デイ・イン・ザ・スモーク~屋上で少女に出会うとき私の語ること~

飯塚摩耶

屋上にて

 妙なことになったな、と私は思った。


 休憩時間だ。

 会社の入っているビルの、ところどころ電球が切れたり、点滅したりしている狭い階段を、えっちらおっちらと上る。そうして、屋上へ続くドアを開けた。


 若い女の子が、いた。

 10代後半……といったところだろう。少なくとも、この建物に入っている、どの会社の縁者でもあるまい。

 一階の給湯室の窓の鍵が、バカになっていたろうか──。


 それは、いい。

 問題は彼女が柵の、あちら側に立っていることだ。もしも一歩、踏み出したなら、地上へ真っ逆さま……。


 ここ何階建てだっけ、と私は考えた。


 そう、8階だ。上ってきた段差を思い、エレベーターが欲しいな、と、ため息が零れた。


「……!」


 と、私に気づいたのだろう。

 少女が身を強張らせた。

 反射的に掴んだフェンスが、ガシャっと大きな音を立てる。


「と、止めないで!」


「おっけー」

 と、私は返答した。


「と、止めないでって、言ってるでしょう!?」

「だから、言ったでしょ。おっけー」

「じゃあ、なんで、こっちに来るんです!? どっか行ってくださいよ、おばさん!」


 必死に手を払ってゼスチャーしながら、少女が喚く。

 そうか……30歳なんて若者にとっては、おばさんか。


「そこ、定位置なんだよ」

 私は構わず、柵に肘を載っけた。「となり、失礼」


 私がスーツの内ポケットから、煙草を取り出すさまを、少女は唖然として見ている。


「吸ってみる?」

「は?」

「飛ぼうってんだろ?」


 私は、たばこの筒を唇に挟み、火をつけた。

 フゥッと一吸いして、はた、と気づく。


「しまった、初心者向けじゃないな」


 私が吸っているのは、両切り──ショートピースだった。


「ごめんね。吸ったことないなら、一度くらいと思ったんだけど」

「要らないですよ、そんなの」


 少女は、煙草を咥える私を、憮然として睨んだ。


「やめてもらっていいですか」

「何を?」

「煙草。クサイです」

「うん」


 私は煙草を口から離し、肺から、紫煙を吐き出した。気道を、ざらついた感覚が遡っていくのが、いかにも煙草という感じがする。

 私は、また紙筒を、唇に挟んだ。


「やめないんですか!?」

「やめないよ」

「うん、って言ったじゃないですか!」

「クサイ、って感想に対しての、うん、だよ」


 私は、ぽんぽん、と少女の肩をたたいた。


「クサイよね、煙草って」


 少女は目を丸くして、私の顔を見ている。

 私は煙を、少女の顔に吹きかけてみた。


「げっぇっほ!?」

「あっはっは」

「ぇほっ! 悪質ですよ!?」

「ごめん、ごめん。からかいたくなる顔してたから」

「クサイ! 最悪! 意味わかんない! 消してくださいっ」

「どうして?」

「健康に悪いですっ! 受動喫煙反対!?」

「ははは、おかしなことを言うんだね」


 煙草の火が、口元へ向かってくる。ジジ、という燃焼音が、低く響く。


「君には関係ないじゃないか。もう死ぬんだから」

「────」


 少女が、ショックを受けて固まる。そうだった、と思い出したようにも、それを突き付けられたことに、傷ついたようにも見えた。


