第6話 エドの怒りとジゼルの悲しみ
エリックと別れた後、エドは衣料品や雑貨店が並ぶ方の通りを歩いていた。ジゼルとの待ち合わせまで、まだ時間がある。その間に後で買うであろう服の品定めをしようと思い立ったのだ。
アングラード伯爵が治めるイファヴァールの街。街の経済の一端を担うポラム市場は管理が行き届いており、服飾品も食料品も置いているものの質はいい方だ。
幾つか並ぶ店を通り過ぎたエドの瞳に、ちかりと反射した眩しい光が入り込んだ。引き寄せられるように顔を向けると、靴屋の隣に装飾品を扱う店があるのが見える。先程の光はこれかと、店先に並べられたアクセサリーへ落とした視線がある一点で止まった。
無意識に手に取ったのは、金色の繊細な細工が施された髪留め。絡み合う蔦のような植物に一輪の小振りな花が模されている。
ほとんど前触れもなく、その髪留めをしたジゼルの黒髪が脳裏に浮かび、エドは少し慌てたように髪留めを戻した。
それなりに美しい細工の髪留めだったが、さして珍しいと言うほどでもない。それでもその髪留めを手に取ったのは、ジゼルを思わせる植物が模られていたことと――その色が自分の髪と同じ金色だったからだ。
そう理解してしまうと、自分がひどく子供じみた願望を持っていたことを赤裸々に暴露された気分になり、エドは居たたまれなくなって足早にその店の前から去って行った。
待ち合わせの場所についたのは、正午を少し過ぎた頃だった。さっきと同じベンチに座り、行き交う人の波をぼんやりと眺めていたエドの視界にジゼルはまだ映らない。
セイラス広場で午後の市が始まるのは今から一時間後だ。その間に昼食を取る人でポラム市場は再び活気を取り戻し、エドにとっては懐かしいガヤガヤとした喧噪に包まれる。
どこそこの飯屋が美味いだとか、ラファナ市で目当ての商品をやっと手に入れただとか、そう言った言葉の波を何気なく耳にしていると、ふと他とは違った空気を孕んだ男の声が聞こえた。
「なぁ、さっきの本物なんじゃねぇの?」
「あんな弱っちい女が魔女なわけあるかよ。髪も半分赤かったじゃねぇか」
弾かれたように顔を向けると、目の前を若い男が二人通り過ぎていく。手に持った小袋からは金属音が響き、袋の口を開けて中を確かめた男の顔が下品に醜く歪んだ。
「お、意外とあるじゃん。昼間っから飲み放題できるぜ」
鳩尾の辺りが重く不快な熱を持つ。呼吸するだけで体が怒りに震え、周囲の喧噪さえ全く耳に入らない。ただ男の卑しい笑みと不穏な言葉だけが、エドの脳内でぐるぐると木霊した。
ぎりっと強く唇を噛んで立ち上がり、人の波に飲まれて市場の向こうへ消えていく男の姿を目視したエドが、一歩足を踏み出した。
「エドさん。遅くなってすみません!」
背後に聞こえたジゼルの声に、エドが勢いよく振り返る。――そして、目を
フードからはみ出した三つ編みは乱れて解けかかっており、街に行くからと言って着てきたジゼルの一張羅は泥だらけだ。加えて頬の擦り傷からはじわりと血が滲み出ている。
一目で何かあったと分かるのに、ジゼルはいつもと変わらない調子で少し困ったように笑うとエドに向かって頭を下げた。
「エドさん……あの、すみません。ちょっと転んじゃって、売上金を落としてしまったんです。なので……その、エドさんの服が買えなくて」
「何があった」
「えっ?」
見当は付いていたものの、敢えて問う。なぜだか分からなかったが、己に対する理不尽な行為に対してジゼルが怒る姿を見てみたいと思った。
「……今日は人が多くて、足を取られてしまったんです。いつも森にいるから、人混みに慣れてないんでしょうね」
眉尻を下げて薄い笑みを貼り付けたジゼルに、エドは無性に腹が立った。
魔女であるがゆえに、恐れ蔑まれる。それを当たり前だと諦めて、嫌悪や差別の目で見られることを受け止めてしまっている。
他の人間と同じではないのだと、同じでいてはいけないのだと自分を卑下するジゼルの姿は、森にいる時と比べると滑稽なくらいに怯えて震える小動物のように見えた。
「お前は先に戻っていろ」
「エドさん?」
「二度は言わん」
そう言い放つと、言葉を詰まらせて固まったジゼルを置いて、エドは一人市場の向こうへと大股で歩いて行った。
残されたジゼルは、暫くの間そこから一歩も動くことが出来なかった。
エドを怒らせてしまった。
家に戻ってから、ジゼルはずっと椅子に座ったまま固まっていた。
