雨と血

六畳一間

死にたがりとおしゃべりバンパイア

 もう終わりだ。死にたい。死ぬしかない。でもここで死ぬと学校の先生に迷惑をかけるだろうな。ここは人も来ないし何日ぐらい見つからないんだろう。最近暑いし腐乱死体になるだろうなぁ。心臓が止まって血液は循環を止め、細胞が死に、肌はどんどん黄色くなる。おそらく肉体の柔らかい部分、目や口から腐乱は始まり…ああ、ダメだとりあえず腕でも切ろう。


 昼休み。曇天の空の下。学校の屋上。


 不登校にもなりきれず、かといって死ぬ勇気もない。心のキズは自分でもよく分からないから身体のキズに変換することだけが今の私にとって安心する行為だった。


 スカートのポケットに入れていたカッターを取り出す。デッサン用の鉛筆を削るのに使っているやつ。少し長めに刃を出して準備オーケー。


 コンクリートと水平になっていた身体を起こしてフェンスにもたれ、ワイシャツの袖をまくる。


 左腕の内側。柔らかい部分に刃を押し当てる。ジワっと痛みが広がる。丸く浮かんできた血液がツゥと重力に沿って垂れていく。

 心地良い。この時だけは世の中の色々なものから許されている気がする。

 刃を深く押し込んでゆっくりと引いていく。


「ねぇ、いらないなら貴女の血ちょうだい?」


「ひぃっ!」


 驚いて立ち上がってしまった。

 声のする方を見ると屋上にある貯水槽の横に腹ばいになってこちらを見ている女の子がいた。


「あ、もったいなーい」


 その子は立ち上がるとそのままこちらの方へ降りてきた。セミロングの黒髪とスカートがふわりと舞う。


 ──黒だ。女子高生にしては大人っぽい。


 私が驚いた拍子に落としたカッターを拾い、刃についていた血液を躊躇いもなく舌で舐めとった。


「んー…これは…鉛筆?」


 まるでソムリエのように、口の中でコロコロと血液を吟味しているようだった。


「な、なんで?」


 間抜けな声だと思った。人と話すことも久しく、声を発するのも久しいので自分の声も声の出し方も忘れてしまっていた。


「あっ、ちょっと、動かないで」


 私が思い切って人に発した何ヶ月ぶりかの声はあっけなくあしらわれた。

 左手首を掴まれ、その子は私の傷口に口をつけた。

 髪の毛が腕に触れてこそばゆい。その子は一度口を離し、髪の毛を耳にかけるとまた私の左腕に口をつけた。


「ひぃぃ」


 どこまでも間抜けな声しか出ない私には興味も示さず、疑問への回答もなくその子はペロリと傷口を舐めた。


 今までの人生で初めて感じた感覚にくすぐったさとイケないコトをしている背徳感のような感情に戸惑ったが声も出せず、あぁ、乱暴されるとこんな風に声が出なくなるのかなぁなんて悠長な事を考えていた。