「ぷっ」


 短くなった煙草を、吐き出す。

 紙筒は、くるくると弧を描きながら、階下へと落下していった。


「……ポイ捨てだ」

「真面目だねぇ、君」

「火事になったら、どうするんですか」

「ならないよ。下はコンクリートだ。それに地面に着く前に、風で火が消えちゃうだろう」


 私は、柵から身を乗り出して、下を覗いた。

 吐き捨てた煙草は、見つからなかった。


「君は、煙草は嫌いか?」

「はい」

「じゃあ、これはゴミの集まりに見えるんだろうね」


 私がシガーケースを振って見せると、少女は怪訝そうな顔をした。頷きはしなかったが、目は、おおむねイエスと答えている。


「私にとっては、大事な煙草だ」

 と、私は言った。


「私は煙草が好きだし、それに、高いからね」

「それが、どうか?」

「落ちてったアレは、違うんだよ」


 私が顎でしゃくった階下に、少女は目を落とした。


「火が残っていたとしても、もう咥える気にならない。ゴミだ。何の価値もない」

 私にとってもね、と、私は言った。

「火が点いて、吸ってる間は、たしかに大事な煙草だったんだけど。同じものなのに、いつゴミに変わっちゃったのかな」

「…………」


 少女が、唇を嚙む。


「邪魔したね」


 柵から肘を離し、体を起こす。

 と、向こうから少女が手を伸ばして、私の袖を引いた。


「助けてもらっていいですか」

「うん?」

「そっち、戻るんで」

「ああ」


 いいとも、と頷いて、私は少女の手を取った。腋の下を支え、彼女がフェンスを乗り越えるのを、補助してやる。


「飛ぶのは、中止かい?」

「今日のところは」

「理由を聞いても?」

「服に煙草のニオイ、ついちゃったから」


 こちら側に着地した少女は、ほっと息をつき、洋服についた汚れを、叩き落とした。


「私の死体が調べられたとき、おばさんに迷惑、かかっちゃいますから」

「なるほど、たしかに、そうだ」


 思いつかなかったなぁ、と呟きながら、私は腕時計を確認する。

 まだ昼休みが終わるまで、すこし時間があった。


「質問いいですか」

「なんだい?」

「さっき煙草、おばさんも、クサイって言いましたよね」

「言ったね」

「本当に、そう思うんですか?」

「うん」

「私をからかうための、嘘じゃなくて?」

「嘘じゃなくて」


 少女は、まだ信じられなさそうに、私の顔を見上げている。

 私は、そばのベンチに腰掛け、隣にハンカチを敷き、少女に、そこへ座るよう促した。


「クサイと思うよ。家に帰って服を脱ぐときなんか、特にね。ああ、こんなにニオイついてたんだ、ってビックリする。そのたんび、気持ち悪くて、早く洗いたいー、って思うんだ。まぁジャケットとパンツを毎日、洗うわけにもいかないから、消臭剤を振るだけなんだけど」


 喋ってる間に、少女が遠慮がちに、腰を下ろした。


「ニオイは、嫌いってことですか?」

「そうだね。でも、もっとイヤなのは、翌日の口の中だな」

「口の?」

「煙草の、タールとかが粘膜に染み込んでるのかなぁ、苦いっていうか、渋いっていうか。夜に歯磨きしても、そうなるんだ。朝ごはん食べて、しばらくすると消えるんだけど、起きた直後は、もうサイアク」

