第7話 雷鳴

「間違いありません。奴でした」


 騎士の報告を受けて、ブライアンの顔が目に見えて青ざめる。やはり生死を確認すべきだったかと悔いたものの、レティラの森深くへ逃げ込んだエドの後を追う勇気などその時のブライアンにはなかった。

 レティラの森には魔女が住んでいる。イファヴァールに浸透しているただの噂話だが、もしも本当に魔女がいるならそのままエドの命を奪ってはくれないかとも期待した。


 力の限り剣を振り下ろした。すんでの所で気付かれてしまったが、あの傷ではまず助からないだろうと判断し、ブライアンたちは森を後にしたのだった。


「本当なんだろうな?」


「金獅子と呼ばれる所以ゆえんの髪は赤毛でしたが、あの鋭い気迫とアメジストの瞳は間違いなくエドゥアール様。森で対峙した時と同じ殺気を感じました」


 ラファナ市で街の警備に当たっていた騎士は、とある酒場での乱闘に出くわした。

 テーブルをひっくり返して尻餅をついているごろつき二人と、まるで汚物を見るような目で彼らを見下ろしている赤毛の男。冷たい炎を湛えたアメジストの瞳を細め、剣の切っ先をごろつきの喉元すれすれに突き当てている。


 酒場にいた誰もが、動けなかった。駆けつけた騎士の男も、酒場を満たす張り詰めた空気に怯えて近付くことすら出来なかった。

 少しでも場の空気を動かせば、赤毛の男の纏う殺気が鋭い牙を向いて襲いかかってくるだろう。さながら獰猛な獅子の前に放り出されたの赤子ように、ごろつきの二人はおろか騎士さえも己の無力を痛感して背筋をぞくりと震わせた。



「男たちの話では、路地裏で一人の女から金を巻き上げたそうです。エドゥアール様はその金を奪い返しに来たと」


「女だと?」


「黒髪で、毛先だけが赤毛の女だったそうです」


 そこまで聞くと、ブライアンの頭の中でパズルのピースが嵌まっていく。

 赤毛の男は間違いなく金獅子エドゥアールで、彼を助けたのはレティラの森に住むと言われていた魔女に違いない。やはりとどめを刺すべきだったと今更になって強く思えるのは、話に聞いた魔女が想像と違ってひ弱な女でしかないと確信したからだ。

 未知の存在に対して想像することで恐怖を増幅させていたブライアンは、恐れていた魔女が取るに足らない存在だと知るや否や気を大きくして下卑た笑みを浮かべた。


「レティラの森へ行く。準備をしろ」


「今度こそとどめを刺しに?」


 暗殺に失敗したブライアンに対して、エドゥアールは二度と気を許さないし油断もしないだろう。ブライアンはエドゥアールを殺す手段を完全に失った。だと言うのに、その顔に張り付いた薄笑いは未だ消えずに醜く歪む。


「魔女狩りだ」





 昨日の晴天から打って変わって、今日は朝から雨が降っていた。いつもは陽光を受けて美しい深緑を輝かせる森も、雨天の空の下では薄暗く少しだけ不気味な雰囲気を醸し出している。

 動物の気配のまるでしない森の中、雨合羽を着て黙々とキノコを採っているジゼルの姿があった。


 雨の日にしか採れない希少な白いキノコは老化を防ぐ効果があるとされ、少々高値でもラファナ市では飛ぶように売れる。昨日の市には間に合わなかったが、乾燥させて粉末にするので来月の市では目玉商品になるだろう。昨夜の食事を奮発してしまったので、気分が塞ぎがちの雨天でもジゼルにとっては非常に有り難い恵みの雨だった。


 夢中になって採っていたので、ジゼルは自分の指先が冷たく凍えていることに気付くのが遅れた。二つ持ってきた籠のうち、一つは既にいっぱいになっている。空を仰いでも灰色の空から時間を読み取ることは出来なかったが、おそらく昼に近い時間なのだろうと推測する。随分と長い時間が経っていると思った矢先に、体が急速に冷えを感じて身震いした。


(ちょっと夢中になりすぎたかも。……一人で来て正解だったわ)


 ジゼルの後を当然のようについて来ようとしたエドを嬉しく思うも、ジゼルはそれをやんわりと断って一人で森へ来ていた。

 普通に動けるようになったものの、エドはまだ怪我人だ。こんな雨の中で体を冷やしては良くないと諭し、昼には戻ると約束して家を出た。そろそろ戻らないと、家に着くのは昼を過ぎてしまうだろう。

 そう思い慌てて踵を返したジゼルの視線の先に――見知らぬ男が立っていた。






 耳を劈く雷鳴が轟いた。

 森全体を揺るがすほどの唐突な雷鳴に、うたた寝していたエドが弾かれたようにベッドから体を起こした。


 いつの間にか雨脚の強まった森は、夜かと見紛うほどに暗い闇に包まれている。黒い森が一瞬照らし出されたかと思うと、再度鳴り響いた雷鳴が家の窓を僅かに揺らした。


 家の中は暗く、ジゼルの気配はない。懐中時計を開くと、時間は昼をとうに過ぎていた。

 数日一緒に暮らしたエドは、ジゼルがそう簡単に約束を違える性格ではない事を知っている。そして作業に夢中になりすぎる性格も知っている。けれどいくらキノコ狩りに夢中になったとしても、約束の時間を三時間も過ぎるだろうか。


 室内の闇が雷光に消し飛ぶ。獣の咆哮のごとき雷鳴が森に響く。

 窓に激しく打ち付ける雨音が、エドの不安を助長した。




 気が付くとエドは家を飛び出し、森の中を走っていた。

 おおよその場所はジゼルから聞いて見当がついている。あの泉の近くだ。


 服が濡れ、背中の傷がずきりと痛む。ぎりっと歯を食いしばったのは傷が痛むからではない。額にへばりついた前髪を鬱陶しそうに掻き上げて、泉の近くをくまなく捜してもジゼルの姿は見つからなかった。

 森に詳しいジゼルが遭難することはない。けれども作業に夢中になって足場の悪い場所へ転落した可能性もある。だとしたら動けずにいるはずだと考え、捜索範囲を広げたエドが更に奥へ走り出そうとした時。


 見覚えのある籠が、木の根元に落ちていた。


 ぬかるんだ地面に、踏み散らかされた白いキノコが無残に広がっている。

 それだけで、エドは全てを理解した。

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