「血が止まったよ。ご馳走様」


 その子は眼鏡を直し、私の傷口と自分の口元をハンカチで拭くとこちらを向く。


「ひぃっ…お粗末様でした?」


「四組の鹿目ちゃんだよね?」


「ひぃっ…!あ、そ、そうです…」


「ひぃって口癖?」


「あぁっ!えっと、アノ、いえ」


 あ、この子見たことある。確か隣のクラスでちょっと浮いてる…


「そっかー私は三組の浦戸だよ。合同体育で鹿目ちゃんのこと知ってるよ」


 浦戸。地名っぽい名前。いや違う。今気になってるのは地名じゃなくて血だよ。


「あっ…あの…血…あの、なんで血…?」


「あー血ね。すっごい美味しいかったよ鹿目ちゃんの血。鹿目ちゃんいい匂いするからそうだろうなーって思ってたけどビンゴ」


 どうしてこう、ツラツラと言葉を紡げる人は会話が突拍子も無い方向へ飛ぶのだろう。聞きたいことは『何故私の血をくれなんて言ったか』だ。

 だが私は言葉を上手に紡げる人ではない。聞きたいことを上手く聞きだす術がないからいつものように後悔と罪悪感のような気持ちでいっぱいになる。


「あ、そうか。えっとねー私吸血鬼なの。でも鬼じゃないからバンパイアかなー?」


 吸血鬼?バンパイア?思いもよらぬファンタジーな答えに戸惑いを覚える。それよりもなんとも察しのいい人だ。


「んふふ」


 何かを肯定するかのような笑みを浮かべ、フェンスを背にしてコンクリートに座る。


「鹿目ちゃんちょっと話そうか。どうせ午後の授業出ないでしょ?」


 長い話だった。バンパイアのルーツに始まり、現代にもこっそりとその遺伝子を受け継いだ子孫がいること。バンパイアは完全に遺伝で血を吸われた人間がバンパイアになることはないこと。バンパイアであることは暗黙の了解で秘密にしておかなければいけないこと。もちろん秘密にしておくために人間は殺さず、必要最低限の食事で済ませること。そしてバンパイアは日光も十字架もニンニクも大して弱点ではないこと。バンパイアには日サロが好きな人だっているらしい。