「それなのに、なんで吸ってるんですか?」


 呆れたように訊ねた後で、少女は答えを待たずに結論を出した。


「ニコチン中毒なんですね。いったん吸い出すと、やめられないってやつ」

「いいや?」


 私は首を振る。

 喫煙者も含め、世の中の多くの人間が誤解しているが、喫煙しているからといって、中毒になってるわけじゃない。


「煙草は、この時間に、この場所で、1日に1本、って決めてる。出勤しない日は、ここに来られないから、その時は吸わない。それがマイルール」

「……雨の日は?」

「ああ、その場合も来ないね。梅雨時なんかは、しばらく吸わない期間が続くこともある。良くないんだけどね……せっかくの煙草が湿気て、味が落ちるから」

「辛くないんですか? 手が震えたり、イライラするって聞きますけど」

「ならないよ。だから中毒じゃないんだって。マイルールとは言ったけど、気分が乗らないときだってあるし、新しく買うのを忘れ続けて、普通に過ごす時もあるよ」

「じゃあ、そのまま、やめちゃえばいいのに」


「やめないよ」

 と、私は言った。

「好きだからね」


「そんなのの、どこが?」

「答えてもいいけど……そういう質問をするからには、理解しようとする姿勢がなくちゃいけないよ」

「理解する……?」

「んー、まぁ『こいつは頭がおかしい』『普通じゃない』『間違ってる』って頭から否定するんじゃなく、『まぁ、そういうこともあるか』くらいに考える、ってことかな」


 少女は少し思案してから、こくりと頷いた。

 私は、肩をすくめた。


「煙草が甘い、って言ったら、信じる?」


 少女は首を横に振った。


「甘いんだよ、本当に」

「でも、焼けてる、煙でしょう?」

「もちろん、最初は苦いだけだよ。でも、何度も吸ってるうちに、だんだん嗅ぎ分けられるようになってくるんだ。酒と同じようなもんさ」

「煙草に、お酒って……いかにもダメな大人って感じですけど」

「ま、否定はしないよ」


 とにかく、と私は先を続ける。


「だんだん自分の嗅覚、味覚……そういう部分が研ぎ澄まされていく、っていう感じだよ。苦い中に、アーモンドやコーヒーの香り、シナモンのニュアンス、スパイスの風味を、発見できるようになるわけさ。これが、実に面白いんだね」

「普通にコーヒーを飲んだり、アーモンドをかじったりするわけには、いかないんですか?」

「あはは、そりゃまぁ、そうなんだけどさ」


 それじゃサプライズがないじゃないか、と私は言った。

 味の良い悪いは別にして、コーヒーからはコーヒーの味がするし、アーモンドからはアーモンドの味がするものなのだから。


「そういう味わいをね、煙草っていう、ろくでもないものの中から汲み取るのがいいんだ。大量の砂の中から、砂金を探して、選り分けるみたいでさ」

「サプライズ……」

「そうさ。生きるには、そういうの、必要だろ?」


 出会い、発見。

 漫然と歩きながら、ふと意識に留まる、予想の外からくる何か。

 心の琴線に触れ、揺り動かすような、驚くべき──


「私にとってさ、人生なんだよ、煙草って」

 と私は言った。

「人生をね、ギュッとコンパクトにパッケージしてあるんだよ。燃やして、味わうために」


 少女は黙っている。

 どんな顔を、しているのだろう。


「ロクでもないだろ、人生なんて。理不尽で苦しい、最低の代物だよ。ぜんぜん思うようにならない。生きてるってだけで、誰かを傷つけたりもするしね」

 どんなバグだよ、と私は笑った。

 事故めいた苦い事物が、あまりに多すぎる。

「でもさ、それはイコール不幸じゃないんだよ」

 私が思うにね、と、私は言った。

「人生がろくでもないってのは、当たり前のことさ。コーヒーを飲めばコーヒーの味がするくらい、当たり前のことだ。でも、ほとんどの人は、そのことに気づいていない」


 だから待っている。

 幸せは、いつか自分にも回ってくるからと。

 周囲の人々が、次々に幸というボールを受け止めているなら、そろそろ自分にも、パスが回ってくるのではないか?


