第1話 死を呼ぶ少女1

001


 夜は嫌いだ。


 しかし断っておくと、だからといって僕は朝が好きというわけではなく、朝も夜も等しく嫌いで、強いて言うなら夕方の黄昏時が一番心地良い。


 致命的に血圧が低く、どうひいき目に見ても早起きとは縁のない人生を送ってきた僕からすれば朝を嫌う理由など親の仇以上に容易に見つかるわけだけれど、しかしそんな憎むべき朝以上に夜の時間は今の僕にとっては憂鬱な存在だ。


 むしろ、この低血圧な体質など今となっては可愛いもので、なぜなら体質とはいってもそれはまだ人間の体を成している。文字通り『体質』だけに『体』を成している。


 夜になると僕は『体』すら作りかえられてしまう。


 きっと夜になれば低血圧にも悩まなくなるし、きっと今の僕が抱えている悩みなど一瞬のうちに解決してしまえるだろう。なぜなら……夜になると――僕は人間ではなくなってしまうのだから。


 僕は夜になると――


「グォオオオオー!!」


 はっと我に返ると、目の前には今では見るも無残なくらいボロボロの姿になった男が雄たけびを上げながら僕を睨みつけていた。


「あ、いけない。またぼーっとしていた」


 そんな言葉とは裏腹に、僕は少しも慌てた様子もなく、その男の方に向き直る。――もっとも『男』とは言っても、その姿は人間のそれではない。


 筋骨隆々な体は大きく膨れ上がり、大きさは人間のそれをはるかに凌駕している。何より、その男には大きな牙が生えており、大きな体からは獣のような毛皮が生えている。――いわゆる狼男だった。


 狼男は辛うじて人の姿は保っているものの、もうすでにそこに理性はなく、人語も解せなくなっているようだった。おそらく、戦闘力と引き換えに理性を失ってしまったくちだろう。


「はぁ、今夜はよりによってこんないかれたやつが相手なのか……」


 僕が今立っているのはどこにでもある、おそらく真っ当な人であればこんな夜中には誰も訪れないような普通の公園で、こんな時間にいい歳をした大学生が人外の生物とバトル漫画よろしく戦闘シーンを繰り広げているなど、不審者ここに極まれりといった感じなのだけれど、とはいえこの戦闘をバトル漫画に例えるならば、こんなにつまらない場面はないだろう。


「……はぁ」


 僕は少しため息を吐くと、やれやれといった感じで、二、三歩ほど前に出る。そして、今度はしっかりと相手である狼男の方を見据えた。


 格闘家のように構えをとるわけでも、すばしっこく走り回るわけでもない。――僕はただそこに突っ立っているだけだった。


 しかし、ただそれだけのことで、狼男は大きな体を少し震わせながら、


「グゥゥゥゥゥゥ」


 と、どこか震えたような声で僕の方を睨んでいた。


 ――ガサッ!!


「グゥゥゥ」


 僕が一歩近づくと狼男は一歩下がり、また僕が一歩近づくと同じように狼男は一歩下がった。まるで、これ以上僕に近づかれると、その時点ですべてが終わってしまうといわんばかりに。


「まあどう足掻いたところで、もう勝負は着いたんだけどさ」


 そう言って僕は不敵に笑うと、狼男めがけて一直線に突撃する。そのまま――


 ――ドンッ!!


 コンマ数秒にも満たない、瞬きすらもできないような一瞬の後、僕は右手を大きく振りかぶって、狼男の顔面を思いっきり殴った。


「――!?」


 顔面を殴打された狼男はそのまま吹っ飛ばされ、後ろの壁に衝突する。その表情からは驚愕の色が写っていて、言葉が話せない狼男の『嘘だろ!?』と驚く声が聞こえてくるようだった。


 もちろん狼男はきちんと距離を保っていた。それはもう十分に。ただし、――それは僕以外が相手なら、という話だ。


 本当に……こんなに面白くないバトル漫画などあったらそれこそ打ち切り待ったなしだ。


 我ながら言うのもなんだけれど、正直、それくらい僕とこの狼男との間には力の差がありすぎた。それこそ、まともな戦闘にもならないくらいに。


 この狼男自体もきっとそれほど戦闘力の低い存在ではないのだろう。しかし、それでも僕を相手取るには少しばかり力不足だった。


 僕、すなわち――『吸血鬼』を相手取るには、狼男では役不足だった。


 僕ら吸血鬼は何でもできる。空を飛ぶこと、霧になること、音速で移動すること、相手を魅了すること――なんでも思いのままだ。ゆえに、絶対に吸血鬼が戦闘において他の種族に後れを取ることなどありえない。


 もちろんその気になれば、それこそ異能バトル顔負けの派手な倒し方を演出することも可能なわけだけれど、しかし僕は相手を仕留めるときにはできるだけ『迅速かつ簡潔に』ということをモットーとしている。


 まあこんな風に言うと、まるで僕がとんでもないサイコパスであるかのように思われるかもしれないし、残念ながらそれはあながち間違っていないのだけれど、それでも正直に白状するならば、本当の理由はそんなかっこいいものではない。


 ――ただ単純に、そうでもしないと、きっと僕はこんな風に何かの命を奪っているという罪悪感から目をそらすことができないのだ。


「グォォォ」


 ふと気が付くと、僕に吹っ飛ばされた狼男はそのまま弱々しいしい声を上げながら――小さな爆風とともに、あっけなく消滅した。


 我ながら本当に情けない限りなのだけれど、何者かの命を奪う罪悪感にだけは、どれだけ繰り返しても慣れることはなかった。たとえ命を奪う相手がどんな化け物であってもそれは変わらない。それに……


「もし仮にこの罪悪感すらも感じなくなってしまえば……きっと僕は本当の化け物になってしまう」


 僕はたった今消滅した狼男のことを頭から拭い去るようにぽつりとつぶやく。


『きゃあ!?』


 と、そんなことを考えていると、少し離れたところから声が聞こえた。

 振り返ると、女性がしりもちをついており、どうやら先ほどの爆風で転んでしまったらしい。


 僕は少し早足でその女性に近づくと、


「大丈夫ですか?」


 と、転がっているその女性に向かって手を伸ばした。


「……すいません」


 女性はうつむいたまま僕の差し出した手を握る。




 次の瞬間、――僕の体は消滅した。




「…………………………………………………………………………え?」


 それは先ほどの派手な爆発とは異なり、まるで命が自然に帰っていくような、そんな静かな消え方だった。


 あっけにとられた僕は、そのままゆっくりと意識を手放した。

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