「私はね、パパがバンパイアなんだ〜」


「…ハーフってこと?」


「そうそう。だけど思わぬ遺伝子組み替え?により純粋なバンパイアよりもお腹空きやすいみたいでさ〜」


「…血がいっぱい必要なの?」


「そうなの。もちろん普通のご飯も美味しいよ。でも、なんだろう、鹿目ちゃんも分かるかな?満腹なのにお腹空いてる。みたいな感覚。あれあれ、甘いものはベツバラ」


「あ…わかる」


 おしゃべりな浦戸のおかげか、いつの間にか普通に話せるようになっていた。初めて会話するというのに会話に違和感はなく、隣に居る心地良さまで感じるようになっていた。


「そう!その感覚!まさにさっきそれだったんだよ〜」


「そうなんだ」


「いつもはママから血を貰ってるんだけど、先週から出張行っててね。いつもは二週間ぐらいなら大丈夫なんだけどね」


「意外と平気なんだね」


「うん。でも今日はお昼食べてもお腹いっぱいにならないからヤバイなーって思って人気のなさそうな所でサボってたんだよ」


「教室は誘惑がいっぱいってこと?」


「そりゃすごいよ。若い女の子の匂いがもうそそるそそる…」


 浦戸が口元を拭う仕草をする。先ほどから気になってはいたが浦戸はボディランゲージが多い。口調は淡々としていて表情もそこまで豊かではないが手が賑やかだ。


「…ふふ、おじさんみたい」


「んふふ、若い女の子が好物って時点でほぼ同種だね。それで、ナイスタイミングで鹿目ちゃんが血を流してたからお粗相しちゃった。いきなりごめんね」


「…ううん。別に」


 私の血なんていくらでも。美味しくなさそうだけど。


「…んふ。ありがとう」


 …さっきから私の心読んでる?と試しに心で思ってみる。


「あら、早くもバレた。バンパイアはね、人間とはコミュニケーションの取り方が違うんだ〜。人の心が読めるんだけどその分孤立もしやすい、と」



「そうなんだ…」


 浦戸はコンクリートに仰向けになる。そういえば体育の時の浦戸もいつも一人だった。話しかけられたら愛想よく答えているが特定の人物と一緒にいる姿は見たことがない。


 曇天が浦戸の心模様のようにゴロゴロと雷の音を引き寄せる。雨が降りそうだ。

 浦戸がよく喋る理由が分かった気がした。



「他にもいろんな能力があるよ。例えば唾液には治癒能力。さっきのところもう治ってるはずだよ」


「…ほんとだ。すごい」


 痛みを感じなかったため忘れていたが左腕の傷口はすっかり皮膚もつながり、小さな引っ掻き傷のようなものが残っているだけだった。


 ふと、沈黙が生まれる。浦戸にとっては沈黙なのか、一方的に思考を届けてしまっているかは分からないが、気まずさはあまりなかった。


「ね、今からウチに遊びに来ない?」


「え?」


「パパもママも一緒に出張に行っちゃって先週から私一人なの。そろそろ一人でご飯食べるのもさみしいなーって思ってね」


 ふと、私のここ最近の夕食風景が頭を過る。テレビの灯りとコンビニ弁当。


「私こう見えて料理上手なんだ〜美味しい夕飯ご馳走するよ」


「うん。いく」


 即答した後にふと、頭を過ったのは私自身が食卓にメインディッシュとして飾られている姿だった。


「んー…カニバリズムはまたちょっと違うよ…」


「ふふっ…」


 真面目な顔をしてツッコんでくる浦戸に思わず笑ってしまう。

 伝わり方はどうであれ、気持ちが伝わることがこんなにも気持ちが良いものだとは思いもよらなかった。




「あー…ビショビショ…」


 夏の雨は唐突だった。


 五時間目の休み時間にこっそりと、とはいっても私はもともと影が薄いので誰にも気づかれることも無く、鞄を取りに教室へ戻りそのまま昇降口へ行くとすでに浦戸はそこで待っていた。


 どちらからともなく歩き出す。家は歩いて三十分ぐらいの場所にあるという。学校を挟んで、私の家と正反対のところにあるようだ。


「早引きして遊ぼうなんてヤンチャだよねぇ」


 普段は目立つことしてないもんね。


「それはまぁ、色々とね…というか、なるべく口で話してよ鹿目ちゃん。私が1人で話してるみたいでちょっとさみしいな〜」


「う…わかった」


 いままで、頭の中で思いつくことをそのまま伝えることなんてしてこなかったから大丈夫だろうか。思ってることと言ってることが違ったらどう思うのだろう。


「そんな人いっぱいいるよ。大丈夫。慣れてるから」


 それは慣れていいのだろうか。なんというか、それは悲しい。


「…それは、悲しいね」


「うん。でも人間ってそういう生き物だよ。んでバンパイアもそういう生き物」


 種別の問題で済ませていいのだろうか、例えば人間から見たらベンガルトラやアムールトラが同じに見えるように同じ形をした生き物なのに。


「…外観は同じなのに?」


「…んふふ。鹿目ちゃんって優しいんだね」


「あ…雨だ」


「げ!洗濯物!!鹿目ちゃんごめん走るよ!」


 可愛げのない声をあげたバンパイアは走り出した。パラパラと降り出した雨は徐々に雨足を強め、二百メートルも走った辺りでスコールのようになっていた。


「あー…ビショビショ…」


 マンションのエントランスにつき、エレベーターを待ってる間に浦戸は取り出したハンカチで眼鏡を拭いていた。髪の毛や服はそれ以上に濡れ鼠なのにそこだけ拭いている浦戸を見て少しおかしくなった。


「鹿目ちゃんごめんね…家に着いたら制服乾かすから」


 今日は金曜日だし。土日で制服を乾かせば大丈夫そうだな。


「大丈夫だよ」


「いやはや、こんなに降るとはね〜エレベーター来たよ」


 部屋に着くやいなや浦戸は靴下を素早く脱ぎ、おそらくベランダに向かって廊下を走り出した、と思ったら思い出したように急ブレーキをかけて直角に曲がり、廊下の途中にある部屋に突入するとこちらに向かってバスタオルを投げ渡した。


「拭いて待ってて!」


 浦戸と知り合って数時間だが、普段落ち着いた言動の浦戸が洗濯物ひとつでここまで必死に走るのがなんだか可愛らしく思えて口元が緩む。

 誰に見られるわけでもないが笑っているのが照れ臭くて口元を隠すようにバスタオルをあてた。人の家の柔軟剤の香りがする。安心する匂いだ。タオルに顔ごと埋めしばらくそうしていた。


 髪の毛を拭いて、スクールバッグの水気を取った。中身はそんなに濡れていない。靴下を脱ぎ、足を拭いて片足ずつ浦戸家にお邪魔する。

 ワイシャツとスカートの水気を取っていると、浦戸が戻って来た。


「ごめんごめん、とりあえずこれ着替え。下着も気持ち悪いでしょ?新品あったから使って。ちょっとお風呂入れるから居間で着替えてもらっていい?」


 居間に案内され、シャツとハーフパンツに着替える。濡れた制服をどうするか手持ち無沙汰になりウロウロする。

 北欧風に揃えられた室内は簡素に整えられていて、嫌味のないセンスが伺えた。


 チェストの上に写真立てがあった。幸せそうに微笑む三人。おそらく後ろに立つ男女が父親と母親なんだろう。そしてその中央に映っているのは男性と同じ銀に近い金髪の浦戸だった。綺麗な顔立ちをしているとは思っていたが父親が外国人だったのか。