市場で別れたエドの、氷のように冷たい表情が頭から離れない。少しの熱も持たないアメジストの瞳が、ジゼルを軽蔑したように見下ろしていた気がした。
魔女である自分が人からどう思われようと仕方がない。それが魔女なのだと、今までジゼルは自分にそう言い聞かせてきた。
けれど今日、初めて怖いと思った。
エドの態度にではない。エドに嫌われてしまったのだと思うと、胸の奥が今まで感じたこともないくらいに切なく軋んでいく。
エドはもう、ここには戻らないのかもしれない。
家の扉が開く音に顔を上げると、傾いた太陽の光に照らされた影がジゼルの足下まで伸びていた。逆行でよく見えない表情は、何となく顔を合わせづらかったジゼルにとってはささやかな救いだ。
「……エドさん」
戻ってきてくれた安堵感と、怒らせてしまったと言う不安がない交ぜになり、それはジゼルの視界を意図せず緩く滲ませる。
戸惑いがちに名を呼ぶと、ひどく掠れた声が零れ落ちた。
「何だ、その呆けた顔は」
アメジストの瞳を細めて怪訝にジゼルを見ながら、エドが両手に持っていた荷物をテーブルの上に置いた。
袋の中には肉や小麦粉などジゼルが買おうと思っていたものの他に、甘い香りのする菓子や出来合の冷めたパンなどがぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
「これ……エドさんが?」
「文句でもあるのか?」
テーブルの上に並べられた食料は、確かにかなり量が多い。菓子などの贅沢品も買わなければ少しは節約出来たはずだと思うのに、ジゼルはその菓子の入った袋を手に取ると嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとうございます」
一言ずつ噛み締めるように、この胸をふわりと包む温かい気持ちが届くように、ジゼルはゆっくりとお礼を言ってからエドをしっかりと見上げた。
「今夜はごちそうですね。エドさん、何か食べたいものありますか?」
「肉に決まっているだろう。普段からお前の食事は質素極まりないからな。味付けはこの最高級のハーブソルトで濃く」
「却下です。あんまり塩分濃いのはお勧めできません」
「何だと? 誰が買ってきてやったと思ってるんだ」
いつもと変わらないエドの態度に、ジゼルの心の奥が柔らかく解れていく。
横柄な態度の裏に隠れた、エドの不器用な優しさを知っている。そしてその優しさを向けられている自分は、ひどく幸せな人間だと思った。
いつもよりも数倍豪華な夕食を終えて、二人分のラシャの紅茶をテーブルに置いた。ほんの数日前から始まった二人の生活が、今はもうすっかりジゼルの日常に馴染んでいる。それを当たり前のように飲むエドからも、出会った頃の殺伐とした気配はかけらも感じられない。
ラシャの紅茶と一緒に用意した、エドの買ってきたお菓子をひとつ口に含む。砂糖をまぶしたクッキーの甘さは、昼に感じた絶望にも似た悲しみからジゼルの気持ちをふんわりと浮上させてくれた。
「エドさん」
手に持った紅茶の、赤い
「いろいろと、すみませんでした」
返事はなかったが、向かい側に座るエドの気配が僅かに揺らぐの感じて、ジゼルは言葉の続きをゆっくりと紡いでいく。
「私、魔女は嫌われて当然なんだと、そう思ってきました。他人と仲良く出来るはずがないって。……そう思っていた方が、何かあった時、心に受ける傷はきっと少ない」
ジゼルの言葉を、エドは遮ることも相づちを打つこともしない。笑顔に隠されていた心の内を理解しようとするように、ただ静かに耳を傾けたままジゼルを見つめている。
「ラファナ市で薬を買ってくれる常連さんがいるんです。その人がもし、私が魔女だと知って二度と店に来てくれなくなったとしても、わたしはきっとそれを仕方がない、魔女だから当たり前だと諦めて受け入れると思います。そういう風に、自分を守って生きてきた。……でも」
ふいに顔を上げ、ジゼルが真っ直ぐにエドを見た。
「でも今日、エドさんが同じように私を嫌いになってしまったと思ったら……凄く怖かった。……私、本当は寂しいんだって……一人は寂しいんだって気付いてしまった」
言葉とは裏腹に、エドを見つめるジゼルがひどく優しげに微笑んだ。細められたエメラルドの瞳が、映すエドの姿を僅かに揺らめかせる。
「だから、エドさん。――戻ってきてくれて、ありがとうございます」
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