「勘違いだね。当然、期待は裏切られて、彼ないし彼女は、人生に落胆する」

 そして見切りをつけてしまう。

 ここには、どうも、素敵なものは見当たらない。


「……そう思うことが、愚かだって、ことですか」

「別に? 当人は本当に傷ついてるんだし、悲しみに暮れるのは当然だと思う。寄り添ってあげたいって思うけどな」

「嘘。だって、そんな突き放したものの言い方」

「いや、だって。相手が心底から、もういい、って諦めてしまったなら、他人にできることなんて、ないだろうよ」


 結局、自分の人生に向き合えるのは、自分だけだ。そこに介入できると信じて、独り相撲を取ることほど、傲慢で滑稽なこともないだろう。


「私は、ただ見守ることしかできない。ただ、もったいない、って思うだけだ」

「命を粗末にすることがですか」

「人生だよ」


 感覚を磨き、研ぎ澄ます。

 ろくでもない不幸にまぎれた、小さな幸の一つひとつを、選り分け、汲み取りに行く。

「そうすれば、草の燃えるわずかな時間が、至福のひと時に変わることもある」

 不思議で、不可解だ。

 でも、それが、たまらなく面白い。

「コツさえわかれば、味わい深いんだよ、案外」


 それを、理解した上で。

 クールに嗜むも、下品に吹かすも……やっぱり、吸わないも。

 人それぞれ。

 そんなスタイルを、他の誰かが、眩しく見たり、醜悪だと顔をしかめたり、立派だと褒めそやしたり、可哀想だと、涙したりするのだ。


「人生、か……」


 少女がつぶやく。

 私はシガーケースを開け、彼女に差し出した。


「1本、いかが?」

「…………」


 今度は、少女は顔をそむけなかった。

 つやつやとした、細くきれいな手を上げて、卵型の爪の先で、紙筒を摘まもうとする。


 私は、ぱたん、とケースを閉じた。


「何歳、君?」

「……17」

「じゃ、まだ早いね」


 私はベンチから立ち上がった。少女は憮然とした表情で、私を見上げた。


「やっぱり、からかったんだ、私のこと」

「違うよ、あげるのは全然かまわない。でも、今の君に吸わせるのは法律違反だ。それに、昼休みが終わる。私は仕事に戻らなきゃならない」


 ルールに則って、くそつまんない仕事に。

 大人だからね、と私は肩をすくめる。


「3年後なら、くれるってことですか」

「いいよ」

「この時間、この場所で、1本だけ?」

「だね。人の習慣なんて、そうそう変わらない」


 私は、出入口を目指して歩いていく。背中に、声が投げかけられる。


「忘れちゃうでしょ。私のことなんて」

「かもねぇ。でも、お互い様だろ」

「私も?」

「3年の間に忘れてるよ。こんな変な、おばさんのことなんて」

「そうかな」

「きっとね」


 だって、こんな思い出を振り返る余地もないほど、いろんなことを積み上げる。


 山ほどの苦しいこと。それを霞ませるほどの、素晴らしいこと――


 非常階段へ続く、ドアを開ける。

 私は、そうそう忘れてた、と振り向いた。


「煙草なんて、やめときな。ろくなもんじゃないよ」


 私は、するりと屋内へ身を躍らせ、ドアを閉めた。


___________________________________________________________________________



 会社の入っているビルの、狭い階段を、えっちらおっちらと上る。

 目指すは8階。屋上だ。

 あの日から、3年が経った。


 少女とのやり取りは、今も克明に思い出せる。意外と忘れないものだ……あるいは私が、年を取ってしまったという証明だろうか。


 あの後、少女が屋上に現れることはなかった。

 飛び降り事件があった、なんて話も聞かない。ビル周辺でも、少し離れたどこかでも。


 とはいえ遠く離れたどこかで、ついに実行に移した可能性は、否定できない。チベットの山奥とか、アルプスの頂なんかから。だとすれば、私に、知る術なんて、無いのだけれど。


 私は屋上を目指す。

 習慣は、変わっていない。毎日、同じ時間に同じ場所。1日に1本だけ、くゆらす特別なひと時。

 だから、行く。それだけだ。


 一方で頭には、あの日の別れ際の会話が、こびりついている。


「さぁて、妙なことは、起こるかな」


 1階の給湯室の窓は、出勤した時に開けておいた。今では鍵も新品で、動かすのにコツのいる凝ったやつに変わっている。


 私は、少女のことを思う。

 当時、17歳。

 一度は人生に見切りをつけた少女が、けれど、なにかを探そうと思い直して。

 3年間。

 そして?


「よいせ──」


 私は、屋上に続く、ドアを開けた。

 光があふれ、風が吹き込む。

 抜けるような快晴に、目がくらんでしまう──


 私はシガーケースを開けた。そして煙草を唇に挟み、火をつける。


「やあ、そうか」


 私は、舌の上で、煙を転がした。

 ひどい苦さに、私は、思わず笑ってしまう。

 立ち上る紫煙が風にさらわれ、虚空に広がって、溶けていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

デイ・イン・ザ・スモーク~屋上で少女に出会うとき私の語ること~ 飯塚摩耶 @IIDzUKA

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