 綺麗な金髪なのに…。

 出る杭は打たれる日本社会で浮かないように黒髪に染めているのだろうな。バンパイアの体質を持っている浦戸にとってこの国は生きづらくないのだろうか。


「お風呂ちょっと待ってね。制服貸して。スカート以外は洗濯して干しておくから」


 いつのまにかシャツとハーフパンツになった浦戸がせかせかと何から何まで世話を焼いてくれる。


「あ、ありがとう。」


「ソファでテレビでも見ててよ」


 浦戸が居間から出ていくと私はソファに腰掛けた。

 この時間なにかやってるかな…?

 壁に掛けられたテレビをつけると地域の情報番組がやっていた。

 特に面白くもないが他人の家で持て余してウロウロするよりはマシだった。


 ちょっと疲れたな。目を閉じる。今日はいろんなことが急に起きた。辛くなって自傷してたらバンパイアだと名乗る女の子に血を吸われ、お話して、雨に降られ、家に来た。これから何が起きるのだろう。考えがどんどんスローになっていく。まずい、このままだと寝る。でもいいか、少しだけ…浦戸が帰ってくるまで。

 …私は何が辛かったんだっけ?


「そんなところで寝てると襲っちゃうよ鹿目ちゃーん」


 はっと目を開ける。どれくらい寝てただろう。ソファの後ろから浦戸が抱きついていた。首元に顔を埋めて私の匂いを嗅いでいる。こそばゆい。


「んふふ。お風呂沸いたよ。先に入ってきて」


 ふと、何かで読んだ漫画やら小説のシチュエーションを思い出した。雨に振られてどちらかの家に行くと必ずと言っていいほど一緒にお風呂に入る。まさしく今そのシチュエーションじゃないのかと思うと急に恥ずかしさと戸惑いが湧いてきた。


「…一緒に入りたいの?」


「い、いやっ!えっと!その…!」


 こういう時は心が読まれるのは厄介だな。

 別に一緒に入りたくないわけではないが裸体を見られるのは恥ずかしい。


「私だって恥じらいくらいあるよ。まぁいっか、一緒に入ろうよ。お腹空いたしさっさと入ってさっさとご飯作ろ」


 なにがまあいいのか分からないが確かにお腹は空いている。女同士だし、今までも修学旅行や研修旅行などで何度か人とお風呂に入った事はあるし気にするほどではない。家族旅行や地域の子供会の旅行でも人と一緒に温泉に入れたし、大丈夫。恥ずかしくない。恥ずかしいのは浦戸も同じだ。そもそも人間とはもともと服なんか着ていなかったわけで、いつの間にか体毛の代わりに服という文化が生まれたわけで、もともとは防寒用なのだ。そうだ、アメリカかどこかには全裸で生活するコミュニティやらビーチやらあるみたいだし、この広い世界の中、地球が生まれた時間の中では私はちっぽけな存在であり、そして一瞬である。大丈夫恥ずかしくない。


「長い。思考が長いよ鹿目ちゃん。ほら、行くよ」


 無言のまま棒立ちしていた私は浦戸に手を引かれ、居間から風呂場へ移動する。浦戸は服を脱ぐのに三十秒もかからず、さっさと浴場へ向かった。


「こういうのは照れたら負けなのだよ鹿目クン」


 戸を開けてこちらを向くとドヤ顏でそういい放った。全裸でドヤ顏はちょっと面白いぞ浦戸クン。


「失礼な!」


 私も恥じらいごと服を脱ぎ捨て浦戸へ続いて浴場へ向かった。


 紳士淑女の諸君、大変なことに気づいてしまった。ああ、この思考もきっと浦戸にはバレバレなのだろうけど、思考を止めることは出来ない。高校生というのは二次性徴をほぼ終え、大体の女子は色々と生え揃う時期だ。いいか、私は初めて見てしまった。金髪の…


