第35話 初恋の悪霊13

013


 初めて好きになった女子ヒトだった。


 それだけじゃない。初めて告白したのもあいつだったし、初めてデートしたのも、なんなら初めて異性を意識したのもひょっとしたらあいつだったかもしれない。


 それくらい、俺の初めてはあいつと共にあったし、俺にとってはかけがえのない存在だった。


 だから、横断歩道を渡るあいつに向かってトラックが突っ込んでくるのが見えた時、考えるよりも先に体が動いた。だってそれくらい大切だったから――自分自身よりも。


 それでも、目が覚めてすぐ、泣いているあいつの顔が目の前にあった時はひどく驚いた。


『なに泣いてんだよ』と、そう言って俺はあいつの涙を拭おうとしたけれど、その手は無情にもあいつの頬をすり抜けた。


「……え?」


 俺は茫然となって再びあいつに触れようとしたけれど、それは悲しいくらい何の感触もなく、ただただ俺の腕は泣いているあいつの体をすり抜けていくだけだった。


 誰も拭うことのない涙はあいつの頬を伝って、ぽたぽたと床へ落ちていく。あいつは病院のベッドで横たわっている俺の亡骸の横で座っているのか、それとも力が抜けているだけなのかもよくわからないくらい、弱り切って泣き崩れていた。


 それを見て俺はすべてを悟った。――自分はもうすでにこの世の存在ではないのだということを。


 それからもあいつは泣き止むどころか涙はどんどん増すばかりで、俺は自分のことなんかよりもそんなあいつが心配で心配で仕方がなかった。


 ただ悔しかった。あいつをこんな風に泣かせておきながら何もできない自分自身が。




 ああ、神様。お願いだからこいつの――奈央の涙を拭ってやってくれないか?




 俺はそんなことを想いながら、それでも泣いているあいつの傍を離れることはなかった。きっと、俺はこれから奈央にとってどんどん過去の存在になっていく。これから出会う数多くの人の中の一人にすぎない小さな存在になってしまう。


 でも、それでもかまわない。こんな風に泣いているあいつの涙を拭ってあげられるのなら、――たとえそれが俺以外の人間であっても。


 この時の俺は間違いなくそう思っていた。――そう思っていた、はずだった。



◇◇◇◇◇


「佐久間―!!」


 僕は変わり果てた姿で暴れる続ける佐久間に向かって必死に叫び続けた。もう声など届かないということは分かっている。それでも、わずかな可能性を手繰り寄せるように彼の名を呼び続けた。


「ヴぉおおおおおおおおおおおおおおお!」


 しかし、そんな僕の声など届かないと言わんばかりに佐久間は止まることなく暴れまわっていた。


 ――ガシャン! ドドドドドドドドドド!


 佐久間が巨大化した腕のような部分を僕に向かって叩きつけるように降り下ろした。


「――やべっ!?」


 間一髪というところで僕は横に飛びのいてかわす。先ほどまで僕が立っていたところには大きな穴が開いており、今の状態の僕がこれを一発でも食らってしまえば、命はないだろうということは容易に想像ができた。


「佐久間! 君は、このままでいいのか? こんな終わり方で君は本当に後悔しないのか?」


 僕はまるで祈るような思いで佐久間に向かって叫んだ。


「ヴぉおおお」


 しかし、佐久間には何も響いていないようで、佐久間はじりじりと僕との距離を詰めてくる。日が沈むまではもうほんの少しだった。


 と、そのとき


「……佐久間、君?」


 暴れ続ける佐久間から離れた場所にいた姫柊さんが小さくつぶやいた。


 ぽつり、とそれは本当に小さな声だった。けれど、十年の月日が経ち、彼女にとってはとうにただ過去の存在となってしまった佐久間がその声を聞き逃すはずがなかった。


 死んでもなお憑りついてしまうくらい好きだった人が自分の名前を呼んでくれるのだ。そんなの、反応してしまうに決まっているじゃないか。


「佐久間君? 佐久間君なの?」


 姫柊さんはゆっくりと立ち上がり、もう変わり果てた姿となった佐久間の方へゆっくりと歩いていく。


 ――グラッ!


 そのとき、姫柊さんたちの上に吊るされていたシャンデリアが衝撃に耐えられず、落下した。


「――!? 危ない!?」


 僕は咄嗟に声を上げたけれど、僕の場所からは離れすぎていた。


 ――間に合わない!?


 見ると、落下してくるシャンデリアに気が付いた倉敷さんが咄嗟に姫柊さんに向かって覆いかぶさっていた。


 その場にいる僕たちが諦めた中、


 ――ガシャーン!


 大きな音を立ててシャンデリアが割れる音がした。


 しかし、シャンデリアが落下して割れたわけではない。それは『横からの衝撃で』遠くの壁に衝突していた。


「……佐久間君」


 佐久間だった。


 普通どんな状態であっても悪霊化した幽霊が正気を取り戻すことはない。だから、きっとこれは奇跡なんて綺麗で生易しいものなんかじゃない。


 死んでなお十年間もただ一人の女性を好きであり続けた、初恋の女性をいつまでも忘れられないようなそんな弱くて、重くて、でもどこか羨ましく感じてしまうくらい一途に愛し続けた男の泥臭い執念だった。


「佐久間君……なの?」


 姫柊さんは彼女を庇うようにして伸ばされた佐久間の腕に向かって手を伸ばす。


 しかし、


 ――スッ


 その伸ばした手は空しく空を切った。すり抜けたわけではない。佐久間が、触れることを拒んだのだ。


「佐久間……」


 僕は何も言えず佇んでいたけれど、気が付くと夕日は沈み、窓の外は黄昏色に染まっていた。幽霊があの世へ送り返されるにはもってこいの時間だ。


「おい、吸血鬼! 早くしてくれ」


 佐久間は僕の方へ振り返り、そう促した。


「……いいのか?」


「ああ、構わねぇよ。それに、これ以上奈央に迷惑をかけるわけにはいかねぇからな」


「……そうか」


 僕はそう言うと、右手を佐久間の方へ向かって突き出した。


「佐久間君! 佐久間君!」


 見ると、倉敷さんに止められながらも必死で佐久間の名前を呼ぶ姫柊さんの姿があった。


「ああ、よかった。お前の好きになった男が、ちゃんとお前を大切にしてくれる男で――本当に良かった」


 佐久間はつぶやいた。きっとそれは誰に向かって言った言葉でもない。本当にただ消える間際に独り言をつぶやいたくらいのもので、でもその言葉はどこか悲しみを帯びてこの空間に静かにこだました。


「奈央、幸せになれよ。きっとお前の未来は明るい。だって、お前はこんなにも多くの人に愛されているんだから。ずっと見てきた俺にはわかる。みんなから愛されるお前にはきっと幸せな人生が待っている。だから、さようなら。そして――ありがとう」


 言葉を終えた瞬間、佐久間と目が合った。僕はゆっくりと頷くと、そのまま彼に向けた右手に力を込めた。


 佐久間はゆっくりと消滅して、そして――完全に消え去った。


 黄昏時、涙をこぼす彼女の頬には涙が伝っていたけれど、しかしその涙は愛する人の手で拭い去られていた。


 それを見て僕はホッとしたと同時にどこか悲しい気持ちが押し寄せてきた。あの一途な幽霊は、きっと最後の瞬間に救われたのだろうか。僕にはそう信じることしかできなかった。

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