹兄にひとつ頭を下げてカウンターに戻ろうとしたら。
「おい待て」
なんて声を掛けてきたから、心臓の鼓動がひとつ大きく打ったのが解るほど驚きながら立ち止まった。
「――はい」
何とか返事して、振り返って竹兄のテーブルに戻って。緊張したままぎゅ、って両手でシルバートレイを抱きしめて、震えてる手を何とかごまかした。
「此処で何してるんだよ」
竹兄の口調が少し怒ってるのは解るのに。俺から話すんじゃなくて、見つけられた、っていうのが何となく負い目に感じて。逆ギレしながら不機嫌そうに答えるしかない。
「何って…アルバイト。――お父さんにはちゃんと許可取ってるよ?」
竹兄はソファの上で背中を逸らすように背もたれに押し付けて、腕を組んで眉を寄せながら、じろりとねめつけてきた。
「そんなのは、見りゃあ解る。受験勉強はどうした」
当然来る質問だと思ってたから。この問いにはもう答えを準備してあった。
「受験勉強?…しないよ?俺大学には行かないし。赤点ないし、普通に高校卒業できるくらいの成績は取れてるから」
ってその答えを伝えたら。
「どうして!?」
竹兄は驚いた、というよりもう『衝撃を受けた』ってくらいの表情を見せたから。俺の答えってもしかして間違ってたのかと不安になった。
「――2年ちょっと高校に通ったけど。やっぱり俺、やりたいコトが見つからなかったんだ。潰しが聞くからなんて言って、何となく大学に行きたくない」
って言ったすぐそばから。
「考え直せ!」
立ち上がるくらいの勢いで言われたけど。どうしてこんなに竹兄の方が必死になってるんだろうって不思議に思う。
「――行きたいって思ったら、その時考えるよ」
「現役の方が有利だぞ?」
学校の先生からも、同級生からも聞かされてたその言葉を竹兄から聞くとは思ってなかった。
年明けから半年。忙しいからって何の連絡もくれなかった竹兄が、せっかく久々に会った途端にこんな説教しかしてくれないことが面白くなくて思わず、
「でもまたそれで何となく大学に行って、毎日何となく講義を聴くより、此処で美味しいコーヒーの淹れ方憶える方が、ずっと俺には意味がある」
なんて、カッコつけて反論したら。諦めたように溜息をついた竹兄は。
「勝手にしろ」
突き放すように言われて視線を逸らされたその時に。
「小野くーん。エスプレッソ上がりましたよ」
しまった。仕事中お客さんと立ち話しなんてしてたら、怒られて当然だ。
「はい!」
慌ててカウンターに向かって走ったら。
「すみません」
「いいんですよ。お客さんとコミュニケーションを取るのは大事です。急がなくていいですから気を付けて。お願いしますね」
エスプレッソドッピオのカップとソーサーが乗ったシルバートレイを抱えたら。
ここの所20日くらいずっとやってきた事だからか不思議と落ち着く。
「お待たせいたしました」
とテーブル横に立ったら。竹兄が少し姿勢を正したように見えた。
カップとソーサーの音が立たないように、コーヒーの水面が波立たないように、と何時もの気遣いを忘れずにまずはテーブルに置いて。
コーヒースプーンとハイクラウンのチョコレートがお客様の前に来るように、ソーサーをくるりと回して調整する。
「――エスプレッソ…ドッピオです」
竹兄は黙ったままだったけど微かに頷いたから。
「ごゆっくりどうぞ」
って頭を下げて、一仕事終えたくらいどっと気疲れが襲ってきてカウンターに早く戻りたい、って思ったのに。
背中越しに、竹兄から呼びかけられた。
「小野」
振り返ったら。竹兄もソファーの背もたれに肘を乗っけてこっちを振り返って見上げてた。
「――上がり何時だ?」
「17時」
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