「鹿目ちゃん。むっつりだねキミ。」


「いや…もはや浦戸にはオープンにならざるを得ないよ…」


「まぁ確かにそうだけど…身体をまじまじと見られるのは流石の私も照れるなぁ。ほら、洗い終わったから交代」


 もう少し湯船に浸かり浦戸の裸体を観察していたかったが、これ以上はただのスケベオヤジにならざるを得ないので素直に交代に応じた。


「ほー鹿目ちゃんは真っ黒だねぇ〜」


「なっ…!見るな!」


「んふふ。仕返しだよ〜。日本人ってほとんどの人が黒髪なんだっけ?」


「んーどうかな。地毛は黒髪が多いだろうけど、私の姉はテニスしてて紫外線で赤い茶髪になってたなぁ。あ、でも下は黒かった。」


「なるほど…後天的な茶髪はいるのだね〜しかし姉の下の色を知っているとは仲良しなんだねぇ」


「…そうでもないよ、姉が裸族なだけ」


 思い出してしまう。大嫌いなあの人の事を。家は両親共に再婚で連れ子を一人ずつ連れていた。両親はどちらも仕事が好きで、姉はなんでも出来る人だった。私に優しくて、明るくて、家事も勉強も部活もなんでも一人でこなして、そして春に少し遠くの大学に行った。大好きな姉ともっと一緒に居たかったけど私のわがままだって分かっていたからあの人を嫌いになることにした。


「あっちょっとちょっと!さすがに家族のヌードはNGだって!想像しちゃダメ!」


「ははっ…流石に思い出せないよ。」


 浦戸は優しいな。嫌なことを思い出してしまった。きっと浦戸にも伝わってしまっただろう。申し訳ないことをした。


 身体を洗い終わると浦戸に少々強引に湯船に招かれた。一般家庭の湯船は二人で入るには少々狭い。これは考えていなかった。雑念を払う。般若心境ってどんな始まりだったか。


「ね、鹿目ちゃん。私の目綺麗じゃない?」


 急に浦戸が前かがみになり、顔を近づけてくる。

 人と目を合わせることは苦手なのだが、おそるおそる覗き込んでみる。

 水色のような、グレーのような、その色の名前は分からなかったがとても綺麗で人の目を見ることが苦手な自分がこんなにも人と目を合わせ続けることが出来たのは初めてかもしれない。


「きれい、すっごく」


「でしょ。普段はカラコンしてるんだけどね」


「眼鏡もしてるのに?」


「度付きのカラコンもあるけど、私あまり素顔を人に見られたくないんだ。ガイコクジン!ってからかわれるの嫌なの」


 浦戸は少し悲しい笑顔で笑うと急に私の首に腕を回してきた。


「どっ…どうした」


「鹿目ちゃん…ごめんもう我慢できない」


 のぼせたのか、頬が紅潮して虚ろな目でこちらを見つめてくる。身体が密着して柔らかく豊かな山々が私の貧弱な平原と重なる。これからどうなるのだ私は。


「痛かったらごめん」


 浦戸は左手で私の髪を梳き、首筋に顔を埋める。首筋に垂れてきた汗を舌で掬い取られる。私といえば抵抗できずに、ただ身体を硬直させているだけだった。


「んっ」


 恥ずかしい。変な声が出てしまった。心臓が痛いぐらいバクバクと波打ち、肋骨を叩きつける。


「鹿目ちゃん…いい匂い」


 浦戸はその一言が合図のようにがぶりと首筋に噛み付いた。


「わっ」


 血が吸われている感覚がある。そのおかげか、心臓が徐々に落ち着いてくる。よかった。いや、よくないが。でもまぁ、死を望んでいた私はこれでいい。心臓が落ち着くと身体の硬直も解けて、手持ち無沙汰な左手で浦戸の頭を撫でてみる。


 このまま死ねたら幸せだろうな。


「うわっ!ごめん鹿目ちゃん!」


 浦戸は突然正気に戻ったようで、勢いよく顔を離した。


「びっくりしたけど、大丈夫」


「本当にごめん。私、調子に乗った」


「大丈夫だって。お腹減ってたんでしょ。生理的なものなら仕方ない」


「でも、こういうことはしないつもりだったの。鹿目ちゃんとは普通に友達になりたかったから」


「普通ってなんだろう」


 ふと、クラスの普通の女子を思い浮かべる。テレビやらスマホやら、芸能人やアイドル、流行を追い続ける、化粧、爪の手入れ、お揃いのものや『可愛い』というキーワード。普通は私にはあんまり魅力的には見えなかった。


「…そうだね。そういう普通はなんか違うかも」


「私は痛みには疎いし…苦しい時に自分を傷つけるぐらいには自分の身体を大切にできないから、そんな時に浦戸さんに吸われた方が精神衛生上楽になれる気がする。そういうのでも友達っていえないのかな」


 本心だった。出血多量で死んでしまえたら幸せだけど、そうなると浦戸が捕まってしまうしバンパイアの暗黙の了解に逆らってしまうからそれは嫌だな。


「鹿目ちゃん…もー本当に優しすぎだよ」


 浦戸が再び抱きついてくる。再び柔らかな豊かな山々が…


「鹿目ちゃん…何度も言うけどむっつりだねキミ」


「オープンだよ。あ、でも血を吸うならこういう場所では恥ずかしいかな。服を着てる時がいい…」


「あ、ちょっとじっとしてて。大丈夫噛まないから」


 浦戸はたまに話を聞いていない。ひとつ浦戸について詳しくなった。

 浦戸は再び左手で私の髪の毛を避けると、首元に顔を近づけた。右手で頭を支えられ、今しがた噛まれていた場所を舐められる。


「んっ…ふ…」


「くすぐったい?ちょっとだけ我慢して。傷口ふさぐから」


 くすぐったいというより、その…官能的なアレが…


「あ!ごめん!!!」


 浦戸は再び急に身体を離すと先ほどよりも紅潮してそれは考えていなかったというような表情をした。


「ごめん…首弱いかも…」


「いやいやいや!あの、ごめんね!そうか!えっとあはは…」


「ね、傷口塞がった?」


「あ、少ししか塞がってないや」


「お願いしていい?流石にここは傷口隠せないし、我慢するから」


「い、いいの?」


 紅潮したまま、戸惑いつつも嬉しそうな恥ずかしそうな複雑な表情に変わる。先ほどから浦戸のいろいろな表情が見れて楽しい。


「からかってる?鹿目ちゃん」


「違うよ。嬉しいの」


「そっか。じゃあもうちょっとだけ我慢してね」



 お風呂から上がると鏡で首元を見てみる。何もなかったかのように首元は綺麗だった。


「まだ痛い?」


 着替え終わって頭を拭いていた浦戸が心配そうな顔でこちらを見ていた。


「ううん。何もなかったみたい」


「よかった。本当にごめんね。もうしないから」


「別に。さっきも言ったけど私の血ぐらいいくらでもあげるよ」


「うん…あのね。その言葉、もし私以外のバンパイアがいてもその人に言っちゃダメだよ」


「どうして?」


「…バンパイアにとっては『結婚してください』なの、それ」


 浦戸はバツが悪そうな、照れているような表情でそういった。

 と言うことはつまりだ、私はさっきから浦戸に求婚していたということになるのか。


「そういうことだから!他の人に容易に言っちゃダメだよ!」


 なるほどこれは恥ずかしい。

 ん…?他の人にということは、浦戸にはいいのか?


「ちがっ…いや、違わないけど、でもそうじゃなくて…うーん…」


「うーん…お腹減った」


 考えるのはやめよう。そのうち答えは見つかりそうだし。


「そうだね。よし!腕によりをかけて美味しいの作っちゃうよ!」


 今日出会ったばかりの私と浦戸の関係はこれから構築されていくだろう。

 初めて出来た普通ではないけれど、普通の友達。今日は少しだけ、少しだけ生きることが楽しいと思えた。


 浦戸の食料としてならもうしばらく生きてみるのもいいかもしれない。

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雨と血 六畳一間 @rokujyo_hitoma

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